コミュニケーションにおける倫理的態度と非倫理的メッセージ
コミュニケーションを基盤とした倫理に適合する、具体的行動を導き出すことを試みる。この倫理を守る原動力となるのは、コミュニケーションへの意志である。私は、私とかかわるすべての人がこの意志を持つことを信ずる。そうした意志がないのならば、人と会ったり話したり、ネットを徘徊したりするはずがないからである。
コミュニケーションにおける倫理的な態度
これは、コミュニケーションを生み出す内面的な態度と同値であって、コミュニケーションそのものではない。
これは、動機主義である。コミュニケーションは相互の学習を前提にするので、何の考えもなくメッセージを発していてはコミュニケーションが生まれることはない。
これは、社会的には不完全義務である。内面的な態度は他者にはわからないから、強制したり罰して正したりすることはできない。
学習から導かれる倫理
コミュニケーション、ひいては人々の行動の根幹となるのは、「善いと思った行動をし、行動の結果から予測を修正する」という学習の作動である。
学習を可能にし、促進するのは次のような態度である。
固陋にならず、自己の感覚に基づいた学習を行っていること。
自分の感覚を絶対に裏切らぬこと。自分が自分自身でいないのに、自分と他人が関わり合うことはできない。
安冨歩『生きるための論語 (ちくま新書)』における学習や仁、忠恕に当たるものである。
相互学習のコミュニケーションの構造から導かれる倫理
相互学習のコミュニケーションを可能にし、促進するのは次のような態度である。
他者を一個の生命と認めること。生命とは、世界との境界を持ち独自の(不可知の)仕組みをもって世界とかかわりながら動いているということ。
相互の要求を明らかにするよう努めること。
コンテキストを承認すること。コミュニケーションの履歴依存性を認識すること。
自らの感覚に基づいてフィードバックすること。
言語コミュニケーションの構造から導かれる倫理
言語コミュニケーションを可能にし、促進するのは次のような態度である。
言語はコミュニケーションの産物であって、それ自体絶対的なものではないと理解すること。
重要なのは言葉ではなくそこに潜むメッセージであって、常にそれを理解するよう心がけること。(言葉の未熟な者が言葉にできぬメッセージに気を付け、話術に長けた者が言葉に隠すメッセージに気をつけよ。)
コンテキストに対して言語によってフィードバックすること。
コミュニケーションにおける発話は本質的に、現象的(見た、感じた、思った、考えた)か創造的(欲求、要求、願望、提起、提案)かのどちらかであり、いずれも呼びかけを含む。これ以外の断定的、命令的発話は、コミュニケーションにおいては現象学的にか創造的にか解体発展させられるべきものである。
より高次のゲームの構造から導かれる倫理
ゲームを可能にし、促進するのは次のような態度である。
ゲームはコミュニケーションの産物であって、それ自体絶対的なものではないと理解すること。
ルールの形成において協力的な態度で臨むこと。公平を志向すること。
ゲームの進行において競争的な態度で臨むこと。(阿らぬこと)
ゲームがより面白くなるようにルールに対してフィードバックすること。
以上のことが、他者と共にこの世界に在ることを願う人々が行動の指針とすべきものであり、人間の人間性を否定せずに社会を形成することになる指針である。これらは「他者と共に」の信念から直ちに導かれるべきものであり、過ちを避けるための補助線であって、杓子定規に当てはめられるべきものではない。
コミュニケーションにおける非倫理的メッセージ
これは、コミュニケーションを破壊し創発を阻むメッセージの論理的解析と一例である。
こちらは帰結主義であり、従うことは完全義務である。メッセージは他者に伝わった内容によって機能するからであり、伝われば何かしらの影響が発生するからである。
メッセージは、言語やその他の方法で伝えられる。
非倫理的メッセージを取り消すことは不可能だが、自らの誤りを認めて贖罪(フィードバック)することで、メッセージの破壊性を解消し改めてコミュニケーションを形成することはできる。
学習を破壊するメッセージ
コミュニケーションの基礎は各人の学習である。学習は、それぞれの感覚に従って行われる。したがって、
メッセージ「学習を停止せよ」「自らの感覚に従ってはならない」は非倫理的である。
同時にメッセージ「私は学習を停止しています」「私は私の感覚以外のものに服従します」もまた非倫理的である。
類型にメッセージ「この価値観に従え」「お前の望みはこれに違いない」などがある。
相互学習のコミュニケーションを破壊するメッセージ
相互学習のコミュニケーションの継続的な作動は、コンテキストを巡る共同的な活動による。したがって、
メッセージ「フィードバックするな」は非倫理的である。
(フィードバックしない選択肢はある。)
メッセージ「コンテキストを無視せよ」は非倫理的である。
(コンテキストを無視する選択肢はある。)
言語コミュニケーションを破壊するメッセージ
言語コミュニケーションを支えるのは、言語ゲームによる意味の生成と変化である。したがって、
メッセージ「このメッセージの意味はこのようなもの以外ではない」は非倫理的である。メッセージの解釈を許さなければコミュニケーションは単なる記号的な情報処理と命令のシステムと化す。その状態でメッセージが矛盾すれば、ダブルバインドが発生する。
言語コミュニケーションの媒体は言語であってそれ以外でない。したがって、
メッセージ「沈黙せよ」は非倫理的である。
より高次のゲームを破壊するメッセージ
ゲームを支えるさまざまな要素は、どれもそれを巡るコミュニケーションによって常に調整され作り出される。したがって、
メッセージ「ルールはルールである」「フィードバックするな」は非倫理的である。
ルールの形成における協力性とゲームにおける競争性を両立させなければゲームは機能しない。したがって、
メッセージ「ゲームでの競争のためにルールにおける公平性を破壊せよ」は非倫理的である。
メッセージ「ルールにおける公平性のためにゲームでの競争を放棄せよ」は非倫理的である。
非倫理的メッセージに対して行うべきこと
非倫理的メッセージを受け取ったからと言って、その発信者の態度が倫理的でないとは限らない。もし相手の学習回路が少しでも開いているならば、倫理的態度で臨んで、相手の発話を現象的発話や創造的発話に解体発展することは有効である。
学習が閉じていることでこのメッセージが発せられている場合はコミュニケーションが成立しないので、黙って離れることに躊躇することはない。学習が機能していないならばジャガイモと話すのも人と話すのも変わらないのだから、いずれにせよ同じことである。
もし非倫理的メッセージがその発信者の態度を表しているなら、彼はそれ自身で報いを受けている。コミュニケーションの創発を理解できないならば、コミュニケーションの創発によって発生する高次の概念を理解できない。彼は、彼自身の態度によって彼自身の世界のなかで孤独になるのだ。彼がいかに友に囲まれていても、すべての人は彼にとって潜在的な敵対者であり、暫定的に同じくしているに過ぎないのである。
直接的な方法で学習回路を開かせることはできない。それは学習の偽装をつくり出すだけである。よほどの君子ならば、対話などの方法によって彼の学習回路を開かせることができるだろうが、凡人には不可能なので戯れに試みるべきではない。
こうした細かい行動指針に盲目的に従う態度は、学習を阻害するので避けるべきである。しかし、あらかじめこういったことを考えておけば、いざというときパニックに陥らずに済む。とくに、人間をはめ込むのにパターン化したコミュニケーションを行ってくる人物に対しては、まともに対応しようとすると一方的に思考の負荷をかけられてやられてしまう。しかし、間違っていることは間違っており正しいことは正しいのであって、手口とその対処法をあらかじめ知ってさえいればどうということはないのである。