生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

コミュニケーションの一階層としての言語

言語の発生と発展

 相互学習のコミュニケーションによって、合意的に決まりごとが作り出され、記号的なやり取りが生み出される。記号操作が十分に発展すると、それらは次第に言語を形成していく。この過程では言語は何ら先験的な意味や形態をもつものではない。しかるに、言語はウィトゲンシュタインが提唱したように言語ゲームに基づくものであり、コミュニケーションのなかで変化しつづける。

 言語があることで、コミュニケーションの幅は大きく広がる。言葉と意味の解釈が確立しているために伝達が容易になる。限られた単語から多くの文章をつくり出し、さまざまな新たなシチュエーションにも対応できる。また、言語は主体の自己言及を可能にし、認識の幅をも広げる。メタ的認知は、コミュニケーションを新たな段階へと発展させる。固有の体験が記号化され主語が置き換え可能な文章になることで、共同主観の表現が立ち現れる。

 

言語の発展の過程

 人類史上の言語の起源は未だ明らかでないとはいえ、我々の言語との付き合い方には言語の段階的な発展や言語機能の転用による新たな階層の出現が見て取れる。

現象についての言語

 まず第一に、言語は現象についての言語である。抽象的な概念についての言葉よりも、見たり感じたりしたものについての言葉のほうが先んじることには疑いがない。自分から見た世界を他の個体に伝えることには、さまざまな便益がある。猿やカラスなど比較的高度な社会性を持つ生物も、現象を表現する機能を持つ鳴き声によって記号的なコミュニケーションをとる。

 この段階では、主観と客観は未分である。例えば、「田んぼでトンボを見たよ」と「あの道で妖怪を見たよ」という二つの文は、それ自体では同等の事実性を持つ。精霊や妖怪も、ほかの人の証言と突き合せたり科学的に検証して否定されたりしない限り、人間が確信をもってそれを見た感じたと主張すれば事実として受け止められるほかはない。

 現象についての発話は、呼びかけと表裏一体である。「敵がいるぞ!」は実質的には「警戒しろ!」だったり「逃げろ!」を意味し、「餌があるぞ!」は実質的には「食べにこい!」を意味する。これには客観的な事象だけでなく主観的な事象も含まれる。「怒っている!」は「近寄るな!」を意味したり、「怖い!」は「助けて!」「そばにいて!」を意味する。野生の世界においてこれらの表現は、鳴き声によるコミュニケーションに見られる。「敵!」「餌!」などの一語文で事足りるので、複雑な文法構造は要請されない。

存在するものについての言語、存在しないものについての言語

 現象についての発話が事実であるか否かを判別するのは、新しい現象や認識の更新によってである。すなわち、現象についての発話は事後的に、存在するものについての発話と存在しないものについての発話に分けられる。現在が過去を審査することにより、事実と虚構が区別される。

 これによって人間は、存在しないものに対する言及が可能であることを発見する。現象についての発話は「実在としての妖怪」にのみ言及するが、存在しないものについての発話は「空想物としての妖怪」への言及である。ただし、存在しないものについての発話はナマの現実のうちで生きる際にはほとんど役に立たない。

 

創造的コミュニケーション

 存在するものについての言語と存在しないものについての言語の間に弁証法的に生成するコミュニケーション、それが創造的コミュニケーションである。それは、存在しないものを存在させようという意志のもとに生まれる。現象としての現実から抜け出る、空想、思想、理念、社会進歩、発明、創作や文学、そういったものがこれに分類される。音楽もまた、規則や伝統と先進性のはざまで、未在の音楽を目指して行われればそのような創造的コミュニケーションの一つである。

 創造的コミュニケーションは高度の言語能力によってはじめて可能になるが、言語能力自体は現象についての言語によって培われたものであり、目的論的に用意されたものではない。現象について語るための言語が空想世界の創造のために使われるとき、形質の転用が起きている。

 

 子どもにとって、絵本の中の世界は実在と変わらない現象である。また、映画館で映画を見る際も、スクリーンの中の出来事は実在と変わらない現象である。人々は世界に没入する。それが現実のものではないと理解されるのは、映画館を出たあとである。そのあとで、それらの創作の世界に魅入られ、それが現実でないことを落胆し、それらの創作話を現実のものとして扱うことを願う。そのもとに新たな創作が生まれるのである。

 空想家は、しばしば自分の空想と現実を区別できていない。しかるに、鳥のマネをして崖から落ちたりする。彼は、彼の思い描いた方法によって空が飛べると確信している。而して、その確信は裏切られる。ここでめげずに挑戦を続けたものが、その意志と能力を持ったものが発明家となるのである。彼は、もはや自分の空想が現実の前にむなしく失墜したことは認めるけれども、空想が地に落ちたままであることは認めないのである。

