生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

日本共産党による松竹伸幸氏除名処分およびその周辺問題について・後編

前編:

ikiruiiwake.hatenablog.com

 

真理のレベル――日本共産党パラノイア的反応

 精神分析ジャック・ラカンは、次のような言葉を残している。「嫉妬深い夫の主張する妻の浮気が全て事実だったとしても、依然として夫の嫉妬は病的である。」

 同じように、日本共産党の主張する松竹氏やマスメディアの悪意が現実のものだったとしても、依然として党のパラノイア的反応はやはり病的であり、罠にハマっている。

反共攻撃のダブルバインド

 この手の反共攻撃の戦術目標は二段構えで行われている。党に対する口出し・干渉攻撃は1つ目の目標に過ぎない。干渉攻撃に対する党の反撃を、「非民主的」とあげつらって攻撃することがその第二の目標である。

 つまり、干渉者の言うことを聞いても聞かなくても攻撃は通る。干渉攻撃は、党にとってダブルバインドとなっているのである。

 党の対応は、明らかにこれを認識できておらず、党の現状変更を認めるかアウトバーストかという誤った二択から選択してしまっている。敵対者は正面から叩き潰す。まさにそれが敵対者の狙いであり、大衆への「日本共産党は怖い」という心象付けを可能にする。

 ここでは「除名は異論を排除するものではない」という弁解は意味をなさない。メタ言語はない。が、解釈は常にメタ的である。日本共産党は、精神分析を受けている主体のように、何を言ってもその意図の通りに受け取ってもらうことができない。これは、発話の主体が原理的に必然的に嵌まる罠である。

精神分析的方法

 しかし同様に、逆に相手にどんな悪意があったとしても、その行為の解釈は受け手に委ねられている。

 党からの松竹氏への反論の仕方は無数にあったはずだ。敬して遠ざけることも、開かれた場で党の方針を緻密に解説することも、書評などで徹底的に論駁することもできた。しかし、党はパラノイアックな解釈と党からの排除という解決法を選んだ。なぜか。

 意見を異にする知識人の除名・排除は、党の歴史において何度も行われてきた反復的なものである。今回の除名事件も個別の事情の下で偶然なされた過誤ではなく、党の一貫した態度、あるいは症候として捉えるべきである。つまりこの現象は、意志決定の科学の対象ではなく、むしろ精神分析の対象である。

 党の強硬な態度の背景には、戦前の天皇絶対制のもとでの苛烈な弾圧、戦後のでっち上げ事件やレッドパージ、そして50年問題といった、トラウマ的な歴史的経験がある。これらの事件は、完全には想像することも表象することもできない〈現実界〉の地位にある。弾圧は不意にやってきて、暴力的に壊乱し、弾圧自身の痕跡すら消し去っていったからである。

 しかし、今回の問題における「松竹伸幸」や「朝日新聞」という表象は、明らかに〈想像界〉的な小文字の他者である。彼らは、党の享楽を盗もうと試みており、双数的-決闘的な対立者として布置されている。そこで、両者は大文字の他者(国民・憲法)に自らの正当性を訴えている。

 そしておそらく党は、次の統一地方選挙の結果を受けて、「こいつさえいなければ(選挙で勝てただろう)」と言うだろう。松竹氏らは障害物としての対象aの役割を果たし、「現状の体制で党勢拡大と選挙勝利は可能だ」という幻想を維持するのに一役買うのである。

 つまり、これらを並べて単純に類推するのは適切でない。かつての弾圧が一方的な蹂躙という直視しがたい現実であるのに対して、今般の事件はむしろ党自身の"投影"を大いに映したものである。一連の現象には、党自身の態度が既に織り込まれている。

 したがって、現代の左派リベラルの"反共"とかつての弾圧・攻撃を同列視した、「強迫的な攻撃に晒される無謬の革命党」という党の自己イメージは、自分自身を勘定に入れるのを忘れている。この点で党は、事実のレベルではなく真理のレベルで過ちを犯している。

 ダブルバインドを看破できないのはそれが、こうした無意識的な自己欺瞞を支える虚構を隠れ蓑にするからである。逆を言えば、ダブルバインドから抜け出すには、悪意の者を退けるのではなく、自分自身の幻想を貫かなければならないのである。

日本共産党の柔軟路線

 今回の除名問題で党に批判的な人々の多くは、日本共産党の硬直的な態度が党勢拡大に悪影響を及ぼしており、その原因が未だ党が隠し持つドグマティズムにあると考えている。幅広い支持を得るためには、多くの人が賛同できる、時代に即した最大公約的な政治政策を掲げなければならない。そして、現代の「寛容」「多様性」「対話」の時代には、それに沿った政治姿勢が求められる。

 実際、日本共産党は暴力革命・軍事路線を放棄した1961年綱領以降、少しずつ態度を柔軟化してきている。民主統一戦線論や多数者革命論を掲げ、「プロレタリア独裁」は「人民的議会主義」に、「マルクス・レーニン主義」は「科学的社会主義」に書き換えられた。この傾向は不破・志位体制以降加速し、2004年綱領では前衛党規定や天皇制廃止が削除され、2015年以降の野党共闘においては、野党連合政権では自衛隊を合憲扱いする方針となっている。

 しかし他方、現実・柔軟路線が自己目的化し妥協を重ねれば、政党の本来の目的が失われ、政権奪取だけが目的である空虚になり果てるだろう。そこでは、衝突する特殊な個々人の利害を調整し、利益と力に付き従う、今の自民党政治が繰り返されることになる。安保容認論はまさにそうした、利益のために不正義を見逃す空虚な態度である。

 幅広い支持を取るか、理念を取るか。しかし、この二項対立は、思想においては既に解決済みの問題である。

日本共産党の理念の源流

 そもそもコミュニズム憲法9条の理念の源流は、ルソーやカントらがその端を拓いた、普遍的な真実と理想にある。それらは、個々人の性向やそれぞれ特殊な具体的な法律をまったく捨象して議論する。なぜなら彼らの議論は、具体的な諸問題に対して論理階型的により高次の規定をなすものだからである。ここでは、個々人の関心こそ特殊で狭量であり、理念こそが普遍的に人々のもとにあるものである。

 こうした普遍性の追究は、はじめはその射程について無自覚かつ盲目的だったにしても、歴史的に積み上げられてきた。その歴史は、人類の他の歴史にもまして血みどろのものであった。マルクス主義は挙げるまでもなく、フランス革命コミューンや、それ以前のキリスト教諸教派のコミューンの人々もまたその多くが、多くの場合は被害者としてある時は加害者として、虐殺を経験した。理念に基づいた闘争とは、普遍的なもののために特殊で個別な利害をなげうつことだからである。

 命を顧みず理念に殉ずることは、勇気のない人々には不可能な選択である。しかし、どんな臆病者でも、もはや死ぬほかない状況に陥ったとき、理念なき死と理念ある死を選ぶことはできる。そうして理念は、その敗北と失敗の歴史の中で、ますます純化されていくのである。

 日本もまた、そうした身振りとは無縁ではない。日本はかつて破滅的な戦争と無条件降伏によりすべてを失った。しかし、普遍的平和のための非武装を宣言した日本国憲法によって、最悪の帝国主義国家から崇高な平和国家に反転したのである。もとより、敗戦国である日本はもはや「普通の国」になることはできない。日本の進みうる道は、世界平和に向けた礎として身を差し出す崇高な平和国家か、覇権を取り戻さんとするアクティングアウト的軍国主義化か二つに一つである。

 松竹氏をはじめとした「現実的な安全保障」を論ずる人々は、こうした日本国憲法および日本共産党の理念の歴史的事情を全く理解していない。憲法論においても安保論においても経済論においても、彼らはもっぱら自分たち(≒日本国民)の生き残りの勘定に閉じこもっている。そこには普遍的視点はない。その精神性は、生まれては消えていく古代の部族国家と何ら変わりはしないのである。ゆえに、対話の余地といえば、利害調整や折衝しかなく、理念に基づいた普遍的合意の可能性はないのである。

 特殊な個々人を直接的に肯定する自然的世界では、理念に基づく普遍的連帯は不可能である。政治的妥協よりもむしろ、強固な理念こそが幅広い支持と理解を可能とするのである。

 普遍的理念は特殊を捨象する。そこでは、個別の利益は直接的なものではなく、理念の受肉として存在する。例えば、個々人の特殊な権利は、人権という理念の受肉したものである。そうでなければ、権利は必然的な権利ではなく、ただ力によって奪い取った偶然的な権利でしかなくなってしまうのである。

