生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

日本共産党はいかにあるべきか――松竹伸幸氏の呼びかけへの応答

 2023年1月19日、元日本共産党本部職員で現役日本共産党員の松竹伸幸なる人物が、日本共産党に対し党首公選制を求め記者会見を行った。これは同日発売の松竹著「シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由 (文春新書 1396)」とともに各ニュースメディアで報道され、話題となった。

 その二日後の21日、日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」は、松竹伸幸氏への反論となる批判論文を掲載した*1

 

 両者が取り扱っている具体的な議論は、党外の者が言及するに値しない、党の制度上の瑣末な問題である。報道各社が取り上げるのは、共産党に対する反感と好奇の入り混じったスケベ心と、書籍の宣伝のためであろう。従って、門外漢が言及しても彼らの商売を助けるだけである。

 しかし、(最大限好意的に考えて)松竹氏の主張のもっとも本質的な部分は、日本共産党を中心とした活発で前向きなコミュニケーションを巻き起こすことにあると思う。これについては私は完全に同意する。従って、松竹氏に対する実践的な応答として、以下で私の考えを述べたい。

 

コミュニケーション論二つ

 コミュニケーションに対する捉え方は、大別して二種類あるように思われる。

 一つ目は、社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスに代表される、言語的な共同性を下敷きとした共同主観的な相互了解と合意形成のコミュニケーション論である。ハーバーマスは、技術と生産物のネットワーク=システムが支配する現代社会に、伝統的文化的道徳理性をベースとした民主的コミュニケーションによる社会形成を対置する。

 我々が日常経験するリベラリズムに基づいた「民主的議論」の多くは、この文脈にある。そして、松竹氏の云う議論もまたこの次元にあるものだと思う。要は、安全保障はじめ、"民主的な話し合い"によって現実的な政策協議をしようではないかということなのである。

 しかしこのようなコミュニケーションだけでは、我々は最大公約的な保守共同体主義に陥るほかない。そこでは、共同性の土台となる生活世界への「素朴な信頼を揺るがす」、「一切が全く別様でありうる」可能性は拒絶され、我々は我々自身の地平を超えることができない。つまりそこは、歴史の切断点としての革命が、その前提において拒絶されるコミュニケーションの世界なのである。こうした世界観の下での革命は、"伝統に基づいた"復古主義的な国家社会主義以外にあり得ない。

 

 従って、革命を目指す立場からは二つ目のコミュニケーション論が要請される。それは、「一切が全く別様でありうる」経験、異界の者=〈他者〉との直面、象徴的秩序を切り裂き破壊する無・絶対的否定性の闖入としてのコミュニケーションである。

 コミュニケーションとはそもそも、情報やコンテキストを共有したり、相互の意思を確認するための行為である。従って、その原初的な形態において全く理解不能な〈他者〉との遭遇が想定されなければならない。また、既に共同・共有しているものにかんして、コミュニケーションする必要性がない。つまり、コミュニケーションはそのあらゆるフェーズにおいて、絶えずそれ自身の前提をつくり出す、"pull oneself up by one's bootstraps"的営みである。それは、学習というプロセスを想定せずには不可能である。学習とは、秩序の絶えざる破壊・再構築である。

 ハーバーマスの議論では、コミュニケーションの前提として、あたかも無限の過去からすでにそこにあったような共同性が想定されており、共同性の形成にかかるコミュニケーションが想定されていない。これは、二重の意味で理不尽である。つまり、第一に前提の存在を説明できないし、第二にそのような社会はコミュニケーションを必要としない。

 一つ目のコミュニケーション論が共-性に基づくものならば、二つ目のコミュニケーション論は差異に基づくものである。それは、共同体を横断するものであり、いわば文化人類学的視点のもとにある。そこでは各々の特殊な世界観は〈他者〉の世界との直面によって止揚され、それとは論理階系の異なる普遍的なものが生み出される。この運動こそが、我々をまったく新たな地平へと導くのである。

 

 これらのことから、我々の生み出すべきコミュニケーションは、ただ現実的な政策論争や妥協点の模索に終始してはならない。いかにリベラルで民主的な議論であろうとも、既存の前提を無批判に「共通の土俵」として是認してしまえば、あとの答えは技術的計算によって一意に決まってしまうからである。我々はむしろ、現在の政治的対立の地平を突き破り、もっと根本的な部分において絶対的な差異をつくり出さなければならない。

 現状の日本のあらゆる政策は、一環して一つの世界観のもとに構築されている。それは、18~19世紀的な力の均衡の物理学とリソースの分配の経済学、つまり、孤立系の科学である。この世界観のもとにある限り、安全保障政策は必然的に「均衡」を目指す抑止論が現実的で正当な手段とされ、経済政策は国家社会主義的な「選択と集中」、国民経済は優勝劣敗弱肉強食の「競争」の社会に帰着する。