 空想家の言葉を、多くの人は戯言扱いする。それもそのはず、空想家は存在しないものについて発話するのであり、現象を伝達するのではないから、現象についてのコミュニケーションを行っている人々にとっては法螺を吹いて社会を混乱させるだけのものだからである。ただ、空想家の言葉は、同じく非現実を現実に、非実在を実在にせんと志す人にのみ届く。

 創造的コミュニケーションは、それに参加する人々の共犯的関係により、非実在物を実在物と同じようにコミュニケーションのなかで機能させることができる。架空の人物について論評したり、架空の社会、架空の歴史について考えることは、そのコミュニケーションの外から見ればばかげていて意味がない。しかし、そのコミュニケーションの内部では至って真剣に可能である。

 

創造的コミュニケーションと社会的諸価値

 創造的コミュニケーションのより社会的なかたち、すなわちより多くの人間がその存在を願い、意志し、それについて合意しているもの、それが社会的な諸価値、すなわち法、権利や平和についての理念である。そして、倫理や道徳もこれに含まれる。

 我々は、歴史のなかで無法、無権利、暴力、戦争によって打ちのめされている。しかし、そのままでいることを望まない意志による発話が巨大なコミュニケーションを形成し、合意し、宣言し、そのことによって非実在の概念が実在の社会的拘束力を得るまでになった。それが近現代の諸理念である。人類は、大きな一つの創造的コミュニケーションのなかで共犯関係となることで、競争という自然の摂理を欺き、地球市民としての連帯を手に入れた。そして、非実在物をコミュニケーション内に実在させる、創造的コミュニケーションの作用によって、法や権利は実際に社会のなかで存在し機能する。

 創造的コミュニケーションの生産物は、一度彼らの社会における現実となってしまえば、創造的コミュニケーションのダイナミクスが失われても(すなわち願いや意志が失われても)、現象についてのコミュニケーションのなかで維持される。理念が失われ単なる抑圧装置と化した宗教や国家は、このようにして生まれる。

 創造的コミュニケーションは、新たな階層を構成する。それは、現象についての言語を前提として機能しているが、もはやその条件に拘束されず、新たな機序で機能する。創造的コミュニケーションは、経験的学習ではなく、総合によって理念を生成する。それは純粋に記号的かつ先験的であって、経験的な現象に依存しない。それらは現象についてのコミュニケーションに還元することができず、そこからは説明も理解もできない。

 

創造的コミュニケーションの成立条件

 まず第一に、創造的コミュニケーションは現象についての言語を前提として要請する。理念やその記号的操作は、言語やそれに類する記号なしに存在できない。人間が無限の想像力をわがものとして使えるようになるためには、言語が必須である。

 なるほどたしかに、言葉を話せなくても絵画や音楽の芸術は可能であるが、それらの魂の直接の迸りであるような芸術は、言語とは全く異なる体系を持ち、ゆえに存在と非存在の峻別以前のものであって、非存在を存在させる企みというよりは、むしろ否定できない存在の訴えである。たしかに、絵画シーンには絵画シーン、音楽シーンには音楽シーン独自のコミュニケーションがあるし、それらの文化全体は緩やかに接続している。しかしそのような共犯者的なつながりは、言語以前の理不尽な生命エネルギーを爆発させるタイプの芸術家にとっては関心の対象ではない。同様に、暴力に対する野生的な抵抗運動は、それだけでは理念ある社会を構成しない。

 創造的コミュニケーションは、完全であることはできない。理念に対する言及が不完全であるがゆえに理念はイデアとしての到達すべき完全性を帯びるのであって、完全な理論はもはや何も生みださず、暴力的な事実と変わらない。コミュニケーションにおける発話には、余白が必要である。もしくは、余白が見いだされた時に初めて、コミュニケーションが可能になる。余白を埋める発話が新たな余白を生み、そのようにしてコミュニケーション全体が豊かになっていくのである。

 一方重大な矛盾を含む場合も、コミュニケーションが阻害される。どんな現実の脅威も理想主義者の足を止めはしないが、理論的困難は理想主義を不可能にする。創作においても、文脈上意味のない設定の矛盾は避けられるべきものとされる。それらはコミュニケーションの障害となる。

 

言語ゲームの自己破壊

 言語による言及範囲は、言語自身にも及ぶ。発話についての発話、つまりメタ的言及が可能である。このさい、言語ゲームを破壊するような発話も可能となる。言語ゲームは相互学習を前提としているが、言語によって相互学習を停止するよう命じることができる。言語の意味内容を自己言及によって定義して、相互学習によって調整された意味連関を破壊することができる。言語は自己破壊可能なシステムである。

