生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

コミュニケーションの形式を基盤とした倫理の試み

 これまで、「善いと思ったことをし、結果から予測を修正する」という個人の行動原理から出発して社会の形成を見てきた。しかし事実から規範を導くことはできないため、倫理は未だ存在しない。

 

なぜ新たな倫理を試みるか/リベラリズム批判

 私が新たな倫理の確立を試みるのは、現状の社会を支える倫理道徳が明確に根拠づけられてはいないと考えるからである。

 

 自然状態において、倫理は存在しない。自然状態を前提として社会を理解する限り、そこに存在するのは意志としての倫理ではなく、動機の誘導装置としての実用的な道徳、刑罰などなどである。それらは生存と共同体維持=共存のための手段であり、それ自体が倫理の根源ではない。生存そのものを直ちに善の目的とすることは自然主義的誤謬であって、明確な倫理の基盤を成してはいないと私は考える。

 

 統合不可能な異質な価値観を持つ者同士の共存を可能にするための、統合の不可能性を前提とした「自由」を価値とする思想が、現代社会の基盤にあるリベラリズムである。

 リベラリズム批判は様々にあるが、私が問題とするのは特に次の二つである。

 第一は、リベラリズムによる調停と共存は、合意によって成立した共同体によって維持担保されるのであって、本質的な他者(alien)との調停には役に立たないという点。これは、共同体の外部からやってくる本質的な他者とは共存できないという限界に加え、共存のためには他者を共同体に包摂するほかないという帝国主義的な信念をリベラリズムによる国家が含まざるを得ないことを表している。

 第二は、寛容のパラドクスの問題。自由を破壊する自由を認めれば自由は維持されず、自由を破壊する自由を認めなければ自由を認めていることにならない。「自由を破壊する自由」に明示的に自由を否定する思想だけでなく結果的に自由を破壊しうるものも含めれば、自由は非常に狭いものになってしまう。

 この二つの問題点を解決するためには、自由とは別の価値(例:人権)が必要であり、その価値はそれ自体正当化しなければならない。しかし、自由はそういった自由以外の絶対的価値を基本的に許容しない。

 日本で生きる際に痛切に感じるのが、人権という概念の非自明性である。結局人権という普遍的理念も、世界史のコンテキストにコミットしていない、歴史から疎外されている人々には理解不能なのである。

 理念を理解するためには、それに関するゲームとコンテキストにコミットしなければならない。従って、透明な理念は存在しえない。ゆえに、ありとあらゆる存在に受け入れられる絶対的真理や絶対的倫理は存在しない。これはこんにちの倫理を考える際に前提とすべきものである。

 ところで「ありとあらゆる存在」は存在しない。四角い三角形は存在しないし、白い黒も存在しない。精神の孤島には倫理的主体は存在しえない。倫理的存在が立ち現れるのは他者とのかかわりにおいてのみである。

 

コミュニケーションの形式を基盤とした倫理の提案

 そこで私の提案は、倫理の源泉と効果範囲をコミュニケーションそのものの形式に置くことである。すなわち、コミュニケーションを可能とする必要条件を倫理道徳とし、コミュニケーションを破壊するものを不道徳とする。

 これは、学習する主体同士のコミュニケーションである限り原理的にあらゆる文化を包摂する道徳法則となる。すなわち、コミュニケーションの内部においては普遍的道徳として機能する。コミュニケーションの外部には、人間も言語もなにもない。

 これは依然として、「コミュニケーションを意志するならば…」式の仮言命法に留まる。リベラリズムが共存のためのものであるのに対し、この倫理はコミュニケーションのためのものとなる。異なるのは、前者の調停が前提とする共同体は融合と排斥を指し示すのに対し、コミュニケーションは関係性のみがあることである。絶対的な善の措定がおよそ不可能である以上、存在者の間で先験的かつ普遍的に機能する調停としてこれを倫理とすることは理にかなうと私は思う。

 こうすることで、社会的に有効かつ個々人の行動判断にも寄与する、統一的な倫理体系を考えることが可能となる。これまでの記事で、共同体を事前に想定せず個人の行動原理からコミュニケーションの形成を追ってきたのはこのためである。

