生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

追補:学習しない個体による集団の学習/ダーウィニズム

学習しない個体による集団の学習

 個体が学習しないという条件においても、集団は環境に適応したり新たな形質を獲得したりする。代表的なものが遺伝による進化である。

遺伝子と自然選択

 遺伝子を用いた自然選択による保存と進化を行う生物種はその全体を、個体の生死および生殖の有無によってフィードバックを得るシステムとみなすことができる。遺伝子のシステムは、生物個体が学習によって得る知識を考慮に入れていない。遺伝と変異による学習は、個体が学習しなくても機能する。

 自然選択による生物種の適応進化が前提としているのは、各々が生得的な性質に従うこと(遺伝により形質が決まること)、適応したものが生き残り子孫を残すという自然の摂理、所与のものとして与えられた環境(選択圧)、遺伝子の安定性と変異である。自然選択説において生物個体は生物種の繁栄に奉仕する関係性にある。よりよい変異だけをあらかじめ選んで起こすことはできないから、突然変異によって不幸にも短命に終わる個体がいることは、種のために必要である。畢竟、個体の幸福は問題にされない。

 

遺伝的アルゴリズム

 生物の進化過程における自然選択の仕組みを工学的に応用したものに、遺伝的アルゴリズムがある。生物の進化過程に近いものをコンピュータ上でシミュレーションすることで、複雑な問題の近似解を求めたり、いわゆるAIの学習として利用したりすることができる。

 この示唆するところは、生物の遺伝による学習は計算的に再現可能であるということである。つまり、生物の遺伝的進化の仕組み自体は創発ではなく協同現象によるものである*1

 

自然選択説の社会への転用

 自然選択的学習システムに対するフィードバックは、個体の生/死によってのみ行われる。これを社会に適用して考えるならば例えば次のようになる。

 国内のあらゆる企業がその企業活動をまったく変化させず延々同じことを続けると仮定する(つまり企業が学習しないと仮定する)。その場合でも、事業が成り立たない企業がつぶれていなくなり、新しい企業が常に生まれ続けるのであれば、その国の経済は適者生存によって最適化され続ける。

 

 しかしこの場合、経済主体同士の相互作用は明らかにならず、関係性は全て偶然によって説明される。企業が何らかのメッセージによってその行動を変化させるのならば、適者生存による最適化は機能しない。

 今日人間は、その情報の大部分は遺伝子によって子孫に継承しない。人間は、社会的関係や言語によってそれを継承する。社会的関係は自己再生産し、人は言語による伝達と模倣によって行動を環境に適したものに変化させる。そこで働くのは自然の摂理ではなく、人間の構成する社会の独自の仕組みである。

 

 従って、具体的な社会的関係のダイナミズムや言語による伝達の機序を追わずに、社会のすべてをダーウィニズムに帰して説明するのはあまりに雑である。そういった説明を真に受けた人は、社会や言語といった人類のコミュニケーションについて盲目になり、社会生活を孤独にサバイバルに帰してしまうことになる。次に述べる社会ダーウィニズムは、その言説自体がその仕組みのトリガーとなっているのである。

 

イデオロギーとしての社会ダーウィニズム

 社会ダーウィニズムとは、生物進化論を応用して社会の進化・進歩を得ようとするイデオロギーである。すでに数多くの批判があり歴史的にはその命脈が絶たれているものであるが、愚か者が絶えず持ち出そうとするので、根本的な誤りを批判しておく。

 

①適者生存と優勝劣敗の混同

 自然の法則としての自然選択説が思想としての社会ダーウィニズムに繋がるには、適者生存を優勝劣敗に読み替える論理の飛躍が必要である。適者生存は環境と生物種の関わりを描くが、優勝劣敗は環境要因を捨象する。それによって必然的に、多様な存在との多様な関わり合いの複雑な関数であった生存の条件が、その個体の能力のみの問題となる。

 また、自然選択説を引いて「適応するための変化」を求める者もいるが、遺伝子の変異速度は速すぎれば形質を維持できなくなる。また、適応すべき未来の環境を予知できるのであれば、自然選択説を適用するまでもない。生存のために変化が求められる場面はあるかもしれないが、自然選択説を引くのは適当ではない。

 