特殊な規定を破壊せよ!普遍性への熱狂

 日本共産党の一つの理論的支柱である「科学的社会主義」は、マルクスにおいてもレーニンにおいても、自分自身の特殊な規定を否定し普遍に向かって止揚する過程の描写である。

 それは第一に、父権制から資本制への移行である。中世社会の様々の特殊な身分や立場は生産様式の変化にしたがって否定され、プロレタリアートという階級が普遍を実現する。そこで初めて、一般的人間、普遍的人間が現実に存在するようになるのである。

 プロレタリアートは、二重の意味で自由である(労働力を売る自由と、生産手段からの自由)が、しかしその自由は資本主義社会の状況に全き左右される自由であって、自分の思い通りに生きる自由ではない。そこでプロレタリアートは、資本主義を否定することを通じて自分自身を否定し、真に普遍的=個別的な自由な人間となる。これが二番目の止揚、資本制から共産制への移行である。

 レーニン国家と革命 (講談社学術文庫)』において描かれているのは、国家はプロレタリア独裁を経て死滅するということである。党も同様に、その歴史的終着点において自己抹消する。プロレタリア独裁も支配の一様態には変わりないのであって、この自己否定によってのみ、特殊な体制による支配の歴史をつまり人間の隷属の歴史を終わらせることができるのである。

 これらの発想は、ヘーゲル哲学のエッセンスを現実社会に当てはめたものであり、マルクス歴史観の中核をなす考え方である。共産主義の世界的な熱狂を生み出したのもまた、こうした理屈によって普遍的人間の社会が現実に可能であると思われたからである。

 私は、マルクスにおけるこのヘーゲル的エッセンスが、レーニン主義の廃棄に伴って、日本共産党から失われたのではないかと疑っている。「プロレタリアート独裁」と「多数者革命」の間には、このヘーゲル的な普遍性の有無という決定的な違いがある。もちろん、日本においては憲法の示す基本的人権がミニマルな普遍的人間を定義してはいる。しかし、人権は日本においては正当に理解されていない。日本人は普遍性としての理念を理解しないからである。理念に基づいた普遍的な言説を可能にするためには、今一度ヘーゲルに立ち戻る必要があるのではなかろうか。

防衛機制としてのリベラリズム

 現代日本の主な政治言説が民主主義のモデルとしているアメリカ流の中道的リベラリズムは、数々の戦争・内戦と虐殺を経て形成された、調停的で妥協的な政治システムである。それは、自然状態の無垢で平坦な残酷さと、理念に基づく破壊的な革命の、双方に対する防衛機制である。

 そもそもの話として、リベラリズム原理主義的な強い理念は相反するのである。野党共闘はあくまで反動体制下での反ファシズム共闘であって、突き詰めて言えばリベラルと共産主義は敵対的ですらあるのである。

 しかし同時に、理念のない社会においてリベラリズムは政治になりえない。様々な思想・理念を持つ人々が共生するための社会思想がリベラリズムであって、リベラリズムを自己目的的に志向すればそれはただの空虚である。

汝の欲望において妥協してはならない

 リベラリズムに基づく社会システムが正常に作動している限り、社会全体を統括する理性的な主体による政治は不要である。そこでは実体としての社会経済は、人々の欲望に対する多元的な社会システムの自動的な調整と適応によって維持される。システムのこの生態的な働きは、「神の見えざる手」や「理性の狡知」と呼ばれることがある。

 リベラリズムにおいて、その基本原理である主体の「自由」は、容認されているだけでなく、要請されてもいる。個々人の自由な活動が社会システムに対するフィードバックとして働いているため、社会システムが正常に調整・適応するためには、個々人がそれぞれの性向に従い、欲望を断念しないことが必要なのである。

 もしも人々が、自らの自由ではなく、社会的な通念によって判断を行うと、社会通念が再帰的に自己強化するループが形成され、それに対応して社会システムのランナウェイ現象が発生し、システムは崩壊に向かう。これは、具体的には経済的バブルやファシズムといった形で現れる。

 従ってわれわれは、理念を価値あるものとするなら、そこで妥協してはならない。われわれが妥協すれば、その妥協に社会は適応するからである。皆が賛同するからと言って賛同してはならない。それはランナウェイ現象を引き起こし、システムを破壊するからである。

妥協は自己欺瞞と盲目を要請する

 そうは言っても社会は、そのシステム的な調整の一環として、それぞれの主体に強い圧力をもたらす。利潤率の低下は「資本を移転せよ」という見えざる手からの命令であり*1、人々は自己保存のために妥協と従属を強いられる。

 もっとも、自己保存のためのプラグマティックな判断は、未だ明晰な自由意志の範囲内である。しかし、プラグマティックな判断自身が、自分自身の判断の自由な根拠を隠匿するよう命じる場合がある。事実を隠蔽するとき、隠さなければならないのは隠蔽された事実だけでなく、隠蔽という行為そのもの、そして隠蔽するという意志決定そのものも含む。個別の行動決定ではなく、理念、意志決定の基準のレベルにおいて妥協し、自由そのものを裏切るとき、人は自分自身を欺かなければならない。こうして人は自己欺瞞を生み出し、自らを盲目にするのである。

 こうした問題は、組織行動においてはなおのこと現れやすい。合理的な判断として、判断自身を自分の組織に対して隠さなければならない場面が現れる。そうしたときには、無理な理論づけがなされる。例えば、「今の政策では民意が得られないので、本心は違うけども別の政策を掲げます」とは言えないので、何らかの方針転換の根拠として理屈をでっちあげなければならないのである。こうした理屈は、組織に浸透した理論に歪みをもたらし、組織全体の意志決定を狂わせる。

盲目を打破するためには、理念に立ち戻る必要がある

 こうした自己欺瞞によってできた盲点は、人を真理から遠ざける。

 私はここから、一連の問題の原因を、日本共産党のドグマティズムにではなく、むしろそのドグマティズムの不徹底にあると考える。他者や異論を尊重していないことではなく、むしろ他者を無媒介に尊重することを通じて現実に妥協し、理念を十分に貫徹していないのが問題なのである。それゆえに、中道リベラルによる「自分の命と財産だけを守りたい」「あとはどうなっても知らない」という自己中心主義に基づいた多数派工作のための安保・自由民主主義政策に対して、理念に基づいたクリティカルな反撃ができず、破壊的なアウトバーストしか手が無くなっているのである。

 同時にこれは、日本におけるアイデンティティポリティクスの限界でもある。その言説地平面では、理念としての普遍的個人と個々人の特殊な利害が混同されているため、衝突を正義によって調停する視点が欠けている。「表現の自由」の問題もまた同じである。それは自由の程度問題ではなく、普遍を媒介しているかどうかで判断されるべきである。

 時代状況を打破するために、われわれは理念に立ち戻り、反復すべきなのである。

理念の抑圧への転化はむしろその不徹底によって起きる

 理念に対する原理主義的な態度は、理念のための国家運営が多大な犠牲を生み出した歴史的な悲劇を思い起こさせる。しかし、そこでも悪いのは理念の自己否定的契機ではなく、その不徹底である。

 ソビエト共産党は、先述したマルクス・レーニン主義を掲げたが、自己止揚=国家の死滅を永久に先延ばしにすることでその支配体制を永続化した。そこでは、自己否定的な規定それ自体が、自己肯定のためのイデオロギーとして機能したのである。

 現代では、こうした、自身を将来的には解体する臨時的な体制として正当化し、「最後の日」を永久に先延ばしにすることで永続的な支配体制を確立する手法は、既に陳腐化しており、顕正会ですらやっている*2

 ソビエト顕正会は、人類史上に展開された自らの筋書きを通じて、「最後の審判の視点」で自らを眺める。自己否定的な彼らの身分は、ひそかに大他者によって保証されているのである。ここには本来のヘーゲル的な展開はない。

 実際の歴史は時間的な広がりを持つが、理念は無時間的である。理念の実現は、「今ここ」で「常に既に」なされなければならない、歴史の流れを切断する行為なのである。

日本共産党止揚としての日本共産党

 日本共産党が特定の特殊な主義信条の党から脱皮し、国民的な支持を得るためには、単にそれぞれの特殊個別な人々に気に入られるのではなく、普遍としての党を体現しなければならない。

 しかし、それはソビエトのような肯定的実体ではない。肯定的実体を目指せばそれは壮大な悲劇になるだろう。党は、反共攻撃による限定的否定に対し、肯定的なもので応じようとするのではなく、それを無限否定に導くべきなのだ。