 我々はこれらに対し、各論で反対するのではなく世界観において闘いを挑まなければならない。革命政党たる日本共産党の役割は、現代日本の世界観に対する「素朴な信頼を揺るがす」、「一切が全く別様でありうる」可能性を提示することにある、と私は考えている。もちろん、それらの可能性は夢物語ではなく、確固とした理論の確立をもって提示されなければならない。そのためには、一般システム理論を中心とした"開放系の科学"の知見が不可欠であると思われる。

野党共闘のリアリティとリアル

 松竹氏は、日本共産党の安全保障・自衛隊政策が野党共闘の現実的な障害となっていると考えているようだ。たしかに、そのような言葉は非共産野党の幹部からもよく聞かれるし、ありがちな論調である。しかし果たして本当にそうだろうか?

 憲法における自衛隊の扱いについて一致していない党派が連立政権を形成した例は、1990年代の「非自民・非共産」8党派連立政権である細川内閣、「自社さ連立政権」村山内閣などがあり、決して前代未聞というわけではない。これらの連立政権において当時安保反対を掲げていた社会党は党是を反故にしたが、それはあくまで結果論であって、状況次第では誰とでも手を組むのが永田町の論理である。ちなみに日本共産党はこのときも蚊帳の外であったが、日本共産党が様々な意味で態度を軟化させたのは21世紀に入ってからであり、現在とはわけが違う。日本共産党は、野党連合政権において自らの安保・自衛隊論は棚上げにすると既に表明しており、90年代連立政権における社会党と大差ないはずである。

 2010年代後半の安倍政権下における政治腐敗は著しく、憲法違反である集団的自衛権の容認などを見れば、政権交代は急務であった。にもかかわらず、選挙のたびに"お家騒動"が発生し、ついに全面的な野党共闘は実現せずに終わっている。日本共産党と他の野党・労働組合の間に、歴史的な確執があることは理解している。しかし、社会党の例を見れば、日本共産党の破滅を望むのであればこそ、むしろ抱き込んでしまうのがよかろうものである。いずれにしても、自分たちの党を割ってでも日本共産党との共闘を避けようとする理屈にはならないのである。

 したがって私は、安保論は現実的な障害などではなく、共産党と共闘しないための一種の言い訳であると考えている。日本共産党が自説を曲げてまでその言い訳の余地を消しても、深く内面化された反共イデオロギーから理外の拒絶に遭うのがオチであろう。野党共闘における安保政策は、目的に到達するのを妨げている障害であると同時にそれがなければ欲望の体系全体が破滅するという、ラカン精神分析における欲望の「対象原因a」となっているのである。

 従って野党共闘を望む我々はここで、安保という障害を取り除くべきではなく、むしろ安保という障害をいわばおとりにして、事実上の共闘を勝ち取る努力をすべきである。ここにジジェクからのお誂え向きの小噺がある。

 Recall again Marx's analysis of how, in the French revolution of 1848, the conservative-republican Party of Order functioned as the coalition of the two branches of royalism (orleanists and legitimists) in the "anonymous kingdom of the Republic." The parliamentary deputees of the Party of Order perceived their republicanism as a mockery: in parliamentary debates, they all the time generated royalist slips of tongue and ridiculed the Republic to let it be known that their true aim was to restore the kingdom. What they were not aware of is that they themselves were duped as to the true social impact of their rule. What they were effectively doing was to establish the conditions of bourgeois republican order that they despised so much (by for instance guaranteeing the safety of private property). So it is not that they were royalists who were just wearing a republican mask: although they experienced themselves as such, it was their very "inner" royalist conviction which was the deceptive front masking their true social role. In short, far from being the hidden truth of their public republicanism, their sincere royalism was the fantasmatic support of their actual republicanism - it was what provided the passion to their activity.

 

1848年のフランス革命で、保守共和主義の秩序党が、「匿名の共和国」において、王党派の二つの部門(オルレアン派と正統主義者)の連合体としてどのように機能したかについてのマルクスの分析をもう一度思い出してほしい。議会での議論の中で、彼らは常に王党派として失言して共和国を揶揄し、自分たちの真の目的が王国の復活にあることを知らしめたのである。しかし、彼らは、自分たちの支配が社会に及ぼす真の影響について、自分たち自身がだまされていることに気づいていなかった。彼らが事実上行っていたのは、彼らがあれほど嫌っていたブルジョア共和制の秩序の条件を(例えば私有財産の安全を保証することによって)確立することであった。つまり、彼らは共和制の仮面をかぶっただけの王党派ではなかった。彼らは自分自身をそのように経験したが、彼らの「内なる」王党派の信念こそが、彼らの真の社会的役割を覆い隠す偽りの前面であったのである。つまり、彼らの誠実な王党派は、公然の共和主義の隠された真実であるどころか、実際の共和主義を幻想的に支えるものであり、彼らの活動に情熱を与えるものであったのである。

Slavoj Zizek- Tolerance as an Ideological Categoryより

(www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳、一部を修正。)

 我々は、この秩序党の議員と同じことを、非共産野党に仕向けるべきである。つまり、彼らの反共しぐさを、彼ら自身を欺くためのポーズとして使うのである。我々は、安保政策において譲歩する必要はなく、むしろ積極的に罵り合いのゲームを展開したほうがよいかもしれない。野党共闘によって我々の理想を実現するためには、「政権奪取目的の野合」というシニカルなテイが不可欠なのではなかろうか。このことに関しては、日本共産党も松竹氏も、政治の言説をリテラルに受け取りすぎている。彼らは真面目過ぎるのである。

 

我々には厳格なドグマが必要である!