進歩史観は適者生存からは導き出せない

 自然選択説はのっぺりした事実であり、単なる結果論であって、弁証法的な進歩史観とは根本的に相容れない。生物種は自然の摂理によって必然的かつ偶然的に環境に適応した者が選ばれるように生存するのであって、進化はある方向に目的論的に導かれるものではなく、その過程には生物の意志や弁証法は介在しない。

 ではなぜ進歩史観と社会ダーウィニズムの親和性が高いのか。その理由は適者生存と優勝劣敗の混同にある。適者生存に必要なのは探索だが、優勝劣敗に必要なのは特定のスコアの最大化である。社会や個人の能力を一次元の評価軸の上に無理やり位置づける短絡的な発想をこの二つは共有している。

 生存するためには、大きければよいわけではない。強ければよいわけではない。より増えればよいわけでもない。その巨体が枷となって絶滅した生物もいる、その代謝能力の高さが枷となって絶滅した生物もいる、繁殖しすぎたことで生態系を破壊し自身の生存前提を失った生物もいる。外的環境とのかかわりにおいて把握されることが重要である。

 

③適応の前提条件である環境を破壊する、人為淘汰の発想

 社会ダーウィニズムによる政策の誤りの核心は、人為淘汰の発想にある。これこそ自然選択説の甚だしい誤読である。

 自然選択説において、環境および淘汰圧は所与の条件であり、それに最も適応した者がその特質を次の代に伝える。環境と淘汰圧に適応した生物種が生き残る。

 一方で人為淘汰においては、淘汰のためにわざわざ環境に淘汰圧を加えようとする。そんなことをすれば何もしない場合よりも過剰に淘汰が起き、社会は人為的な環境に最適化される。人為的な環境と自然の環境の両方に最適に適応することはできない。加えて、ガス室による"淘汰"は言語道断である。それは優勝劣敗ですらなく、ただの一方的な虐殺である。

 もし自然選択説が人間社会にも適用でき、ダーウィニズムによって社会を良くしようと考えるのならば、何もしないのが正しい。社会に対し何も介入しなければ、現に今ある環境に最も適応した経済主体が自然選択されるであろう。これは経済における重商主義に対する自由放任主義の考え方に近い。

 第二に、環境を変化させるほどの能力を持つのであれば、もはや環境に適応しようと努力する必要はない。その能力によって、環境を自らに適応させればよいだけである。そのような能力があるにもかかわらず淘汰しようとすることは矛盾であるし、そのような能力がないにもかかわらず人為淘汰をしようとすることもまた矛盾である。

 

 社会の社会ダーウィニズム:「こんな国は必ず滅びる」

 社会ダーウィニズムの弱者切り捨て、人為淘汰の発想に対し、そのような政策を行う国は必ず滅びる(からやるべきではない)という批判がある。また、そのような政策を国民的合意のもとで行う惨憺たる状況を嘆き「こんな国滅びてしまえ!」と呪詛を吐く者もいる。

 これらの言説を真面目に受け取るならば、これらは優勝劣敗の原則そのものに反論できていないと言わねばならない。国内における優勝劣敗の政策は国際社会における優勝劣敗の原則のために有用ではない、という指摘は的外れではない。しかしそれは、競争の舞台を国内から国際社会に、プレーヤーを個人から国家に移動させたにすぎず、結局は、劣っていたのだから滅びて仕方がないという現状追認に回収される。「ホームレスは死んでも仕方がない」と「『ホームレスは死んでも仕方がない』という社会的認識を持つ日本国は滅びても仕方がない」はパラレルである。

 また優れた国家であったとしても、国家がただ自身の存続のために行う福祉政策には理念がない。その社会では結局、個々の人間は国家のためだけに生かされる。そこにおいて人間存在が引き起こす現象は国家システムの維持と再生産だけに限定される。

 

 従って、社会的ダーウィニズムに対して正面から論駁するのであれば、そのような優勝劣敗的な競争の世界観そのものを廃棄する、包括的な論述が必要である。すなわち、単一の価値軸そのものを廃棄しなければならない。それは同時に対極をなす相対主義的な価値観をも滅ぼし、複雑な多変数関数の連立方程式が織りなすカオスをよみがえらせるであろう。

*1:安冨歩生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)』第四章における、創発と協同現象の違いの下りを参照のこと