生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

3.存在の無(1)自己再帰と自己意識

肯定的な弁証法

 我々はここまで、エンゲルスの自然弁証法のようなことをやってきた。つまり、量子論的な揺らぎ、偶然性がそのマクロな系においては統計的な物理法則という必然性をつくり出し、物理法則に従う諸々が構造と生命をつくり出し(量の質への転化)、必然は偶然に、偶然は必然に転化し(対立の相互浸透)、等々。そして最後に、自己意識の再帰性が我々を独立した実存としてその階層的な世界につなぎとめる。しかし、以上のような言明は、まったき肯定性のなかに留まっており、我々が目標とする「否定的なもの」を何も語りはしない。

 そして、自然界に存在するように見える階層性は、その物理化学的な挙動を見ればそれぞれ全く異なる仕組みによって創発したものであり、それらを貫く自然法則は存在しない。それらの階層性を貫く共通性は、唯物論的法則として存在するのではなく、一連の論理階型に、つまり人間の理性のカテゴリにある。理性なしには、世界は無限の変化と差異を抱えた混沌である。従って、エンゲルスの自然弁証法は、認識論上のカテゴリを実体の性質と誤認する、哲学史においてお決まりの過ちを犯していると言える。*1

 私が自然科学の知識を参照したのは、そこで直線的な因果律の実体一元論から偶然性と情報を扱う複雑な生物が創発している事実を示すためであって、それ以上ではない。自然科学によって明らかにされる事実を無媒介に社会科学や哲学に適応することは、それこそ論理階型上の区分を侵犯をしている。

 

現れと現象学の前提としての再帰的認識

 前章の最終節にて、「世界はなぜ現れるか?」という哲学史的な問題の本質は、「世界はなぜ現れとして現れるか?」にあるとした。犬にも猫にもウニのトゲにも世界は現れている。彼らは、外界の状況を認識し、それに応じた行動をする。これは特別不思議なことではない。しかし彼らに対して世界は、現れとして現れることはないだろう。つまり、彼らは自分の意識について知ることはないだろう。彼らに対して世界は現れているが、彼らはそれが現れであることは知らないのである。

 世界が現れとして現れるのは、認識が自身の認識について認識するときである。このとき、認識に伴う情報の流れは、一つの再帰的なループを形成している。これが哲学的な諸問題の根源である。

 この再帰的な把握によってはじめて、認識論的、現象学的な思索の領域が開かれ、一つの基礎付けを可能にする。カントやフッサールが行ったのはこのようなことである。*2

 この再帰的構造は、ハイデガーにおいては現存在の定義において現れている。曰く、現存在とは、じぶんの存在においてこの存在自身が問題であるような存在者である。

自然科学を通じて形而上学・純粋な論理の領域へ

 再帰的な認識、認識についての認識は、もはや物理実体的な研究対象ではなく、抽象的な情報の流れや論理構造である。自然科学から出発した我々はここでようやく、正当な形而上学の領域にたどり着いた。形而上学の対象は、外的な客体ではなく思弁である。ゆえにこれから我々が行うのは、思弁についての思弁である。

 ヘーゲルハイデガーが形式的、数学的論理を自らの哲学を担えないものとしたのは、分析哲学の派閥からは非科学的命題を押し通すための言い逃れに映っていた。しかしいまや、次のように言うことができる。つまり、彼らの思考に含まれる再帰性、自己言及性を、従来の形式論理は許容しないのだ。しかし、人の意識はまさしく自己言及的なのであって、その全容を解明するためには、自己言及を記述できるように拡張された論理系が必要なのである。

 

否定性とその再帰を巡る

 再帰性に深入りする前に、これまでの到達点から出直そう。われわれの今の目的は、哲学をすることではなく、自然科学を哲学に接続することにある。

情報と否定性

 前章で、スピノザヘーゲルの「規定は否定である」という命題を情報と結び付けて論じた。情報は、無限の要素からなる世界から特定の要素だけを選び出し(それ以外の要素を捨象・否定し)、「ほかの何でもないこれ」として限定するものである。

 情報は「違い」を生みだし、システムの惰性的な必然の連鎖に切り込みを入れ、その未来を宙吊りにする。すべてを支配していた肯定的な因果の連鎖は、この切断点で否定され、その帰趨が情報に委ねられる。

 認識とは、このような否定性である情報の、主観的なはたらきである。逆に言えば、否定できない領域にあり、「違い」を生みださないものは、認識の対象ではない。

 この観点から言えば、そもそも認識それ自体が否定神学的な調子を帯びている。否定神学的でない学とは、ようするに情報の枠組み抜きに真理に到達できると考える狂信にほかならない。こうした直接的真理の次元は、我々が世界と関わるのが情報においてのみである以上、あらかじめ失われている。

否定性についてのいくつかの神話的主題

 再帰以前の、情報(≒否定性)のもたらす効果を示すために、いくつかの神話的主題を挙げよう。

 まず一つ目は、死についてである。

 多くの動物たちにとって、自分自身の死は直接的肯定的な現実である。死は彼らの物理的システム的組成にすでに組み込まれており、死の存在が彼らの行動を変化せしむことはない。彼らは捕食者や脅威を認識し逃れることができるが、死そのものについてはどうすることもできない。ゆえに、死を認識も理解もできない。認識は情報「違いを生む違い」の枠組みの上でのみ可能であるのに、死は「違いを生まない」だからである。