 無限否定とはいったいどういうことか。直感的なアナロジーとして、デヴィッド・フィンチャーによるカルト的映画『ファイト・クラブ』のワンシーンを取り上げよう。映画の中で、主人公の「ぼく」は、会社の不正をネタに待遇改善を要求して上司を脅迫する。上司が取引を拒否して警備員を呼びだすと、「ぼく」は自分自身を(・・・・・)力いっぱい殴りつけはじめる。駆けつけた警備員からは上司が「ぼく」をボコボコにしたようにしか見えず、「ぼく」は訴訟を恐れた上司から権利と小切手を勝ち取る。

 党は、無謬主義という謗りに対し、自分自身の正当性を主張したり、「誤りうる」「学び正す」と答えるのでは十分ではない。むしろ、党は、理念の立場から見れば、原理的に、存在自体が誤りなのである。そもそも、党という制度自体がいくらか非民主的である。「民主的制度」、「民主的政党」は語義矛盾であって、完全な民主主義を担保する制度は存在しないのだ。しかし、その誤りを通じてしか真理=未来社会には到達できない。民主主義は、それを求め社会を変革する永続的闘争のなかにのみあるのである。

 党の生き残りは、組織の堅牢さではなく、むしろ民主主義とはなにか理想社会とは何かという永続的な問いの中心を占めることにかかっている。戦前幾度の弾圧を受けながらも党がその命脈を保ったのは、党組織の軍事的な能力ではなく、社会変革を志す人々の不滅の魂のためである。

 したがって、日本共産党と、それを応援する人々こそ、松竹氏を全く置き去りにするほどの徹底的な党批判をすべきなのである。それも、松竹氏やその他のリベラル左派論客のような現実路線からではなく、理想論の視点からである。そうしてはじめて、党綱領の理念に忠実な党員が、党のヘゲモニーを握り続けられる。

 どれだけ素晴らしい綱領があろうとも、盲目的追従は自由という理念に背く。発展的に語る人がいなくなれば、いかなる理念も終わりである。

 守る者は失い、捨てる者は拾うのである。

*1:これは企業活動に留まらず敷衍できる。実質賃金の低下は労働者に労働の量及び質の変化を要求し、得票数の低下は政党に政策の変化を促す、等々。

*2:富士大石寺顕正会=宗教法人「顕正会」は、規則第三十条で、会の目的が達せられたときには法人を解散することを定めている。もちろん、目的が達成される日は未来の彼方であって、この規定は実質的に空文である。

日本共産党による松竹伸幸氏除名処分およびその周辺問題について・前編

前回:

ikiruiiwake.hatenablog.com

 

松竹伸幸氏の除名について

 前回の記事で取り上げた"日本共産党ヒラ党員"松竹伸幸氏が、2月6日付で除名処分となった。この件に関し、松竹氏・日本共産党・大手メディアの間での応酬が続いている。

 日本共産党の一連の対応を巡って、多くの左派系知識人も発言しているが、快刀乱麻を断つとはならず、言論の状況は未だ浮動している。

 この記事では、問題を整理し、急所を見出していきたい。前編ではそれぞれの声明を要約し、言表内容レベルでの論点を整理し、コンフリクトの直接的原因を明らかにする。後編では、日本共産党綱領の掲げる理念の思想的源流からアプローチし、コンフリクトを規定しているパースペクティブの決定的なズレを見出す。期せずして長大な内容となってしまったので、目次から任意の場所へ飛んでみるのが良いと思われる。

 

事実のレベル――それぞれの主張の整理

 ここでは、大まかに時系列に沿って、党及び党が言及した論説を中心にその主張の要点を洗い出し、議論を接続する。その中で矛盾や詭弁があればその都度指摘していく。

 まず出発点は、くだんの除名処分について日本共産党が公にした文書である。

松竹伸幸氏の除名処分について/2月6日 日本共産党京都南地区委員会常任委員会 京都府委員会常任委員会

要約

  • 松竹氏が「すでに公然と党攻撃を行っている」という「特別な事情」のため、支部委員会のもと、同意党規約第50条に基づき京都南地区委員会常任委員会が除名処分を決定。京都府委員会常任委員会が承認。
  • 党首公選制は、民主集中制の組織原則(分派の禁止)に相容れない。
  • 松竹氏は、現党規約が異論を許していないかのように事実を歪めて攻撃している。
  • 松竹氏は安保自衛隊に関する綱領路線に反対し、党の方針を「野党共闘の障害になっている」「あまりにご都合主義」と攻撃している。
  • 松竹氏は、党に対して「およそ近代的政党とは言い難い『個人独裁』的党運営」などとする攻撃を書き連ねた鈴木元(日本共産党員。1月に『志位和夫委員長への手紙: 日本共産党の新生を願って』を出版。)氏の本の出版のタイミングを、自らの出版物と合わせるよう働きかけた。この事実は、『週刊文春』1月26日号において、松竹氏が認めている。また、松竹氏は党の聞き取りに対して、鈴木著書の中身を知っていたと認めた。これは党攻撃のための分派活動である。
  • 松竹氏は、党の聞き取りに対し、自身の主張を党内で中央委員会などに対して一度も主張したことがないことを事実として認めた。松竹氏は、規約で保障されている党内で意見を述べる権利を行使することなく、突然党攻撃を始めた。
  • 松竹氏の一連の動きは、党規約第3条4項(分派の禁止)、第5条2項(党の統一と団結)、第5条5項(党の決定に反する意見を発表しない)に反する規律違反である。

 この党公式の発表に対して、同日、松竹氏はプレスリリースと記者会見を行っている。また、ブログでも同じ内容を重ねて主張している。

松竹氏のプレスリリース

日本共産党による除名処分についての見解 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

同ブログ記事

共産党員は、党にとどまってください | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

会見

 

要約

  • 分派の実態として、グループをつくって連絡を取り合うようなことはない。ただ本を出して党員にも読んでほしいと思ってやったことが分派行為であるならば、言論の自由は全く許されていない。
  • 1970年代初めの新日和見主義分派の処分(中心人物の川上徹が党員権利停止1年の処分)と比較して、除名処分は重過ぎる。
  • 記者会見等にあたって党外の人間とは協力したが、党員からの協力の申し出は断った。分派の実質はなく、こじつけである。
  • 規約第50条は、処分は対象党員の所属する支部の党会議・総会の決定によるとともに、一九上の指導機関の承認を得て確定されることを定めている。地区委員会が処分を決定できる「特別な事情」というのは、支部の活動実態がないことなどを指すのであって、松竹氏の所属する支部は活動しているのだから、党の処分は規約の曲解に基づく。
  • 所属支部は松竹氏を支持している。それでは除名処分を決めることができないという判断で規約をゆがめたという点で重大な問題である。
  • 処分撤回を求めて規約上の権利を行使する。そのため、党員に働きかける。自身に同調して離党しようとしている者は、党にとどまって協力するように。

 ここで松竹氏は、分派の事実がないことを主張しながらも、自身の所属する支部を自身の支持者として形成していることを明らかにしている。これは分派形成を認めるも同然であって、オウンゴールではないのだろうか。

 本来、その人の政治的意見の支持不支持と、規約の解釈と処分は、それぞれ独自の道理に基づいて、別個に考えなければならないものである。しかし、どうも松竹氏はそれを混同しているようにみえる。

 記者会見中の除名処分とは異なる論点でも、松竹氏は政治的競争をすなわち多数派工作に結び付いている。物事は道理によって主張し決定すべきであって、民主制において多数決はその最終決定の儀式的手段に過ぎない。道理を尽くしても受け入れられないのであれば、その集団はそれまでである。非常手段を行使したところで、頭がすげ替わるにすぎず、道理と民主主義が根付くわけではない。多数決ありきの根回し的多数派工作はそもそも、日本共産党の民主主義観とは相いれないのではなかろうか。

 松竹氏は処分撤回を勝ち取るため、自身に同調して離党しようとする党員に、党に留まって援護するよう呼びかけている。これがまた党の逆鱗に触れることになる。

2/8日付け赤旗掲載

党攻撃とかく乱の宣言/――松竹伸幸氏の言動について/書記局次長 土井洋彦

要約

  • 2/6日の松竹会見は、「日本共産党に対する攻撃・かく乱者としての姿をあらわにするもの」
  • 除名は、「党首公選制」という意見に対してではなく、党規約に反して規約と綱領を公然と攻撃したことに対してである。
  • 鈴木元氏との関係が党攻撃のための分派活動に当たることは明白。松竹氏は一切弁明できていない。
  • 規約に基づいて党攻撃から党を守ることは、憲法21条「結社の自由」にもとづく当然の権利である。
  • 松竹氏が党内に自らの同調者をつのることを宣言しているのは、分派工作の宣言に他ならない。
  • 松竹氏は「善意の改革者」を装っているが、その正体は明らかである。

