生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

ゲーム(あるいはコミュニケーション)の生成と崩壊

 ここでは、前回までに述べた言語ゲームや「言論ゲーム」を含めた、相互学習によるコミュニケーション上に展開されるゲーム一般の記述を試みる。ゲームは定常的なコミュニケーションを表現するものであり、この生成と崩壊の解明がコミュニケーションの正常な継続のために役に立つと思われるからである。

 そのため、ここでは独自のゲームの定義を行う。この記事は以下の単語の定義に従って書かれる。

ゲームの定義

 ゲームとは、ここでは相互学習によるコミュニケーションに基づく、独自のルールとコンテキストを備えたコミュニケーションのことを言う。いわゆる遊びとしてのゲームも含まれるし、教室の中でのコミュニケーションや経済活動も独自のルールとコンテキストを備えたゲームと言える。言語ゲームや言論ゲームもまた同様である。

 ここではゲームに参加する学習する主体をプレーヤーと呼ぶ。

 すべてのゲームは、プレーヤーの協力的かつ競争的な関係において、各プレーヤーが未知の価値を探索する活動である。

 ゲームをかたちづくるのは相互学習によって、明示的あるいは暗黙的な合意のもと定められたルールである。ルールはプレーヤーの挙動を規定し、報酬や罰則を与えたりする。

 ゲームの要素には、実際のプレイだけでなく、その周辺のコミュニケーションやコンテキストが含まれる。例えば、将棋というゲームには対局だけでなく、定跡や棋譜の積み重ね、大会の伝統やルール、師匠と弟子の関係、プロとアマを含めた競技人口の体系、テレビやネット配信、AIの活用などの要素が含まれる。そのゲーム特有の精神性や哲学もコンテキストである。

 ゲームは、ルール及びコンテキストによってその領域が定められる。ゲームは、世界に対して閉じていなければそれとして存在しえない。

 あるゲームの存続の条件は、ゲームに関わるプレーヤーの維持再生産である。ひいては、ゲームを巡るコミュニケーションの維持再生産である。ゲームは、プレーヤーに対して開かれていなければそれ自身を生み出すことができない。

 

ゲームの生成

ゲームの発生

 原初的なコミュニケーションからゲームが発生する際、そこでは創発が起こり、一つ高位の階層が生成されている。説明が困難だが、コミュニケーションのゲーム化はいともたやすく起こる。

 例えば、子ども同士が小突き合うさまを想像してほしい。片方の子どもがもう片方の子どもにちょっかいをかける。ちょっかいをかけられたほうは、気だるげにニヤッとして小突き返す。ここまでは通常のコミュニケーションの作動に見える。小突き返された側がまたちょっかいをかける。相方はすかさず小突き返す。これを繰り返すうちに例えば、突っつくリズムを相互に模倣したり、できるだけ早く小突き返すよう競ったりするようになる。これがゲームの発生である。ここでは、小突くという行為が、日常的なコンテキストではなくゲームのコンテキストに従って解釈されるようになっている。この両者の間には特有のコンテキストが生まれ、それが両者の行動を指示するようになっている。

 ここで一体何が起きているのかを解明することは、ここではしない。第一には手元に資料や観察例がないからであるし、第二には(これが主な理由であるが)創発の分析は不可能であるとするマイケル・ポランニーと安冨歩の主張を支持するからである。

 

 ひとたびゲームが発明されると、その流用と転用によって別のゲームをつくり出せる。真似っこ、鬼ごっこ、言葉遊び、ボール遊び、取っ組み合い、お絵かきなどの原始的な遊びゲームは、今日のより高度なゲームの基底的な要素を指し示している。チャトランガというインドのボードゲームから将棋やチェスが派生し、フットボールはサッカーやラグビー、アメフトに分岐している。

 

ゲームの成長

 プレーヤーが新たなルールを提案し、試され、受け入れられれば、ゲームのルールは変化する。ひとたび成立したゲームは、プレーヤーによってより面白くなるようにルールが整備され進化していく。ゲームが面白くなるほど参加人口は増え、ルールの整備は加速度的に進む。