 

言語によるコミュニケーションの硬直化と破壊

 言語が意味体系として確立すると、新しい単語の生成や単語の転用、新たな意味の賦与を避けようとする社会的な意志が働くようになる。言語には規則性があり、これをむやみに乱すと意思の疎通に障害が生まれるからである。言葉が乱れると政治はまともに機能しなくなり、社会全体に甚大なダメージを与える。

 しかし、言語機能を維持しようとしてそうした言葉の誤用や転用を完全に禁じると、言語はもはやコミュニケーションを媒介するのではなくコミュニケーションを定義し支配するようになる。事前に定義づけられた形式での情報のやり取りは独自のコンテキストの生成を不可能にするため、相互学習が滞り、正常なコミュニケーションが脅かされる。言葉や礼儀の外形的な正しさにこだわれば、このようにしてコミュニケーションの硬直化を招く。

 このように、言語がちょうどよい柔軟性としなやかな強さを持たなければ、コミュニケーションひいては社会が永く維持されることがない。まさに中庸である。ただし、柔軟性の指数のようなものが真ん中にあればよいというものではない。健全なコミュニケーションの柔軟性を定義するものは、その都度の意味の生成と学習である。言語コミュニケーションは相互学習のコミュニケーションに根差しており、相互学習のコミュニケーションは個々の学習に根差している。根なしになってしまえば、いずれ枯れて倒れるのである。

 

言語のハラスメント的作動

 言語は絶えず変化するため、辞書に載っているような明示的な意味と実際のコミュニケーション上での機能は絶えず解離する。この際、学習によってこの解離が絶えず埋められるのであればコミュニケーションは正常に作動する。しかし、何らかの理由で学習が追い付かなくなると人間は混乱に陥る。

 社会における言語の変遷の速度が、その変遷を生み出す言語使用者の理解力を超えることはありえない。だから、一般的な人々の言語使用の協同現象によって混乱が発生することはまずありえない。こうした事態が起こるとすれば、言語を定義できるだけの強い影響力が何らかの存在に集中している場合である。

 小さな集団であるほど、言語の定義を巡る影響力の偏りは起こりやすい。そもそも言葉に対する理解力の低い者がいたり、立場の強い者によってコミュニケーションが独占されたりすると、混乱は起こりうる。

 国家レベルの大きな集団では、個々人の持つ影響力には限りがある。しかし例えば、テレビやラジオ、新聞や雑誌、政府や党の機関など影響力の強い存在が関わればその限りではない。そうした存在が絶えず言葉を新たに定義し、脈絡なく変化させ続ければ、人々は混乱してしまうだろう。このような理由でならば、社会全体がハラスメントに陥るということは十分にありうる。

 

言語による命令

 呼びかけとは異なって、命令は言語によってはじめて可能になる。呼びかけは他者の学習の作動に沿った行動を促すのに対し、命令は学習の作動を無視した行動を要請する。

 暴力による支配の場面において、命令は「痛い目に遭いたくなければ従え!」という隠れた仮言命法の形式を持つ。暴力による支配は、暴力を誇示しての脅迫によって可能なのであるから、「痛い目に遭いたくなければ」という仮定の部分は、明示的にか暗黙的にか被支配者に伝わっていなければならない。このさい、「痛い目に遭いたくなければ従え」という命令は、実際には極度に非対称的な状況における取引の提案である。支配者はあくまで被支配者の選択を経なければこれを思うとおりにすることはできないが、そうしたことが意識されると命知らずの行動に出る余地を与えるので、取引を命令に扮して飲ませるということをするのである。

 一方、ハラスメントなどによる内面に及ぶ支配の場面において、命令は定言的命令として発せられる。これはむしろ、仮定の部分を隠蔽するためである。また、命令そのものが隠蔽される場合も多い。そのとき命令は苦言や提案、アドバイスという形で行われる。ハラスメントによる支配は、「なぜだか分からないが辛くて苦しい」という混乱とともに行われるのであって、暴力による支配の場合のように、被支配者の「賢明な選択」を迫るものではない。ハラスメントによる支配においては、命令があたかも被害者の意志で実行されるかのように仕向けられる。ハラスメントにおける命令が命令として意識され、状況が正しく理解されれば、混乱は去りハラスメントは無効化される。だから、実際には命令であるものを単なる言及や取引、提案の形で提示するのである。

 ここに見られるような、メッセージを隠蔽状態で機能させることは、言語という複層的な構造を持つ表現方法によってはじめて可能になるのである。