 党は、ここでは松竹氏の手続き上の異議に反論せず、松竹氏を「攻撃・かく乱者」と規定することに終始している。これは、松竹会見を報じたマスメディアの「共産党は異論を認めない」という論調に対応したものではあるが、論戦としては「除名処分について」文書の内容を繰り返すもので、進展はない。

 処分撤回を求めて党員に働きかける行為を分派活動と指弾された松竹氏は同日、ブログで反論している。

仮にも「学術・文化」を担う責任者の書き物か!?—「赤旗」土井論文 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

要約

  • 「党攻撃とかく乱の宣言」論文は、松竹氏が党員に除名に反対の意思表示を呼びかけたことに対して、「分派をつくるという攻撃とかく乱の宣言」と批判しているが、党規約に定められた再審査を求めるにあたり、自身の正当性を訴えかける権利はないのか。
  • 論文の執筆者は共産党学術・文化委員会責任者の土井洋彦氏である。「学術文化」とは、反対論も含め広く分析・試行しながら漸進的に真理に近づくものである。しかしながら、土井論文は、共産党の「学術文化」が結論に都合の良い材料だけを集め不都合な材料を隠し通すものであることを告白したようなものである。
  • 党は松竹氏の主張を「分派」と主張するが、分派は党員がつくるものであって、すでに分派として除名された松竹氏は、党員ではないので分派はつくれない。

 前段は手続き論として一定の妥当性があるが、党に手続き上の異議を申し立てる当の松竹氏が、会見を含めた手続き外での番外戦術的な世論工作を行ってきた。こうした動きは誠実なものとは言えない。もちろん、党内での公式な発言権が事実上無い状態ならばやむを得ない行動ではあるが、その点については議論がない。

 後段の主張は詭弁である。外部からの分断工作も語義上の分派工作に当たるのであって、もちろん規約上の対応はできないけれども、公然と非難する権利はある。

 2/8同日、朝日新聞がこの件について社説を発表した。

(社説)共産党員の除名 国民遠ざける異論封じ:朝日新聞デジタル

要約

  • 党勢回復に向け党首公選を訴えた党員(松竹氏)を除名することは、党の閉鎖性を一層印象付け、幅広い国民からの支持を遠ざける。
  • 激しい路線論争が繰り広げられていた時代ならともかく、現時点で党首選を行うと組織の一体性が損なわれるというのは、かえって党の特異性を示すことになるのではないか。
  • 党のあり方を真剣に考えての問題提起を一方的に断罪するようなやり方は、異論を許さない強権体質としか映らない。
  • 党内の結束が保てたとしても、党外の有権者・知識人の心が離れるなら、党勢は細るばかりだと思い知るべし。

 朝日新聞社説は、除名の正当性ではなく、それが与える間接的な影響を主に取り上げている。

 その論は、「共産党は普通になれば支持されるだろう」という考えを基調としている。しかしこれは朝日新聞社自身を(そしておそらくその社員たちを)支配している「普通」に対する強迫観念を投影したものに過ぎない。

 朝日新聞紙面にしばしば見られる「どっちもどっち論」の出どころもまた同根であろう。道理よりも人心に阿ることを優先するポピュリズム的なやり方を、国民的大衆的と呼んではならない。

 ともあれ、翌2/9、党は赤旗紙面上で朝日新聞に対して反論する。

「結社の自由」に対する乱暴な攻撃――「朝日」社説に答える/政治部長 中祖寅一

要約

  • 除名処分は「一方的な断罪」ではなく、規約に基づいた意見表明がないまま、公然と党攻撃を開始したことに対するものである。
  • 朝日新聞社説の「異論を許さぬ強権体質」という評は、事実に基づく公正な報道姿勢を自ら投げ捨てたものである。
  • 朝日社説は松竹氏の言動を善意のものと持ち上げているが、松竹氏が善意から行動しているならば、なぜ規約をふまえルールに基づいて行動しなかったのか。
  • 松竹氏は、党の根本を否定する内容を主張しながら、「規約と綱領の枠内」という偽りを振りまいている。善意に党を考える姿勢ではない。
  • 松竹氏は、「乱暴な党攻撃を書き連ねた本」を出版した鈴木元氏への働きかけなど、分派活動を行っていた。
  • 朝日社説は、党として公にしている事実を無視しており、道理のかけらもない。
  • 1988年12月20日最高裁判決は、憲法第21条「結社の自由」について、松竹氏の主張する「言論・出版の自由」が、自由な意思で加入した組織のために「制約を受けることがあることもまた当然」としており、「言論の自由」によって党攻撃を合理化することは不可能。
  • 日本共産党の方法を「閉鎖的」「党の特異性を示す」などと攻撃する朝日社説は、「結社の自由」を保障した憲法への攻撃である。
  • 「結社の自由を守れ」と声を上げることを呼びかける。

 党は一貫して、松竹氏の分派・党攻撃という自身の事実認識に拠って主張を行っている。それが揺るがない限り、党の態度の正当性もまた揺らがない。

 ところがこの点について同日、本件において党から二度名指しで批判された鈴木元氏が反論を提出している。

鈴木元『松竹伸幸氏への除名処分と小池晃書記局長の会見等の共産党の見解について 

要約

  • 赤旗紙面上で2回にわたって批判を受けた。紙面は社会的に開かれた場所であり、党内問題ではない。従って、赤旗に反論権を求め、意見を公にする権利を行使する。
  • 規約第50条の例外規定のもと地区委員会で処分決定がなされたが、党の「全国的な問題で急を要した」という説明は説明となっていない。
  • 委員会決定は通常委員会総会決定のことを言うが、本決定は常任委員会で行われている。
  • 決定がなされた常任委員会には、規約上弁明の機会を保障されている松竹氏は呼ばれていない。
  • 除名という最も重い処分が規約を蔑ろにする形で行われたのは疑問。
  • これまで党内で意見を上げても、解決も回答もなかった。「党内解決の努力をせず外から言うのは規約違反」という党の判断は不当。
  • 党首は公人であり、その在り方は党内問題ではない。
  • 「党首選挙が分派を生む」という論は、党建設委員会による2022年8月4日「革命党の幹部政策」論文がもとであり、この規約解釈を勝手に「党の決定」とするのは間違っている。
  • 松竹氏の非核・専守防衛論を党綱領の「安保破棄・自衛隊解散」に反する主張とすることは、志位委員長のもとでの野党共闘における共産党の「安保条約当面維持、野党連合政権では自衛隊合憲」という方針をも綱領に反対する路線として批判することになり、野党共闘の否定に至る可能性がある。
  • 著書『志位和夫委員長への手紙』における「個人独裁的党運営」云々という記述は、志位氏の書記局長就任が宮本不破体制において密室で決められたことを批判するもので、本全体として党攻撃を行ったものではない。
  • 周囲の党組織から南地区委員会への除名処分の説明を求める声が上がっているが、地区委員会は対応できていない。
  • 松竹氏とは以前から面識があるが、出版に当たり日程以外で松竹と意思統一したことはなく、分派の事実はない。
  • 小池書記局長の2/6記者会見からは、党規約に対する不見識がうかがえる。
  • 赤旗の示した1988年最高裁判決は、司法審査は政党の処分について、「原則として当該政党が有する規範・条理に基づき適正な手続きに則って、なされたかいなかの点についてのみ」及ぶとしている。つまり、規約適用の適切性が問われる。松竹除名処分は無理に無理を重ねており、党外からの批判は必至である。
  • いまからでも遅くないから、除名処分を取り消し謝罪せよ。

 この論文は論点が交錯しており、主張とは関わりのない領域での党への批判的な記述によって冗長となっているがそれでも、事実であれば除名処分の手続き的正当性が失われるクリティカルな記述が含まれている。除名処分の正当性もさることながら、党内での議論が機能不全に陥っていたならば松竹氏の党に属しながらの「外からの攻撃」も一定の妥当性を得る。

