生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

一人の人間にとっての善/倫理の根となるべきもの

 一人の人間にとっての倫理を確立することなしに、普遍的な倫理を確立することは不可能である。行動するのは個々人のみであり、選択は個人に課せられているのだから、いくら普遍的な倫理があっても個々人がそれにコミットしなければ絵に描いた餅である。功利主義にしても義務論にしても徳倫理にしても、その理論によって人を従わせる力はない。何が善いことかを論じていても、「善いことを為せ!」と命令することはできない。倫理は個人の内心に委ねられるからこそ倫理なのである。

人は誰しも「善い」と思った行動をする

 さてしかし、人は誰しも善かれと思って行動するものだ。それは悪事を働く者も例外ではない。悪事を働くのは、その者がその状況においては敢えて悪事をなすことこそが善であると考えるからである。悪事を悪としてなすものはいない。

 例えば、校舎の窓ガラスを割って回るのはそれが彼にとって何らかの称賛されるべき抵抗だからであり、人を殺すのはより優先されるべき何らかの善のための善の行動だからである。そこには悪だからこそ(あるいは悪であるとしても依然として)善であるという転換がある。悪が悪だと思うならば、窓ガラスを割ったり人を殺したりはしない。たとえ、単に誘惑に駆られて自制心の不足から悪事に手を染める者も、「許される限りで自己の利得を最大にするべきである(それが善だ)」「これくらいのことは許される(許容されないほど悪ではないだろう)」という価値判断を行い、総合的により善だと思える行動を選んでいる。

 

 つまり、自覚的な善意志(「私は善いことをしたい!」)がなくとも、人の意志はそれ自体が善意志でないことはあり得ない。盗人にも三分の理がある。そうでないならばそれは完全に意志を持たぬ狂人であって、善も悪もない。

 だからむしろ、人は善に従って行動するというよりも、人の行動が絶えず善を定義し宣言するのである。

 ここにはまだ社会的な合意や対話の成立する余地はない。社会成員が互いに己の善のために行動するという想定から導き出されるのは自然状態であり、もし何らかの秩序が形成されたとしてもそれは単なる暴力の結果である。

 

人は誰しも善いと「思った」行動をする

 ところで、人間は善いと「思った」行動をするのであって、善い行動をするのではない。人間は全知ではないから、その時その場で行うべき善の行動が何かを完全には知らない。にもかかわらずなにかの行動をするし、しなければならない。あるいは「なにもしない」ということをするかもしれないが、どれにしても何らかの(「「判断をしない」という判断」も含めた)判断を下すことになる。

倫理と学習

 人間は、実際の世界の価値に従って行動するのではなく、価値の予測に従って行動し、得られた結果から予測を修正する作業を行う。これを学習という。学習という概念は、人間の行動選択のモデルに時間的な広がりをもたらす。

 学習という現象を度外視し、あらかじめ行動選択の基準となる価値、つまり効用関数が与えられているものと仮定して考えると、行動は瞬時に状況に対して一意に決定する。このもとでは、社会は協同現象として成立するが、それは秩序だっているかさもなければ破滅的なカオスとしての自然状態であるかのどちらかしか考えられない。なぜなら、行動選択に時間的な広がりがないために、秩序とカオスの中間の「秩序を形成する」という運動の過程を考えることができないからである。近代思想の数々はこのような考え方を原点として、いかに静止状態で安定した社会を形成するかを巡って生み出されているように見える。しかし、このような努力は全く役に立たないばかりか、非人間的な社会を作り上げてしまうのだ。自由市場主義は資本制を生み出してあらゆる存在を資源として蕩尽し、それに反対する社会主義による体制もまたテロルによって人間を抑圧するほかなかった。というのも、その世界観自体がそもそも学習という概念を欠いた非人間的なものだったからである。

己の感覚は学習の根幹である

 さて、学習はどのように行われるのか。つまり、いかに結果の価値を評価し、いかに予測を修正するか。ここでは真の価値はかくされており、文化や社会的価値観などの外的な評価関数はまだ与えられていない。この段階では、価値の判断には己の感覚以外に頼れるものがない。己の行動に審判を下すのは、第一に己の感覚である。予測の修正もまた、学習によって獲得される能力である。この能力が未発達な間は予測の修正幅はランダムであるが、それでも試行回数を重ねることで学習は機能する。

 感覚というものは定量化できないから、功利の定量的評価を前提とした考え方は人間の生き方に適用することができない。価値は常に学習によって暗黙に予測される。明示的な価値の評価関数をつくり出してそれに従うのは、外的な価値評価関数に従って生きるのと同じである。人間にとって最終的な価値評価は己の感覚によって行われるのであって、それ以外ではない。

個々人の感覚を根幹とした倫理の可能性

 自由な人間の普遍的倫理を求めるならばまず第一に、各人が各人の感覚に従うよう要請される。そうでなければ自由な人間ではありえないからであり、そのような前提の上でなければ個々人が同意の上コミットできる普遍的倫理は構築しえない。「各人の感覚を裏切り、客観的で外的な評価によって判断せよ」という命令が有効であるのは、暴力に裏打ちされた権力がそれを発する限りである。それも多くの人々が暗黙に死よりも不自由を選ぶから有効なのであって、死を厭わない抵抗運動を止めさせることはできない。

 現代において、「己の感覚に従え!」という自然からの必然の命令を剝き出しにすることは、アナキスト以外のほとんどの人々の顔を引きつらせる。反動主義者は伝統によって、啓蒙主義者は理性によって、己の感覚を封じ込めようと躍起になっているし、自由主義者もまた検閲によって許された無害な自由のみを己の感覚に与えている。共産主義者は人々の自由を未来社会という無限の未来に先送りにし、自らは党組織の権威に服従する。ファシストは自分自身には自由を許すが、他者にはそれを許さない。というのも、これらの人々は皆人間の全面的な自由が破滅的なカオスに直結すると信じ込んでいるからである。

 しかし、人々がそれぞれの感覚に従ったとしても、学習という動的な変化が存在することで自然状態を克服する社会的関係性が発生しうる。それは、社会的関係性が価値を提供するからではなくて、人が社会的関係性のもとで学習を行うからである。