生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

方法的懐疑から合理的な神秘主義へ――いかにして「信じる」ことは正当化されるか

 安冨歩はその著書『合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)』や『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)』のなかで、マイケル・ポラニーの思想などを背景に、懐疑主義に基づく近代思想を退け、「信じる」ことに依拠した道を進むことを訴えている。

 

 

 

 私はこれまで、方法的懐疑や分割・分析などのデカルト的伝統に基づく合理主義に問題があることは理解しつつも、「合理的な神秘主義」という結論には腑に落ちないものがあった。懐疑がダメな理由は理解できたが、「信じる」でなければならない必然性が分からなかったのだ。ともすれば神秘主義は、未知に蓋をするための欺瞞になってしまう。

 しかし今回、「誤配可能性」(東浩紀)といった概念に関する議論から、「信じる」ことの不可欠性を抽出できたと思うので以下を書く。

 結論から言えば、知や学問が前提としているシステムは、誤謬とその訂正を前提として作動しているにもかかわらず、「信じる」ことを不可欠な要素として要請しているのだ。

 

誤配可能性とコミュニケーションの前提

 「誤配」とは、東浩紀デリダを通して見出だした概念で、メッセージが「間違った相手に」「間違った意味で」伝わることを意味する。この誤配にこそ自由がある、というのが東の趣旨である。

 コミュニケーションは、必ずしも円滑に行われるのではない。メッセージは常に間違って受け取られる可能性(=誤配可能性)があり、間違いを都度訂正することでコミュニケーションは形成されているのである。

 つまり、コミュニケーション・システム自体がフィードバックを前提としていると言える。メッセージの意味は、それを含むコミュニケーション・ゲームによって決定されるのであり、メッセージに固定的な意味はなく、「大他者の大他者はない」「メタ言語はない」のである。

 だが他方、メッセージはその固定された意味を想定しなければ利用できない。言葉が言葉通りに伝わると信じなければ、話すことはできないだろう。

 従って、コミュニケーション・システムは、「言葉が意図された通りに伝わる(と発話者が信じる)こと」と「誤配=言葉が意図された通りに伝わらないこと(とそれを訂正するフィードバック)」の両方を前提としている。前者は話すうえでの主観的な前提であり、後者は言語形成上のシステム的な前提である。言語体系は、この二つの相反する働きによる、動的定常状態のもとにある。

 このように考えると、「言葉が意図された通りに伝わること」を強迫的に追い求めることも、「誤配」「散種」を無際限に称揚することもできない。前者はコミュニケーション・システムのフィードバックによる柔軟な調整を殺してしまうし、後者は言葉の意味を解体してしまい伝達可能性を失わせてしまう。*1

 だから我々は、言葉を疑うのではなく、また厳密に定義するのでもなく、またいたずらに混乱させるのでもなく、ただそれを信じて使うのでなければならない。メッセージは届くかもしれないし届かないかもしれないのだが、神秘的な力によってそれが届くと信じなければ、メッセージは成り立たないのである。

「信じる」重要性のフィードバックシステムへの一般化

 以上の議論は、フィードバックによる修正を前提とした他の社会的システムに一般化できる。その橋頭保として、中国医学を例に挙げよう。

 病因論に基づいて直接的な因果的原因に直接アプローチする西洋医学に対し、中国医学は実践的な経験から検証されるとともに積み上げられてきた独自の知識体系である。これは宇宙技芸*2の一種であり、直接的な因果関係の解明では対処できない複雑系に対処するための智慧である。

 中国医学を運用するためには、その知識体系を信じなければならない。厳密な因果的機序は明らかでないから、懐疑の態度からは使うことはできないのだ。

 他方で、中国医学はその営みの中で常に検証され磨き続けられる必要がある。このような実践知は、経験を知識に反映させなければ蒙昧な呪術に堕してしまう。

 つまりここでは、既存の中国医学の体系を信じつつ実践の中で絶えずそれを改善し練り上げるという、一見相反する二つの信念を働かさなければならない。これは、中国医学の体系を「知を想定された主体」とする「転移」(つまり、ある種の誤認)によってはじめて可能な実践である。

 

 同種のことは国政政治の場面でも言える。目下、国家はあらゆる社会問題を抱えており、今にも爆発して崩壊してしまいそうに見える。そして実際、救いがたい状況にある。しかし、それでも社会を信じて、個別の問題に取り組み、漸進的な修正を続けなければならない。そしてその漸進的な修正によって社会は生き永らえるのだ。これに対し急進的な社会進歩のために社会不信を爆発させる方法をとれば、社会はその前提から破壊されてしまう。

 従って社会制度の維持は、文字通り幻想のもとではじめて可能なのである。これは、国民をひとつの思想に染め上げる保守共同体主義的統治の話ではない。社会の作動そのものが、合理的な神秘主義としての「社会への信頼」に基づいているという意味である。

 つまり、これらのシステムの作動の前提には、そのシステムの正常な作動への主観的な信頼と、システムの改善・訂正が決して終わらないこと、システムがどこかでは失敗し続けることが同時に含まれている。

生きる上での「信じる」

 我々の人生においても同じである。

 我々は世界について厳密に正確な理解をすることはできない。判断の際に懐疑主義を持ち出せば一切が不可能となるから、実践的には自分の信じている信念を信じるほかない。しかしそのうえで、適宜フィードバックに従って信念を訂正していくことではじめて、現実に対応しながら生きていけるのである。

 こうした漸進的なアプローチの問題点として、局所最適解に陥るリスクが挙げられる。人生は最適解を求めるゲームではないが、より良い解を求めた訂正が起こらなければシステムの健全な作動は担保されない。システムの正常な作動のためには、システムが正常であると信じつつ、システムが破断する点を探してまわる必要があるのだ。

 

 自らの知性を信じつつ、未知のものを求め、世界に驚き続ける、十全たる自愛と好奇心を合わせ持った精神。これが、「合理的な神秘主義」に基づいた「信じる」という生き方であると言えよう。

*1:東浩紀は誤配にイノベーションのきっかけを期待し、能動的に誤配を生み出そうと試みている。このことについて、彼は『哲学の誤配 (ゲンロン叢書)』のなかで、誤配は「バランスが重要」と語っているが、これはバランスの問題ではない。能動的に誤配を生み出そうとする意図は、それ自体がメッセージに対する信頼を失わせてしまう。意味深長な言い回しは人の知的発想を触発するが、持って回った言い回しが知的触発のために他ならないと暴露されるとその効果は失われ、深遠な言い回しは単なる戯言になってしまう。

 従って、誤配はコミュニケーション・システムの維持存続に必要不可欠だが、狙って生み出すことはできず、常に活動の副産物として存在しなければならないのだ。

*2:宇宙技芸/Cosmotechnics:香港の哲学者ユク・ホイが提唱する言葉で、宇宙論と密接に結びついた技術のこと。ハイデガー『技術への問い』に描かれるような、破局へと暴走するサイバネティック・テクノロジーに対するオルタナティブとして、文化的多様性に開かれた技術を可能とするための概念である。