 同日、志位委員長は記者会見で自ら説明を行い、翌10日の赤旗に掲載された。

志位委員長の記者会見/松竹氏をめぐる問題についての一問一答

要約

  • 問題の基本点は、除名の発表文とこれまでの二回の「赤旗」論説ですべて述べている。
  • 除名処分の理由は、異論を持ったからではない。そういった排除は規約で絶対にやってはならないとされている。除名は、異論を党内の党規約に基づく正式のルートで一切表明することなく突然、外から党の根本的立場を攻撃したことに対する、然るべき対応である。
  • 除名は憲法21条「結社の自由」に保障された「政党の存立及び組織の秩序維持」のための対処であり、「言論の自由」「出版の自由」で党に対する攻撃を合理化することはできない。
  • 松竹氏は、規約と相容れない「党首公選制」を主張し、党規約に基づく党運営を「異論を許さない政党」と事実に反する主張で攻撃した。綱領に反する「安保堅持・自衛隊合憲」を主張し、綱領と政策を「野党共闘の障害」「ご都合主義」と攻撃した。。鈴木氏の本が党を攻撃する内容のものであると知りながら発刊を督促するなど、分派活動を行った。このような事実を重く見ており、除名処分は妥当。
  • 党の規約は、党内で異論を唱える権利を保障している。松竹氏がルールに乗って話し合いを求めてくれば誠実に応じたが、それはなかった。
  • 規約上の処分に先だって、1月21日の藤田編集局次長の論説で政治的批判・政治的警告を行ったが、松竹氏は一顧だにしなかった。また、2月2日の府・地区常任委員会による聞き取りでも、全く反省をしなかった。こうした手続きの上で、除名以外にないと判断した。従って、手続き上も除名という判断も適切だった。
  • 鈴木氏への対応は、中央は報告を受けていないが、規約上の対応は検討されているはずである。
  • 朝日社説は、松竹氏を「善意の立場からの改革者」であるかのように持ち上げ、党が一方的に異論を排除したと事実をゆがめて描いている。
  • 「結社の自由」は、結社に自由に加入(あるいは脱退)する自由とともに、結社が自主的・自律的に運営する自由も認めている。大手メディアが任意の党の運営を「非民主的」と決めつけてバッシングすれば、「結社の自由」は危うくなる。
  • 朝日新聞は2022年7月の社説でも、日本共産党に対して事実をゆがめた非難を行っており、党の自主的・自律的な運営に対する介入・干渉・攻撃である。
  • 党指導部の選出方法については、現状の方法が一番民主的で合理的である。「党首公選制」を押し付けることには道理がない。
  • 政党の党首の選出方法は、党の自主性と自律性に任せられるべき問題であり、他党のやり方について云々することはない。それが「結社の自由」である。
  • 朝日新聞が自由な言論活動をやることを否定するものではない。言論の自由は断固として擁護する。従って、党は言論で応じている。
  • 松竹氏の行動の根本には、「日米安保条約堅持」への政治的変節がある。
  • 善意の意見には誠実に対応するが、悪意からの攻撃には断固反撃する。
  • 朝日新聞社説は悪意だったと思っている。

 党中央の主観的事実として、これまで同様一貫している。

 ただし、党内部でのコミュニケーションが不全であったならば、そうした中央の主観も事実を映しているとは限らない。例えば、「松竹氏が一度も正規の党のルールに基づいて異論を表明しなかった」という党の認識は、末端での水際作戦的な異論封殺や揉み消し・握り潰し、連絡・伝達の不備による散逸・消失などによってもたらされたものでもありうる。

 とはいえ、処分の判断は複合的な要素によるものであるため、部分的な事実について松竹氏・鈴木氏の反論が通ったとしても、全体としては処分が覆りはしないであろう。

 2/10、毎日新聞がこの志位会見を全く無視する形で社説を出している。単に技術的な関係で発表日時が前後したのかもしれないが、朝日新聞社説を反復する形である。

社説:共産の党員除名 時代にそぐわぬ異論封じ | 毎日新聞

要約

  • 松竹氏の党首公選制の提案は、党勢退潮への危機感から、党内論争を活性化するために行われたものである。
  • 共産党以外のすべての主要政党が党首公選制を採用しており、「公然と党攻撃を行っている」と退けて済む問題ではない。
  • 党は近年現実路線へとかじを切ってきたが、今回、旧態依然との受け止めがかえって広がった。組織の論理にこだわるあまり、異論を封じる閉鎖的な体質を印象付けたのではないか。
  • 自由な議論ができる開かれた党に変わることができなければ、幅広い国民からの支持は得られまい。

 この毎日社説は、既にあった議論の域を出ない。当然、党は再び猛然と反撃する。

2/10結社の自由への不見識/田村氏が「毎日」社説で指摘

要約

  • 松竹氏は、党の規約を認めず、日米安保条約破棄という党綱領の核心部分を認めていない。党員としての立場にないことが明らかな人が『党員である』ことを売りにして党の外で騒ぎ立てることは党に対する攻撃
  • 松竹氏の除名理由は異論を持ったからではなく、毎日社説見出しの「異論封じ」は松竹氏の側に一方的に立ったもの。
  • 結社の自由の観点からすれば、党改革を迫るのは「見識を欠いたもの」

事実踏まえぬ党攻撃 「毎日」社説の空虚さ

要約

  • 党はその事実と見解を全面的な公にしてきたが、毎日社説はそれらをまったく踏まえず、「閉鎖的な体質」「開かれた党にならなければ支持は得られまい」などと決めつけ

 新聞社に対するこうした厳しい反撃は、党に対する更なる反発を呼んでいる。しかし、言説の内容と事実のレベルで見れば、共産党の対応は正しい。朝日・毎日両社説は、道理から外れた場所で私的な心象を語っているに過ぎない。

 2/14、産経新聞が周回遅れ的な社説(「コラム・主張」)を掲載する。

【主張】共産党の除名騒動 危うい強権体質が露わに - 産経ニュース

要約

  • 共産党にとって「結社の自由」は「言論、出版の自由」より上位にあり、「民主集中制」では上級機関の決定にたいし、一般党員は絶対服従を強いられる。
  • 朝日・毎日社説に対する異様なまでの非難は、外部からの異論さえ許さぬ排他的な党体質を露にしている。
  • 共産党が政権を担った場合、「言論の自由」は同党が容認した範囲内でしか許されないだろうと判断。共産党独裁の中国でも、憲法上は「表現の自由」が明記されている。
  • 現実的な安保政策への転換を求めた松竹氏を除名したことで、党の「日米安保破棄」路線はより固定化された。

 「結社の自由」と「言論の自由」はいずれも守らなければならない憲法上の権利であって、それらが衝突するときには法理上適切に対処されなければならないからこそ、最高裁判決による憲法の解釈が持ち出されたのである。「どちらが上」という話は産経新聞社の勝手読みである。

 また、共産党が政権を担った場合の言論の自由については、産経新聞社は日本の三権分立制を理解していないものとみられる。言論の自由を(他の権利との関係で)どの程度許容するかは、最高裁判所憲法判断にかかっており、国会で多数派を占め内閣を形成したとしても、簡単には手を入れられるものではない。「共産党が政権を取ると独裁になる」という言説は古くからある反共の決まり文句ではあるが、日本国の政治制度に対する無理解を露呈したものに過ぎない。

 このコラムは全体的に噴飯ものであるが、党はわざわざ反撃している。

2/15「産経」社説の特異な立場

要約

  • 党は、一般に「結社の自由」と「言論、出版の自由」をいずれも表現の自由に関わる重要な人権と捉え、どちらが優位になるなどとは主張していない
  • 松竹氏が「結社の自由」に基づき党綱領・規約を認めて加入している。党を外部から批判・攻撃することは党員であることと両立しない。党と異なる見解を主張したいのであれば、離党の自由も、離党後の言論の自由も保障されている。
  • 処分の経過は、異論を党規約に基づく正式ルートで表明しないまま突然外から党の根本的立場を攻撃したことが党のルール違反とされたことで、どの党にも当てはまる当然のものである。
  • 産経社説は、「押印は絶対服従を強いられる」などと決めつけているが、もしそうであるならば党が一定の勢力を有していることはありえない。
  • 産経社説は、党の朝日・毎日社説への「異常なまでの非難」が「外部からの異論さえ許さぬ排他的な体質」を露にしているとしているが、党の批判は事実を踏まえない決めつけによる不公正な論難・政党の自律権への侵害に反論したものである。
  • メディアが政党に対し不公正な批判を繰り返すことは、民主政治のプロセスを歪める

 同日2/15、朝日新聞は懲りずにコラムを掲載する。これは、産経新聞によるコラムと大差のないレベルで道理が破綻しており、論ずるに値しないものに思われる。

あの国の共産党が党内投票の試みを止めた 「民主集中制」の呪縛とは:朝日新聞デジタル

  • 民主集中制が「民主的に議論し、決定したら統一的に行動すること」ならば、公選で指導者を決定し、当選者を統一的に支持すればよい
  • 赤旗の「公選が分派を生み出す」という理屈は、「民主」が行き過ぎては「集中」を損なうという意味か
  • 中国は民主集中制憲法に明記し、独裁を強いている
  • 日本においては、党の論理を国家に浸透させるのではなく、党外の市民に支持と理解を広げなければならない。