 他方、人間にとって死はそれを覚悟し、理解しうる。例えば、国外逃亡ではなく毒杯を選んだソクラテスを考えてみよう。このとき、死は選択肢として意識の俎上に載っていると同時に、「違いを生む違い」として意味を持つものである。ソクラテスは自らの生ではなく死を選び、それをもって不正ではなく法を選んだ。このとき、自らの死はもはや意味や理解を欠いた直接的現前ではない。

 ここで、ソクラテスのように実際に死を覚悟することは重要ではない。死を覚悟できずとも、死を覚悟しうる余地があることが人間の認識世界に変化をもたらすのだ。

 死を覚悟しうる余地は、ここで挙げる二つ目の神話、「主人と奴隷の弁証法」の議論に重要な要素として表れる。主人と奴隷の弁証法とは、他者からの承認を求める二者の相克が死を賭けた競争的対立を経て相補的支配関係を発生させ、支配関係がまた逆転に至るまでを描いた一つの神話である。

 承認を巡る競争的対立は、妥協の余地がある利益を巡る対立とは異なり、互いの全存在を賭けた全面的な競争に発展する。ここで死を覚悟して闘わなければ相手の一方的な勝利を認めることになる。しかし、死を覚悟すれば直接に死を呼び込んでしまう。相手を殺してしまえば相手からの承認は得られないし、自分が死んでもまた同じである。

 死を覚悟しようとするが、それができない。自ら敗北し奴隷となった者は、まさにその挫折によって、「死を覚悟しさえすれば」という余地に、絶対的自由というイデアを見る。他方、主人のほうの自由は、奴隷が自分よりも一瞬早く退いたという偶然の事実に直接的に依っているのみである。

自己規定としての否定性

 主人と奴隷の弁証法は、我々に自己規定の契機をも指し示す。このとき、主人と奴隷の双方は否定的な形で相手から自己規定を受け取る。奴隷は主人に自由な主体を見出し、その否定「自由ではない者」として自身を定義する。主人は奴隷に隷属を見出し、その否定「隷属していない者」として自身を定義する。これらは対称であっても同じではない。主人を規定する「隷属の否定」は何の肯定的な理念も示しはしない。一方奴隷は、否定された形で、自由という肯定的な内容を含む理念を得る。

 一般化して言えば自己規定は、「私は(ほかの何でもなく)これである」という、否定の形式を含んでいる。これは、情報の性質としてアプリオリに言えることである。

 しかし(ほかの何でもなく)という契機は、情報の形式の性質であって、その内容のものではない。したがって、(ほかの何でもなく)という契機は意識の内容においては失われ、「私はこれである」という見かけの肯定的=即自的存在に陥る。奴隷は、自らを奴隷とした選択を忘れ、自由の余地を忘れ、規定に含まれる否定性を隠蔽し、「私は奴隷だ」と直接肯定的な自己規定をするようになる。これは、サルトルにおける「悪しき思い込み」である。

否定性の再帰

 個別具体の規定においては、否定性は暗黙の裡に留まっている。しかし、規定一般を明確に規定しようとすれば、規定を規定する=否定を否定することになる。実のところ上での議論は、ここではじめて得られるものである。

 ここで我々が得たのは、「規定(それは否定である)は、(肯定ではなく)否定である」という明示的知識である。これは単に無意味なトートロジーではない。ここで我々は、規定の中で「あるものは、(ほかの何でもなく)これである」という形で暗黙にはたらいていた否定を、規定の一般において明示的な(肯定的な)概念として「否定的なもの」として取り出しているのである。

 同じようにして、自己規定一般を規定する、自己意識一般を意識すれば、「私=自己意識は、(ほかの何でもなく)この『ほかの何でもなさ』である。」ということになる。この「私=何でもなさ」が、ヘーゲルの自己意識における否定性、サルトルの〈存在の無〉、根源的否定である。

 このようにして、否定的なものが否定的なものとして現れるのは、再帰の効果であることが分かる。人間特有の生における虚無感はこのためなのである。

 しかし同時に、無の効果、無化の力自体は認識の基礎的前提でもある。それは世界を切り取り規定する力であって、我々が生きていくためには、この否定的なものを手放したり厄介払いしたりするわけにはいかないのである。

 ところで、ここでは「否定的なもの」は未だ超越論的な抽象に留まっている。それは概念の操作によって見出されているに過ぎない。「否定的なもの」を具体的で自然科学的な現象として捉えるために、われわれはこれを意識の過程として経なければならない。意識の過程とは、情報の取得と処理の過程であって、それは学習に他ならない。次節ではこれについて議論する。

*1:エンゲルスの名誉のために言うが、彼だって20世紀中盤以降の生物学・生態学の知識があれば、唯物弁証法などという戯言ではなく、有機体論についての蘊蓄でマルクスの理論を補ったであろう。悲しいかな、エンゲルスは生きる時代が早すぎたのであり、後世の教条主義的なマルクスエンゲルス主義者たちの知的怠慢によって、自然弁証法複雑系科学の先駆けではなく、時代遅れの戯言に位置づけられてしまったのだ。

*2:現象を、正確に言えば現象に対する認識を純粋な出発点とした方法からみれば、私が今行っている自然科学の方法は根拠づけられていないことになる。しかし、今の私の目的は、現象学によって自然科学を基礎づけることではなく、自然科学によって現象学の実体的な前提を擁護することである。この作業は、認識論や現象学それ自体には必要がないが、自然科学の立場からそれらを位置づけるためには必要である。このような再帰的な認識の構造が実現されてはじめて、世界が世界として、現れが現れとして把握されうるのだから。