 視座を変えれば、ゲームはプレーヤーをつうじて自己組織化・自己進化する特殊なコミュニケーションと言える。相互学習による二者間のコミュニケーションおいてはそれぞれの主体はコミュニケーションを定義する交換不可能な存在だったが、この時点でゲームにとってプレーヤーは交換可能な存在となる。ゲームの自己組織化は各プレーヤーの情熱を媒体にした盲目的な自己運動であって目的論的な動機は存在しない。

 

ゲームの動機と面白さ

 個々のプレーヤーにとって、ゲームへの参加の動機はその面白さにある。これは一般の遊びゲームに限った話ではない。

 ゲームに参加する動機をゲーム外に求めるならば、彼のゲーム内での行動はその動機に最適化された自動機械のようになるだろう。その場合、彼はゲームに参加しているのではなく、ゲームをハックしているに過ぎない。逆に、口では楽しむためではないと言っていても、コンテキストを了解してゲームに参加するならばそこには何らかの楽しみあるいは享楽が存在する。

 

 ゲームの面白さは、プレーヤーがコンテキストをつうじてゲームに参加したときにはじめて成立する。プレーヤーの感じる「面白い」という感じは、ゲームだけを分析してプレーヤーの状態を考慮することなしに導き出すことはできない。そして、プレーヤーの予測、期待、驚きなどの感情の動きは、コンテキストなしには成り立たない。

 ルールを知らないゲームを楽しめないのはコンテキストを理解していないからであり、「観る将*1」が将棋のルールを知らなくても楽しめるのは将棋のコンテキストが盤上にとどまらないからである。

 

補足

 もちろんここでしてはならない誤解は、楽しめることが善であり楽しめないことが悪であるという、楽しみから倫理を引き出す理解である。「楽しめ」という倫理的命令は、ゲームが自己存続するためにプレーヤーに課すものである。「学校生活を楽しみましょう」という倫理的命令が示すのは「学校システムに参加し続けよ」という意味である。「人生楽しもう」という倫理的命令が示すのは「現状の社会システムに適応せよ」という意味である。

 ここには妙な混乱がある。自ずから楽しめるのであれば、楽しめという倫理的命令は不要である。なぜ「楽しめないことを楽しめ」という不可能な命令がありうるのか。ゲームをより楽しめるように作り変えるということこそが、プレーヤーにとってもゲームの自己増殖にとっても都合が良いはずであるが、なぜそれが禁じられるのか。

 この混乱は、安冨歩による「学習の停止」の議論によって簡単に理解できるようになる。何らかの理由によって学習を停止したゲーム内の構築物(個人やロール(立場役割)や組織など)が、各プレーヤーに対して「自己の感覚の停止(楽しめないことを楽しむ)」と「ゲームへのフィードバック(ゲームを楽しめるよう作り変えること)の停止」を命令しているのである。

 

ゲームはいかにして崩壊するか

ゲーム崩壊の要因

 ゲームはルールが適切でないと、その進行に支障をきたす。すなわち、ゲームを通じたコミュニケーションが成り立たなくなる。その原因はいくつかある。

 

 ①学習余地の消失。ルールに定められたゲームの仕組みそのものに深みがなく、最適な行動の組み合わせが容易に決定され、学習の余地がなくなった場合。相互学習に基づくコミュニケーションは停止し、ゲームは失われる。

 ②極度の非対称性。ルールが適切に設定されておらず、互いの得られる結果に著しい差がつき、なおかつそれが逆転不可能である場合。片方の行動がコミュニケーションに影響を与えない場合、コミュニケーションは成立しない。同様に、ゲームのあるプレーヤーの行動がゲームに影響を与えない場合、そこにはゲームは成立しない。

 ③ルールと動機設定の矛盾から起こる自己破壊運動。ルールと勝利報酬およびペナルティが適切に設定されておらず、ルール自身がルールを破る動機を発生させる場合。ルールを順守するよりもルールを破ったほうがゲームで有利になるのは当然である。そのため、ルール違反にはペナルティが必要である。ペナルティ不足によりルール違反が常態化すると、もはやルールは機能しなくなる。ルールが機能しなければゲームは機能しない。

 ④ゲームの独立性の完全な喪失。ゲーム内のコミュニケーションがゲーム外のコミュニケーションによって一意に決定される場合。ゲーム独自のコンテキストは無意味なものとなる。