 朝日新聞の提案するような、一発多数決の党首公選で選ばれた指導者の独裁を許す体制のは、ファシズムに他ならない。公選は「行きすぎ」るほど民主的な方法ではなく、むしろその逆である。党員一人を一票に還元・集列化する多数決制よりも、徹底的な話し合いによるほうがはるかに民主的である。その点、党の民主的運営を押し進める立場であるならば、党首公選制ではなく直接民主制、党大会の日程拡張とすべての党員の発言権を求めるなどが対案となるべきであろう。

 これにたいする党の反撃は、2/17赤旗に掲載された。

「朝日」コラムにあらわれた“反共主義という呪縛”

要約

  • 朝日新聞は、赤旗の指摘・批判にも関わらず、事実の歪曲と「結社の自由」への介入を続けており、良識を疑う。
  • 日本共産党民主集中制は、自身の歴史的経験の形成物であり、党内での民主的討論や少数意見の留保と全党の統一行動を図るもので、「異論排除」や「上意下達」とは無縁である。
  • 日本共産党民主集中制は、自発的な意思によって結ばれた結社の内部ルールであり、社会に押しつけることは決してしないとたびたび強調している。
  • 日本共産党が中国の人権抑圧を厳しく糾弾し、「共産党」の名に値しないと批判していることは周知であり、中国共産党と並べて議論する道理はない。
  • 「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す」という理念を掲げた朝日新聞が、反共メディア同様の、事実も道理も無視した主張を繰り返すのは異様である。
  • 日本大手メディアには、軍国主義に加担した戦前の教訓がある。いまするべきは日本共産党への攻撃ではなく、岸田政権の軍拡に対する正面からの批判である。

 ここで赤旗は、「一読して強烈な違和感」、「言論機関としての良識を疑います」とより語気を強めて朝日新聞を批判している。この姿勢をトーンポリシング的に批判することは可能だが、道理を欠き事実の指摘を受け入れず対話を拒否しているのは朝日新聞のほうである。

 今般の出来事における党の振る舞いを批判するのであれば、その事実認識の誤りを適示するほかない。党内での議論や手続きの実態を告発する内容であれば正当な批判的報道であるが、今のところメディア各社の行っていることはイメージに基づく大味なバッシングでしかない。その結果論争はもはや元の論題を離れて、泥仕合と化している。

 2/18、赤旗は主張を集約した問答形式の解説記事を掲載している。

大手メディアの共産党バッシングどうみる?/おはようニュース問答 ワイド版

要約

  • 松竹除名は異論ではなくルール違反のため。
  • マスメディアの論説について「攻撃」という語を使うのは、それが事実に反する批判だから。
  • 安保堅持なら、「抑止力」として米軍問題は鎮圧される。それでは共産党共産党でなくなる。
  • 松竹の根っこには安保堅持への変節がある。一昨年の総選挙以来マスコミが作り出した「党首公選」の声にのって自分の主張を宣伝するのが狙いだろう。
  • 専断を排し、みんなの知恵と力を集めて民主的に運営するうえでも、団結するうえでも、今の指導部集団を選出する方法が一番合理的である。
  • 「結社の自由」と「言論・出版の自由」もいずれも重要な基本的人権である。
  • 朝日は人権擁護を標榜するなら共産党攻撃の前に岸田軍拡を批判的に報道せよ。

 これ以上議論を追っても、新たな事実が出てこない限りは水掛け論に終始するのでここでいったん切り上げたいと思う。

 

 今回の除名処分問題を、「それぞれ落ち度があったため、誰もが不幸な結末を迎えた」とまとめるのはたやすい。しかしそこに潜む問題は、社会一般に関わる問題として学術的に議論していく余地がある。

除名の件について一般化可能な論点は次の3つである。

  1. 組織の意志決定の正当性の担保
  2. 組織人の倫理
  3. モラル・ハラスメント

順に見ていこう。

組織の意志決定の正当性の担保

 松竹除名処分問題の第一の争点は、党の下した処分の正当性に対する疑義である。これは、「規約そのものの正当性」、「規約の解釈・執行の正当性」、「規約の執行の正当性を担保するための手続きの正当性」といった、複数の階層に対する疑義でありうる。そしてまた、「正当性を担保するための手続きの正当性を担保する……」という無限遡行も招きそうに見える。それは究極的には、党組織全体のコミュニケーションに対する疑念の現われなのである。

 組織の意志決定と行動は、一般にいかにして正当化されているのだろうか?。こうした問題は、一方では、国家・共同体における法-権利の問題として人類文明の比較的初期から、法学として学問的な追究がなされてきた。他方、20世紀に入ってからは、経営学行政学などで現代的な組織の意志決定の学問が形成された。

 現代の法の正当性を担保するための重要な原則の一つとして、「デュー・プロセス・オブ・ロー(適正手続きの保障)」が挙げられる。これは、法の適正な手続きによってのみ刑罰や行政行為が可能であるという考え方である。つまり、公的な意思決定及びその執行は、その時々の気まぐれや思いなしではなく、事前に決められた方法と基準によって行わなければならないのである。

 さてしかし、いくら手続き通りに行われていても、手続きそのものが不正に侵されていれば、その手続きに則った行為は正当とは言えない。それらの、法の正当性を担保するための手続きの正当性は、いかにして担保されるか?。それは、国家においては一連の手続きを法に定める立法府の議員や、法を適用する司法府の裁判官の任命制度に係っている。

 任命制度が正常に作動するためには、任命制度の作動を監視する機構が必要となる。それは例えば、選挙管理委員会や選挙監視活動を行う団体である。

 しかしそれらの団体も、正常に作動しているか監視しなければならない。かくして、最終審判者として民衆を想定する民主主義を除いた、すべての専制体制は理論上その完全な作動のためには無限の組織内スパイを必要とする。そして、それらの無限の組織内スパイが活動リソースを食い尽くすため、組織の維持は不可能である。

 これは、制度や手続きは行為の完全な正当性を担保しえないことを意味している。もちろん、制度や手続きを定めることで様々な不正を排し、ある程度の正当性を確立できる。しかしそれも、組織が正常に作動している限りのことであって、異常なコミュニケーションの蔓延を制度的に抑止できはしない。

 つまり、法や規約、制度や手続きは、組織や集団の正常なコミュニケーションの一要素に過ぎず、それらを絶対的に担保するものではない。つまり、「メタ言語はない」のである。

 正当性とは、実践的には納得の指標である。それが機能するためには、それについてのコミュニケーションがなければならない。これこそが政治である。

 そのコミュニケーションは、伝統やカリスマに依存している場合もあれば、民主的議論に立脚したものでもありうる。いずれの場合も内部的な対立とすり合わせは常に存在する。しかし、不仁な行いによってコミュニケーションそのものに対する不信を生み出せば、早晩、法の正当性は崩壊するであろう。

組織人の倫理

 松竹除名処分問題第二の争点は、党員として松竹氏の行動にどの程度正当性・妥当性があったかである。組織に属していながら、組織を救うためという名分で、組織に反する主張をマスメディアに訴えかける行為は、党からすれば「攻撃」であり、マスメディアらの受け止めは「善意の改革者」であった。それらは主観的な評価である。しかし我々はこの問題を、客観的で普遍的な視点の下で、組織人の倫理の問題として考えることもできるだろう。

 組織活動は、さまざまなステークホルダーと価値に関わって成り立っている。例えばそれは、自分やその家族、自分と同じような組織成員とその家族、ユーザーや消費者、周辺住民、支援者、関係団体、官公庁、マスメディア、投資家、そして未来を生きる人々などが挙げられる。これらのステークホルダーは、広がりを持っており、普段不可視化されていることもある。

 こうしたなかで行われる組織活動では、それぞれの価値の対立が発生しうる。例えば、公害問題において、企業の利益と周辺住民の健康が対立する。あるいは環境問題において、今生きる人々の便利と、未来の人々の生存という価値が対立する。あるいは、自分自身の雇用と生命の危機と、ユダヤ人数万の生命が対立する。組織的な意思決定においてこうした問題が解決されればよいが、もし組織の意志決定が正義に反するものであったとき、倫理的判断に基づいた問題解決が組織成員の一人一人に求められることになる。

 そうしたとき、ステークホルダーと価値を吟味して、問題解決のための有効な行動を設計しなければならない。目的に対して過剰な手段を使えば、他のステークホルダーに対して過度な負担をかけることになるし、しかし目的に対して弱すぎる手段では問題を解決できないからである。

 組織における問題解決を試みる際、その組織の正規のルートによる異議申し立ては第一に考えるべき正道である。突然の公益通報内部告発、マスメディアをけしかけるといった行動は、決して禁止されるものではないが、ステークホルダーに衝撃と負担をかけることになるため、場合によっては損害賠償請求に繋がる悪手である。また、そういった手段があまりに軽率に利用されると、公益通報等の手段が社会的信頼を失い、無力化されてしまいかねない。*1