 我々の為すべき闘いは、世界観を巡る闘争であることは既に述べた。各論としての松竹氏の安全保障論は軍事対軍事の世界観を無批判に取り入れている時点で論外であるとしても、現状の日本共産党の護憲論では、時代遅れの教条と言われても仕方のない部分がある。なぜなら彼らの主張は、事実ではなく信念に基づくからである。これは、信念「にすぎない」という非難ではない。むしろ、信念の存在論的地位を明確にし、存在論的次元に根拠づけられた平和論を展開しなければならない、ということである。

 ここでの仕事は次のようなものである。つまり、日本共産党の理論と「一切が全く別様でありうる」可能性を提示する異-性・〈他者〉性を、その形式と内容において一致させ、そのもとで憲法9条の精神を体現する平和のビジョンをつくり出すことである。主体・他者性・平和論を三位一体とすることではじめて、新たな世界を開く平和運動が可能となる。

 そのような三位一体の具体例のひとつが、非暴力不服従によりインドの独立をかちとった、マハトマ・ガンディーだと私は考える。ガンディーの運動は、それ自身が主体として自足していると同時に自足を目指すもの(イギリス製品の不買運動を行い、自ら糸車を回し、塩の行進)であり、社会的敵対の体現者であるとともに通常の敵対的地平それ自身を覆し(非暴力闘争)、まさにその異-性によって平和を勝ち取りまたそれ自身が平和である。

 ガンディーの精神や運動は、現実的な条件を斟酌したり吟味したりして得られるものではない。現実的な諸条件を考えれば考えるほど、非暴力不服従運動は全く現実的ではない。むしろ、選択以前の選択としてある態度決定を行ったからこそ、全く新たな真理の地平を拓くことができたのである。それは、サティヤーグラハという言葉で表される、自身の命を含めた経験的な価値のすべてをなげうってでも真理を堅持するという、根源的否定からの実存の炸裂であるとともに究極的にドグマティックな態度である。

 もっとも、ガンディーが絶対的否定性の次元に自覚的であったかといえば恐らくそうではない。ガンディーの思想はインドの宗教的な伝統に導かれたものであった。また、ガンディーはカースト制度を支持したり黒人に対する差別的な文言を残すなど決して完全無欠の人ではなかった。

 我々の為さねばならないことは、ガンディーの精神を支える根源的な決定を反復するとともに、その信念に理論的に厳密な裏付けを行い現実的な世界観たらしめ、憲法9条の堅持をはじめとした政治的主張の支柱とすることにある。このようにして根源的な次元に基礎づけなければ、あらゆる物事が妥協によって蝕まれ、ついにはすっかり消えてなくなってしまうであろう。

 これはあまりに壮大な問題であるから、ここではこれ以上深入りすることはできない。ここでは問いかけと呼びかけにとどめるほかはない。

 

 最後に、いかにこの根源的なドグマを守るのかという問題について述べておこう。今回の松竹氏に対する日本共産党の対応は、いささかパラノイア的である。もちろん、反共攻撃の歴史を鑑みればそうした態度も不思議ではなく、また公式の態度として厳密であるように努めるのは好ましい。しかし、このような対応ばかりでは結局のところ防戦一方であり、攻撃があるたびに一般市民の心象を損なうばかりである。

 そこで、相手の行動を逆手に取ることを考える必要がある。日本共産党の目標は、政治において語られる内容を変えることだけでなく、日本の政治の形式を変容せしめんとするものである。これは、共産主義革命以前に位置づけられる民主主義革命においても同様である。したがって党は、単に内容において応答するだけでなく、形式においても応答すべきなのだ。自らの機関紙に論文を掲載しただけでは、何のアドバンテージも得られない。

 ここでも、党は言説をリテラルに捉えすぎている。反共攻撃に対し理論的に反撃するのはもちろん不可欠である。しかし根本的に必要なのは、政治のコンテキストを動かし、もはやそのような不毛な議論を不可能ならしめることである。そのためには、メタレベルで言説を捉え、行動していく必要がある。行為の形式が往々にして見落とされている点で、党は自分自身の民主主義の言説内容をどこかで信じていない(そして、信じていないことを自分では知らない)……のではなかろうか?