 

崩壊のきっかけと進行

 不適切なルールの存在が、即座にゲームの崩壊を招くわけではない。ルールは、コミュニケーションのうちで定められ、それ自体がゲーム(を巡るコミュニケーション・ゲーム)の産物である。不適切なルールが正常なコミュニケーションによって修正されれば、ゲームの崩壊は回避される。またルールの適切さはそのルールのみによって決定されるのではない。ゲームの参加者や外的環境にも左右される。ゲーム上の行動だけでなくそのルールもまた、参加者の相互学習によって常に探索される必要がある。ゲームの崩壊の始まりは、この相互学習の停止・停滞にある。

 

 ゲームの崩壊は、コンテキストの崩壊とともに進行する。コンテキストはコミュニケーションの流れであって、ルールブックや明文法ではない。

 先に挙げたゲームの崩壊要因は、コンテキストを破壊する要因である。学習余地の喪失は、コンテキストを硬直させる。合意の破綻はコンテキストを引き裂く。ルールの矛盾は、コンテキスト自身の矛盾でありコンテキストの自己破壊を生む。ゲームの独立性の喪失は、コンテキストの独自性の喪失である。

 ゲームの崩壊途上で起こる様々の兆候は、このコンテキストの崩壊によって発生する。

 

 

事例① 少年野球における盗塁

 

toyokeizai.net

 記事によると少年野球では、特に弱小チームに対して、積極的な盗塁策が過剰に有効である。小学生の肩力では盗塁を刺すのは難しく、またエラーが起きやすいため、大人の野球で用いられる盗塁に対する対抗策が機能しないのである。

 野球は、プロでも少年野球でも同じルールに則って行われる。しかし、プレーヤーの身体能力という条件が異なることでゲームの性質が変わるのである。強豪校が盗塁策によって一方的に勝つ試合が展開されると、野球というゲームに過度な非対称性が生まれる。こういった試合が増えれば、当然野球というゲームはその魅力を失う(面白くなくなる)。

 このようにゲームに問題が発生するとルールの修正が要求される。この例では、盗塁の禁止が提案されている。少年野球に関わる人々のコミュニケーションによってルールが適切に修正されれば、少年野球はルールの欠陥をひとつ解消でき、いくらか寿命を延ばしたことになるだろう。

 しかし、盗塁戦術によって確実に勝利を積み重ねてきた強豪校からすれば、このルール修正は不利に働く。したがってゲームにおける自身の勝利を考えるならば、このルールの修正には反対するであろう。このように、ルールをそれぞれのチームにとっての利害に照らし合わせると、ここに野球のルールをめぐるゲームが発生する。しかしこのルールをめぐるゲームは明らかに近視的であり、これによってルールが適切に定まることはない。いったん勝ち負けを脇に置き、少年野球というゲームやそのプレーヤーのためのルールを策定することを考えるべきなのであるが、どのようにすればそうした行動が可能であろうか?近視的なゲームを行っている者にとっては、こうした主張すら、弱いチームがルールの改変によって少しでも有利になろうとする策謀にしか聞こえないだろう。

 この発想は、野球の価値を勝敗という明確な基準に従わせ、学習を停止することによって可能となる。確かに勝利を追求する競争がなければゲームは成立しないが、それはゲームの中の話である。ゲームを定義するルールは合意によって定められ、フェアなものを目指さなければゲームは機能しない。これを理解することがスポーツマンシップであり、ゲーム一般における倫理の一つの糸口となっている。

 

事例② 大相撲における八百長問題

 10年前、大相撲で八百長が問題となった*2八百長のような不正は、ゲームの独自の文脈に基づく創造性を失わせる。大相撲が八百長試合ばかりになれば新しい技が生まれることはなくなり、ゲームは代わり映えしなくなる。心技体のぶつかり合いは、力士同士で星を融通し合う経済ゲームに変貌する。

 大相撲における八百長は、十両と幕下力士の待遇の格差や力士間での一勝の価値の違いなど、大相撲というゲームのルールが根本的な原因となっている*3八百長はこの条件のなかで自分の得る価値を最大化するために全員の価値を最大化するゲームであった。ここでの価値とは給与のことである。

