生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

二者間の相互学習/ハラスメント

 前回の記事では、個人の行動選択における学習の機能を述べた。今回は、二つの学習する主体が相互に関わり合う場合を考える。

 

相互学習のプロセス:コミュニケーション

 それぞれの学習の動作は、前回の記事で述べた個人の学習の動作と変わらない。価値の予測に従って行動し、行動の結果から予測を修正する。行動の結果は自らの感覚によって評価される。これによって、より自らの感覚にとって良い行動をとるよう学習していく。

 しかし、自然物を相手にするのとは異なり、二者間の相互学習では相手も学習によって行動を変化させる。私の行動が相手に行動を促し、相手の行動を結果として私は学習する。学習した結果次の行動を私が行うと、相手はその私の行動を自らの行動の結果として受け止めて学習する。このようにして互いに入り組んだ形で相互学習が行われ、両者間に不完全な相互理解を含んだ特殊な関係性が発生する。この関係性は、個体の行動原理に解消できない、新たな原理を伴う、新たな階層の現象である。これをコミュニケーションと呼ぶ。しかるに、コミュニケーションは依然として人間の独立した個人としての自由を前提としているが、もはやそれは自由によって説明することはできない。

 もしこのとき、各行動における双方の効用関数があらかじめ明らかなのであれば、コミュニケーションは既存のゲーム理論に回収され、条件次第で対称的なあるいは勾配のある協力-裏切り関係によって説明されるか、両者の行動が一意に決まる。しかし、実際はそうではない。

 ここでも重要なのは、真の価値があらかじめ明らかでないということである。そのために両者は、それぞれの行動を通じて探索・学習する。このときの行動が、互いの学習に影響を与え合う。学習しない存在を相手にする場合、基本的に同じ行動からは同じ結果が予測されるが、相手が学習する存在であると、自身の行動によって相手の行動に影響を与えることになるので、同じ行動を繰り返したからといって同じ結果が期待できるとは限らなくなる。むしろ、その履歴依存性が特筆すべき特徴として現れる。それがコンテキストである。このため、コミュニケーションは常に流動する。コミュニケーションの「場」とは、コンテキストの時間変化を捨象した概念である。

二者間のコミュニケーションにおける認識の対称的な非対称性

 予測に従って行動し、行動の結果を受けて予測を修正する。学習は結果から予測を修正することで一度完結する。しかし、これが他者との間で行われる場合、他者にメッセージとして伝わるのは行動であり、結果を受けて予測を修正した内容ではない。一方では「善かれと思ってやったがまずかった」と学習したことを、相手方は「相手は善かれと思ってやった」と捉える。それがのちに反省の対象となるのにもかかわらず、他者を前に人の行動は、それ自体が自身の良心を示すものとなる。行動は、「その行動が善である(と自分は思っている)」と宣言するのと同値になる。

 これが、人間の自己認識とその実際のすがたとを引き裂く。この自己の裂けは、独我論を採用して世界にただ一人生きている限りは起こらない。それは、他者の存在を認め、他者との間でコミュニケーションと相互学習のうちに生きることによる。従って、この裂けを免れる方法は二つある。第一は、その世界から学習する他者を抹殺すること。第二は、自身の学習を停止すること。前者はサディズムであり、後者はマゾヒズムである。

コミュニケーションの流れに対するフィードバック:贖罪

 自己の裂け目から逃避せずこれと向き合うならば、自らの学習したことを他者に伝えるための行動が要求される。すなわち、贖罪である。贖罪によって自らの誤りを認めたことを表明すれば、自己と他者の認識の裂け目が埋められ、後ろめたさはなくなる。贖罪は、言語に依存する謝罪とは異なって、非言語コミュニケーションにおいても成立する。例えば、いたずらした飼い犬が申し訳なさそうな態度をとることは非言語ではあるが、自らの行動が良い結果を招かなかったという認識の表現として成立している。全体の過程は「予測→行動→結果(客観的結果や飼い主の行動)→学習(予測の修正と再予測)→贖罪(行動)」となっている。

 贖罪という行為なしには、コミュニケーションの流れは極めて脆い。誤りは学習において不可避な要素であるにもかかわらず、しばしば一つの過ちが関係を不可逆に断絶させる。

 贖罪によって各々の学習をコミュニケーションの流れにフィードバックすることで、コミュニケーションのコンテキストは相互の合意的な行動規範、持続的な間主観性、一種の絆を生み出し、しなやかな強さを獲得する。言語やジェスチャーなどの記号的な伝達手段は、このコミュニケーションに対するフィードバックによる合意の形成と確認に基づいて形成されていく。

 

ハラスメント

 相互学習を前提としたコミュニケーションにおいてハラスメントの発生の可能性は不可分にあり、これを論じずにおくことはできない。ここでの議論は安冨歩による一連のハラスメント論に依拠し、私なりの視座と解釈の提供を試みる。

 