 今回の件で言えば、松竹氏らが党内での公式な議論を尽くさなかったことは、その正当性と倫理性において致命的な落ち度であった。彼らがもう少し周到な準備と計画に基づいて、事前に党内部で可能な限り異議申し立てを行い記録に残していれば、同じことをしても党からの反撃は不可能になっていたはずである。

 こうした問題系は、応用倫理学の範疇として企業倫理や公益通報を巡って研究がされている。入門的な教科書としては、例えば放送大学の『新しい時代の技術者倫理 (放送大学教材)』がよくまとまっている。

モラル・ハラスメント

 松竹除名処分問題の第三の争点は、マスメディア及び大衆的知識人と日本共産党の間のコンフリクトである。党外からの「日本共産党が国民に受け入れられるための提案」を、党が「攻撃」と受け止め過剰反応的に反撃したことで、周囲を困惑に陥らせている。しかしこうした見方は一面的である。

 共産党に「提案」する知識人の言説に共通しているのは、「国民」や「市民」を引き合いに出すことで、コミュニケーションから出来事の事実や、「自分」を抹消していることである。彼らの発話は全て、「国民はこう思うだろう」「市民はこう受け止めるだろう」という形で、党に対し変容を迫る。

 しかし、実際には「国民」や「市民」は存在しない。一人一人考え方の違うバラバラの人間がいるだけである。つまり、彼らの言説の参照先は全く信用に値しない。彼らはなぜ、自らの理性と知識によってアンガジュマンするのではなく、不定形の主体を参照して発話をするのか。

 彼らの言説の形式は、自らを傍観者の位置に起きつつ、アドバイスのふりをして党の根幹部分への干渉を試みるものである。これは、モラル・ハラスメントにおける「マニピュレーション」そのものではないだろうか。

 「モラル・ハラスメント」はもともと、フランスの医学博士で犯罪被害者学などに取り組んでいたマリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した概念で、『モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない』,『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』などがある。

 「モラル・ハラスメント」を直訳すれば「精神的な嫌がらせ」であるが、イルゴイエンヌの「モラル・ハラスメント」の射程はそこに留まらない。嫌がらせは何度繰り返しても嫌がらせに過ぎないが、「モラル・ハラスメント」は隠蔽された微小な攻撃を継続的に行うことで、対象者の尊厳や完全性を破壊する一連のプロセスである。

 モラル・ハラスメントの明確な定義は難しい。なぜならそれは、メタ・コミュニケーションレベルの概念だからである。モラル・ハラスメントの過程は様々な形で隠蔽されて進行するため、一般常識的な外部からの視点からではハラスメントの加害・被害の見分けは不可能で、ともすれば二次加害に繋がってしまう。

 これを安冨歩は、「学習」というパースペクティブから明確に再定義した(『複雑さを生きる やわらかな制御』)。そこでは、モラル・ハラスメントは、相互学習に基づくコミュニケーションに擬態した、破壊的なメッセージ(心理的嫌がらせや、矛盾した振る舞い、社会通念の押しつけなど多岐にわたる)によって、相手の正常な学習能力の作動を破壊し、また人格を支配することである。こうした意味でのモラル・ハラスメントの明快な入門書として、安冨歩著『誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠』がある。*2

 前半部で挙げたマスメディアの論説は、善意の指摘のふりをしながらも、党からの反論は一顧だにせず学習を停止した状態で自らの主張を繰り返している点で、モラル・ハラスメントに限りなく近い行動をとっている。彼らは、党に対して開かれたコミュニケーションを求めているが、彼ら自身が党に対して開かれたコミュニケーションをとっていないため、党がどれだけ努力しても、コミュニケーションは不可能である。抗弁しても聞く耳を持たず、意に反する行動をすれば助言の名の下バッシングを受けるため、まともに相手をすれば最終的にはただただ彼らの云う通りに従うほかなくなってしまうのだ。

 こうしたモラル・ハラスメント的状況で、党が行った事実レベルに固執する対応は、理にかなっている。現実的な加害行為をコミュニケーションにおける文脈で隠蔽・糊塗することはモラル・ハラスメントの典型的な一手段(例えば、名誉を著しく害する悪口を触れ回っておきながら「友達の間の冗談」と糊塗する)であり、それを打破する一つの手段は、行動を完全にリテラルに受け取ることである。*3

 モラル・ハラスメントは、被害者の人格や自尊心を破壊することで支配下に置く。被害者の人格が強い自尊心によって守られていれば、狙いは直ちに看破され、モラル・ハラスメントは機能しないのだが、被害者の人格の破壊が中途半端だと、自らが攻撃を受けていることを悟ることはできても、その機序を理解できないという事態が起こる。これにより、被害者は秩序付けられていない怒りの爆発を起こすことがある。このアウトバーストは、モラル・ハラスメント被害者を社会的に窮地に追いやり、モラル・ハラスメントの加害者を利する結果を招くことが多い。日本共産党の反撃が招いた事態は、まさにこのパターンではないだろうか。

 こうしたパースペクティブのもとで一連の言説を眺めてみると、リベラル・左派論客においても、セカンド・ハラスメントに当たる論説があまりにも多い。彼らは、隠された事実如何ではそれがセカンド・ハラスメントに当たる可能性があることすら、考慮せずに発話している。これは、リベラル・左派のあいだにも、不可視化された暴力に加担しうる危険な傾向が潜んでいることを、明らかにしている。

 モラル・ハラスメントは、コミュニケーションの本質に位置する不可避の問題であって、政治的問題を解決するうえでも、ぜひとも理解しておかなければならない概念系だと思われる。

 

後編

ikiruiiwake.hatenablog.com

へ続く。

*1:ただしもちろん、組織がその全体において腐敗している場合には例外となりうる。正規の異議申し立て制度は、組織的隠蔽を維持するためのフィードバック装置として機能している可能性がある。その場合には証拠隠滅を避けるため、初手で公的機関に通報を行い、不意打ちで外部からの捜査が入るようにしなければならない。

*2: 安冨による先行書としてより専門的なハラスメントは連鎖する / 安冨 歩/本條 晴一郎【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストアがあるが、絶版となっており中古でも入手が難しい。

*3:もちろん他方では、こうした態度は、病的なものでありうる。グレゴリー・ベイトソンは、精神分裂症の原因として、(主に家族関係における)矛盾したメッセージであるダブルバインドを推察している(『精神の生態学』)。

3.存在の無(1)自己再帰と自己意識

肯定的な弁証法

 我々はここまで、エンゲルスの自然弁証法のようなことをやってきた。つまり、量子論的な揺らぎ、偶然性がそのマクロな系においては統計的な物理法則という必然性をつくり出し、物理法則に従う諸々が構造と生命をつくり出し(量の質への転化)、必然は偶然に、偶然は必然に転化し(対立の相互浸透)、等々。そして最後に、自己意識の再帰性が我々を独立した実存としてその階層的な世界につなぎとめる。しかし、以上のような言明は、まったき肯定性のなかに留まっており、我々が目標とする「否定的なもの」を何も語りはしない。

 そして、自然界に存在するように見える階層性は、その物理化学的な挙動を見ればそれぞれ全く異なる仕組みによって創発したものであり、それらを貫く自然法則は存在しない。それらの階層性を貫く共通性は、唯物論的法則として存在するのではなく、一連の論理階型に、つまり人間の理性のカテゴリにある。理性なしには、世界は無限の変化と差異を抱えた混沌である。従って、エンゲルスの自然弁証法は、認識論上のカテゴリを実体の性質と誤認する、哲学史においてお決まりの過ちを犯していると言える。*1

 私が自然科学の知識を参照したのは、そこで直線的な因果律の実体一元論から偶然性と情報を扱う複雑な生物が創発している事実を示すためであって、それ以上ではない。自然科学によって明らかにされる事実を無媒介に社会科学や哲学に適応することは、それこそ論理階型上の区分を侵犯をしている。

 

現れと現象学の前提としての再帰的認識

 前章の最終節にて、「世界はなぜ現れるか?」という哲学史的な問題の本質は、「世界はなぜ現れとして現れるか?」にあるとした。犬にも猫にもウニのトゲにも世界は現れている。彼らは、外界の状況を認識し、それに応じた行動をする。これは特別不思議なことではない。しかし彼らに対して世界は、現れとして現れることはないだろう。つまり、彼らは自分の意識について知ることはないだろう。彼らに対して世界は現れているが、彼らはそれが現れであることは知らないのである。

 世界が現れとして現れるのは、認識が自身の認識について認識するときである。このとき、認識に伴う情報の流れは、一つの再帰的なループを形成している。これが哲学的な諸問題の根源である。