 相撲という競技は、すでに歴史のなかで硬直し、今更新しい技や進展がみられるようなものではないし、そういった変化もあまり期待されていない。そもそも大相撲のセッティング(高い土俵、連日の相撲など)は他のスポーツのようなガチンコ勝負を前提にしておらず、力士の怪我や消耗を避けるために「注射(八百長の隠語)」はやむなしという向きもある*4。いずれにしても、真に要求されているのは制度の変更である。

 

コンテキストの喪失

 しかし、これがプロ将棋だったらどうだろうか。将棋にはAIをもってしても汲みつくせない深淵があり、さまざまな戦法が無数の対局と研究のなかで洗練されてきた。しかし、そこで八百長が行われてしまうと、研究は勝つために必要ではなくなってしまう。そうなるともはや新たな戦法の発明や洗練は起こらなくなってしまうか、あるいは戦法が勝敗を分けないために多様な対局がなされるようになるが、それらは将棋というルールのうえでは全くのナンセンスであろう。かくして将棋のルールに基づく独自の文脈(様々な戦法や手筋)、盤上での対話は消失し、星の売買と将棋を指す"ふり"だけが残ることになる。そのようなゲームに誰が魅力を感じるであろうか。新たにプロ棋士を目指す人は減り、将棋というゲームは衰退するであろう。

 

 社会においても同様である。

 近代社会において政治や学問は、厳密に事実と科学的な事実認定の手法に従って意見を表明し、互いに思考を批判し合い補完し合うことで、立場の異なる者たちの間で協力的に全体の知を完成させてゆく営みである。しかし、そういった厳格な姿勢は時に個人的な損を招くこともある。学問よりも目の前の利益を優先するならば、権力者に阿り、大衆の心理に訴えるほうがよい。学問的厳密さや政治的正しさよりもむしろ、それを蔑ろにしてでも政敵を論破してみせることが重要になる。そのようなプレーヤーがコミュニケーションの主導権を握った時、学問的知識の探索ゲームであったコミュニケーションは権力ゲームに変質する。ゲームの種々のルールは悪用されるか、なきものにされる。権力ゲームに変質した政治や学問は、真実を追い求める営みを止めてしまうために、必然的に共同体を失敗に向かって突き進ませる。

 これは逆に、大衆音楽などの人気取りが本分であるコミュニケーションゲームの一分野にも言える。大衆音楽は人気を競うが、政治的プロパガンダに加担して政治によって成功するアーティストがシーンの主要な部分を占めれば、もはや大衆音楽はコミュニケーションにおけるその本質的機能を失う。

 

合意に基づくルールの修正

 ルールやマナーを破ることによって得られる利益があったとしても、ゲームのプレーヤーがゲームの協力性・合意性を守り破壊行為を行わなければゲームは崩壊しない。違反行為を行う者が少数であった場合、その他大勢の協力的プレーヤーが合意のもとルールをさだめ、実効力のある制度を確立できればゲームの脆弱性は解決される。

 しかし、そのような合意が形成できない場合、協力的態度を続ければ搾取され続けるため、連鎖的に協力の放棄が起きる。モラルハザードである。

 

 言論の世界においては、例えば詭弁が違反行為である。ゲームのプレーヤーの間で合意的に詭弁にたいする厳格な検証と社会的な罰則が定められなければ、詭弁がはびこりいずれ言論というゲームが全面的に崩壊する。社会における病状が進行しプレーヤーの主要な部分が詭弁を弄するようになると、もはやそれを禁じるルール策定は不可能になる。これが社会におけるポイントオブノーリターンである。

ゲームの終末

 何らかの理由でルールの合意に失敗し、滅びゆくことが確実になったゲームにおいても、プレーヤーにできることは残されている。

 滅びゆくゲームのなかで築かれた個々同士の関係性は、ゲームとは異なる独自のコンテキストを備えてさえいればゲームの崩壊後も存続する。そのような独自の関係性は、別のゲームを発生させる土壌にもなる。あるいは、ゲームがそこから利益を引き出すには小さすぎるほどまで解体されたとき、ゲームは数少ない愛好家たちのあいだで生き延びることができるかもしれない。