ハラスメントの定義論

 ハラスメントは、ただの暴力ではない。厚生労働省や各団体の定義に挙げられるような「不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与える」ことは、それ自体では単に暴力であり、ゲーム理論における「裏切り」的行為である。相手が裏切るのであればこちらも裏切るのが正常なゲームの展開であり、そのようにして両者は敵対的になる。最終的には暴力を振りまく人間からは人が離れコミュニケーションが消え、ゲームそのものが解消される。しかるに、社会において暴力は存在せず、ただ暴力は社会の終焉を告げる。

 しかし、現実はそうなっていない。ハラスメントの核心は、暴力が発生していながらそれが暴力として認識されず、その社会系が存続し、人間を傷つけ支配し続ける点にある。

 

ハラスメントの契機

 コミュニケーションは、互いに未知の価値を探索して学習する過程である。しかしここで、片方(仮にプレイヤーAとする)があらかじめ決まった価値の基準を持っているとしよう。つまり、プレイヤーBは通常通り学習によって価値を探索するのに対し、プレイヤーAは、コミュニケーションから最大限の価値を引き出そうと行動する。このときプレイヤーAによって行われるのは、単純な取引や駆け引きによってコミュニケーションの枠内での利益を最大化するためのゲームではない。行われるのは、コミュニケーションそのものから利益を引き出すためにプレイヤーBの学習を誘導する、メタ・コミュニケーション・ゲームである。

 このコミュニケーションへのフィードバックのゲーム化がハラスメントの契機であると私は考える。しかし、これはまだハラスメントと言うには十分でない。

 先に述べたように、メタコミュニケーションゲームは、他者の学習を誘導するゲームである。安冨歩複雑さを生きる』の中で解説されているように、メタレベルの操作は必ずしもハラスメントではなく、動物の調教やひとの教育の場面などで行われる。調教も教育も、対象を何かの存在に仕立て上げようと試みる点を見れば支配的であるが、実際のコミュニケーションにおいて相互学習し価値の基準を修正していく余地があるのならば、そしてその余地を両者が認識しているのであれば(これが信頼関係の内実であろうと考える。それは、相手に学習の姿勢があるという信念が相互にあるということである。)ハラスメントとして問題にはならないし、破壊的な影響をもったりはしない。例えば、イルカが練習の中で独自に芸を編み出し、調教師とともにショーで披露したり、教師と学生が授業の中で議論を重ね、前人未到の真理にたどり着いたりすることができる。

 

支配状態の維持

 事前に与えられた価値基準を更新する余地がない場合、人は価値基準に支配されることになる。この際、支配者もまた価値基準によって支配されている。しかし、通常ならばそのような関係は長期的に維持しはしない。

 両者が価値基準に支配されていて学習しない場合、コミュニケーションは成立しない。この場合は両者が価値基準を持つのでゲーム理論に回収され、論理的に必然のやり取りだけが発生する。この場合、実体的な権力の非対称性から支配関係が発生する場合はあるが、ハラスメントは発生しない。

 双方が学習する場合、両者の価値基準はコミュニケーションによって変化していくから想定が成立しない。

 片方が学習しもう片方が学習しない場合、学習する側が正常に学習するのであれば、いずれ相手側が学習していないことを学習し、コミュニケーションを打ち切るであろう。この場合、ハラスメントの状態は長期的に維持されない。

 従って、ハラスメントを仕掛ける側がその関係を長期的に維持し、長きにわたってその関係から利益を得るためには、相手の学習の運動は維持しつつ、それが何をも生まないようその総合の作用を防ぐ必要がある。つまり、相手を永続的な混乱に陥れなければならない。相手が価値基準を持って思考停止してしまえば取引はできてもその価値基準に反する要求を飲ませることはできないし、相手が学習していればこちらの悪意が露見するからである。学習が作動している相手を混乱に陥れるには、相手の学習能力に高度の負荷をかけ続ける必要がある。既知の手段としてはダブルバインドが挙げられる。矛盾したメッセージによって負荷をかけるのである。

 

ハラスメントにおける言語の役割

 ここまでは、非言語的なメッセージによってのみ行うことも可能だ。ベイトソン精神の生態学』では、犬に対して二枚のカードを用いてダブルバインドに陥れる実験が紹介されている。

 しかし、混乱をつくり出したうえでこちらの意向を伝えて思うがままに動かさなければ、相手を破壊することはできても利益は引き出せない。このためには、言語は不可欠である。要求の伝達は言語なくしても可能であるが、命令は言語によって可能になる。言語は、相互学習のコミュニケーションによって合意的に形成される意思表示のための記号であり、独自の仕組みを持つゲームを形成し、またそのゲームによって形成される。これが言語ゲームとしての言語である。すなわち言語は、相互学習のコミュニケーションから発生する新たな階層にある。ハラスメントにおいては、この独自の階層が、その前提となっている前段階の階層の作動すなわち個々の学習を侵犯し服従させるという現象が起こっている。