 この再帰的な把握によってはじめて、認識論的、現象学的な思索の領域が開かれ、一つの基礎付けを可能にする。カントやフッサールが行ったのはこのようなことである。*2

 この再帰的構造は、ハイデガーにおいては現存在の定義において現れている。曰く、現存在とは、じぶんの存在においてこの存在自身が問題であるような存在者である。

自然科学を通じて形而上学・純粋な論理の領域へ

 再帰的な認識、認識についての認識は、もはや物理実体的な研究対象ではなく、抽象的な情報の流れや論理構造である。自然科学から出発した我々はここでようやく、正当な形而上学の領域にたどり着いた。形而上学の対象は、外的な客体ではなく思弁である。ゆえにこれから我々が行うのは、思弁についての思弁である。

 ヘーゲルハイデガーが形式的、数学的論理を自らの哲学を担えないものとしたのは、分析哲学の派閥からは非科学的命題を押し通すための言い逃れに映っていた。しかしいまや、次のように言うことができる。つまり、彼らの思考に含まれる再帰性、自己言及性を、従来の形式論理は許容しないのだ。しかし、人の意識はまさしく自己言及的なのであって、その全容を解明するためには、自己言及を記述できるように拡張された論理系が必要なのである。

 

否定性とその再帰を巡る

 再帰性に深入りする前に、これまでの到達点から出直そう。われわれの今の目的は、哲学をすることではなく、自然科学を哲学に接続することにある。

情報と否定性

 前章で、スピノザヘーゲルの「規定は否定である」という命題を情報と結び付けて論じた。情報は、無限の要素からなる世界から特定の要素だけを選び出し(それ以外の要素を捨象・否定し)、「ほかの何でもないこれ」として限定するものである。

 情報は「違い」を生みだし、システムの惰性的な必然の連鎖に切り込みを入れ、その未来を宙吊りにする。すべてを支配していた肯定的な因果の連鎖は、この切断点で否定され、その帰趨が情報に委ねられる。

 認識とは、このような否定性である情報の、主観的なはたらきである。逆に言えば、否定できない領域にあり、「違い」を生みださないものは、認識の対象ではない。

 この観点から言えば、そもそも認識それ自体が否定神学的な調子を帯びている。否定神学的でない学とは、ようするに情報の枠組み抜きに真理に到達できると考える狂信にほかならない。こうした直接的真理の次元は、我々が世界と関わるのが情報においてのみである以上、あらかじめ失われている。

否定性についてのいくつかの神話的主題

 再帰以前の、情報(≒否定性)のもたらす効果を示すために、いくつかの神話的主題を挙げよう。

 まず一つ目は、死についてである。

 多くの動物たちにとって、自分自身の死は直接的肯定的な現実である。死は彼らの物理的システム的組成にすでに組み込まれており、死の存在が彼らの行動を変化せしむことはない。彼らは捕食者や脅威を認識し逃れることができるが、死そのものについてはどうすることもできない。ゆえに、死を認識も理解もできない。認識は情報「違いを生む違い」の枠組みの上でのみ可能であるのに、死は「違いを生まない」だからである。

 他方、人間にとって死はそれを覚悟し、理解しうる。例えば、国外逃亡ではなく毒杯を選んだソクラテスを考えてみよう。このとき、死は選択肢として意識の俎上に載っていると同時に、「違いを生む違い」として意味を持つものである。ソクラテスは自らの生ではなく死を選び、それをもって不正ではなく法を選んだ。このとき、自らの死はもはや意味や理解を欠いた直接的現前ではない。

 ここで、ソクラテスのように実際に死を覚悟することは重要ではない。死を覚悟できずとも、死を覚悟しうる余地があることが人間の認識世界に変化をもたらすのだ。

 死を覚悟しうる余地は、ここで挙げる二つ目の神話、「主人と奴隷の弁証法」の議論に重要な要素として表れる。主人と奴隷の弁証法とは、他者からの承認を求める二者の相克が死を賭けた競争的対立を経て相補的支配関係を発生させ、支配関係がまた逆転に至るまでを描いた一つの神話である。

 承認を巡る競争的対立は、妥協の余地がある利益を巡る対立とは異なり、互いの全存在を賭けた全面的な競争に発展する。ここで死を覚悟して闘わなければ相手の一方的な勝利を認めることになる。しかし、死を覚悟すれば直接に死を呼び込んでしまう。相手を殺してしまえば相手からの承認は得られないし、自分が死んでもまた同じである。

 死を覚悟しようとするが、それができない。自ら敗北し奴隷となった者は、まさにその挫折によって、「死を覚悟しさえすれば」という余地に、絶対的自由というイデアを見る。他方、主人のほうの自由は、奴隷が自分よりも一瞬早く退いたという偶然の事実に直接的に依っているのみである。

自己規定としての否定性

 主人と奴隷の弁証法は、我々に自己規定の契機をも指し示す。このとき、主人と奴隷の双方は否定的な形で相手から自己規定を受け取る。奴隷は主人に自由な主体を見出し、その否定「自由ではない者」として自身を定義する。主人は奴隷に隷属を見出し、その否定「隷属していない者」として自身を定義する。これらは対称であっても同じではない。主人を規定する「隷属の否定」は何の肯定的な理念も示しはしない。一方奴隷は、否定された形で、自由という肯定的な内容を含む理念を得る。

 一般化して言えば自己規定は、「私は(ほかの何でもなく)これである」という、否定の形式を含んでいる。これは、情報の性質としてアプリオリに言えることである。

 しかし(ほかの何でもなく)という契機は、情報の形式の性質であって、その内容のものではない。したがって、(ほかの何でもなく)という契機は意識の内容においては失われ、「私はこれである」という見かけの肯定的=即自的存在に陥る。奴隷は、自らを奴隷とした選択を忘れ、自由の余地を忘れ、規定に含まれる否定性を隠蔽し、「私は奴隷だ」と直接肯定的な自己規定をするようになる。これは、サルトルにおける「悪しき思い込み」である。

否定性の再帰

 個別具体の規定においては、否定性は暗黙の裡に留まっている。しかし、規定一般を明確に規定しようとすれば、規定を規定する=否定を否定することになる。実のところ上での議論は、ここではじめて得られるものである。

 ここで我々が得たのは、「規定(それは否定である)は、(肯定ではなく)否定である」という明示的知識である。これは単に無意味なトートロジーではない。ここで我々は、規定の中で「あるものは、(ほかの何でもなく)これである」という形で暗黙にはたらいていた否定を、規定の一般において明示的な(肯定的な)概念として「否定的なもの」として取り出しているのである。

 同じようにして、自己規定一般を規定する、自己意識一般を意識すれば、「私=自己意識は、(ほかの何でもなく)この『ほかの何でもなさ』である。」ということになる。この「私=何でもなさ」が、ヘーゲルの自己意識における否定性、サルトルの〈存在の無〉、根源的否定である。

 このようにして、否定的なものが否定的なものとして現れるのは、再帰の効果であることが分かる。人間特有の生における虚無感はこのためなのである。

 しかし同時に、無の効果、無化の力自体は認識の基礎的前提でもある。それは世界を切り取り規定する力であって、我々が生きていくためには、この否定的なものを手放したり厄介払いしたりするわけにはいかないのである。

 ところで、ここでは「否定的なもの」は未だ超越論的な抽象に留まっている。それは概念の操作によって見出されているに過ぎない。「否定的なもの」を具体的で自然科学的な現象として捉えるために、われわれはこれを意識の過程として経なければならない。意識の過程とは、情報の取得と処理の過程であって、それは学習に他ならない。次節ではこれについて議論する。

*1:エンゲルスの名誉のために言うが、彼だって20世紀中盤以降の生物学・生態学の知識があれば、唯物弁証法などという戯言ではなく、有機体論についての蘊蓄でマルクスの理論を補ったであろう。悲しいかな、エンゲルスは生きる時代が早すぎたのであり、後世の教条主義的なマルクスエンゲルス主義者たちの知的怠慢によって、自然弁証法複雑系科学の先駆けではなく、時代遅れの戯言に位置づけられてしまったのだ。

*2:現象を、正確に言えば現象に対する認識を純粋な出発点とした方法からみれば、私が今行っている自然科学の方法は根拠づけられていないことになる。しかし、今の私の目的は、現象学によって自然科学を基礎づけることではなく、自然科学によって現象学の実体的な前提を擁護することである。この作業は、認識論や現象学それ自体には必要がないが、自然科学の立場からそれらを位置づけるためには必要である。このような再帰的な認識の構造が実現されてはじめて、世界が世界として、現れが現れとして把握されうるのだから。