 ここにおいて倫理的であることを選ぶかどうかは、コミュニケーションのなかで生きるかどうかを選ぶことに帰結する。それを選ぶ意志が倫理の根拠であり、選ばないことは倫理以前において倫理を不可能にする。それは他者の消失であり、ゆえに永遠の孤独を意味する。倫理に自己拘束しない者は生身の自由を手に入れるが孤独である。客観的には多くの人に囲まれていても、互いに学習しないのであれば、それは孤独である。自由によって倫理に自己拘束する者は他者と共に生きる道を手に入れる。人間の自由と倫理の並立はこのようにして可能である。

 ここで気をつけなければならないのは、こうした試みそのものが巨大なハラスメントの序章と化してしまうことである。倫理は、自己矛盾したりダブルバインドの手段となったりしないような形式で明らかにされなければならない。

 

コミュニケーションの形式を基盤とした倫理の働き

 コミュニケーションの前提条件を倫理とする方法は、次の命題を生む。

  1. 倫理に従えば、コミュニケーションは成立する。
  2. 倫理に従わないことは、コミュニケーションを否定・拒否することである。(断じて逆ではない。意志としてのコミュニケーションの否定は、倫理以前である。)
  3. 悪逆非道のたぐいは他者の存在を否定する一律に非倫理として定義される。他者の存在の否定はコミュニケーションの否定であるから。
  4. 倫理に従わないメッセージは、それ自身によってコミュニケーションを否定しているため、コミュニケーションを終了させる。
  5. 倫理に従わずコミュニケーションを否定する者とのコミュニケーションは不可能である。
  6. 倫理的でない者はコミュニケーションから追放されるべきであるし、追放される。

 

 とはいえ上に挙げたものはこれだけではトートロジーである。問題は倫理の内容であり、これをコミュニケーションの形式から導き出す仕事をしなければならない。具体的な導出は次回の記事で行う。

 

倫理を明示することで得られる効果

 これを明示することでまた、コミュニケーションは変容する。

 第一に、倫理の法則を明るみに出すことによって、人間の不完全性によってその意志に反してコミュニケーションが破壊される事態を減らすことができる。

 第二に、コミュニケーションの破壊者を明確に同定し、その者に問題を突き返すかたちで排除できる。「お前のその非倫理的行動はそれ自体によってお前を孤独にする」という事実の宣告は、ハラスメントを退けるための強力な呪文になるはずである。

 第三に、コミュニケーションの参加者がこれに同意することは直接的に導かれる。人は多様であるが、コミュニケーションにおけるメタ的な規則においては一致団結し、政治力を発揮することができるはずである。

 

万物を射程としたコミュニケーションの倫理

 コミュニケーションは人と人の関わり合いに限らない。倫理は世界とのかかわりに拡張できる。そこにおいて倫理的であることを選ぶことは、その世界の中において世界と関わりながら生きることを選ぶことである。これによって、自然環境の全面的な破壊、生物の絶滅政策、核に代表される終末兵器を明確に非倫理的と言うことができる。人間はそれを選ぶこともできるが、それを選べば最後、その目論見が貫徹されるにしろ挫折するにしろ、人間をこの世界を生きる人間ではいられなくする。そのとき人間にとって世界は、人間と関わり合う他なる存在ではなく、人間の自由に処分できる一部分になってしまうからである。

 

 最終的に、他者と共にこの世界に在ることを選ぶか否かを、この世界における倫理の根幹の問いとして定めることができる。この選択は、完全に委ねられている。なぜならばこれは、純粋に主体の認識の態度の問題であって、実在の世界とは関わらないからである。確かに人は、世界-内-存在として生まれるが、いつでもそれを拒否することができる。もちろん拒否の選択は狂気の引き金を引くことになるが、他者を抹殺した当人には知ったことではない。

 他者と共にこの世界に在ることを選ぶという意志がなければ、あらゆる破滅が否定されえないであろう。