生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

2022-2023年を想う

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 

 年が明けても何が変わるわけでもない。淡々とその時その時を生きていたいから、一年の振り返りや新年の抱負といったものは努めてしないようにしている。けれど、今年は大きな進展や変化が見込めそうだから、書いてみようと思う。

 私の2022年は、独学の年であった。長年の悩みの種を解決すべく、独り向き合ったのである。大学を卒業したのちは講演や学習会の類もろくに行かなかったし、2022年のはやいうちに中学来の数少ない友達と喧嘩別れもした。しかし振り返って見ればこれがよかった。「犀の角のようにただ独り歩め」を実行する機会を得られたのだから、こうした縁起もまたありがたいものである。

 自らの思想上の課題に沿って学ぶことは、かつて受けたどんなカリキュラム教育よりも、世界に対する理解を深めたと実感している。ろくな教育機関に通ってこなかったというのもあるが、巷の学習塾とて結局は受験や立身出世のための機関にすぎないのだから大差なかろう。知識を得るうえでは教育機関は非常に優れているし、そうした知識は思考の道しるべとなりはする。しかし肝心なのは、自らの足で歩むことである。

 学の体系とは、精神が必然性に従って発展していく過程に他ならないのであって、固定されたものを押し付けるのは学問ではない。中国哲学ふうに言えば、人の道には形がなく、名前を付けてとどめておくことのできるものではない。

 2022年に私の歩んだ主な成果は、このブログの『「否定的なもの」あるいは「存在の無」の謎』シリーズに反映されている。前半部のほとんどは既知の科学的知識や科学思想を並べ立てたものであるが、これらを正当に並べ立てた著作を見たことがないから、それなりの価値はあろう。これに目を通せば、「世界はなぜこのように存在するのか」という問いに、ある程度網羅的に答えられるようになっているはずである。主題となる後半部分は未完になっているが、構想はできているので2023年のはやいうちに完成させてしまいたい。そのほかにもいくつか書きたいトピックがあるが、それらはいずれも付加的なものにすぎず、不可欠なものではない。機会があれば形にしたいが、もはや切羽詰まって書くようなものでもないだろう。

 

 2022年で「無」の問題を踏破した感があるので、2023年は実り豊かな年にできるような気がしている。バケツの底を蓋したので、ようやく中身を詰める段である。

 具体的に生きていくのに、農業をやろうと思っている。このアイデアは中学生の時から温めていて、山奥のほうでともかく自給自足できる暮らしをつくり、いざというときには友達を呼び寄せて匿うのである。場所次第では地代はタダみたいなものなので、現金収入は動画やブログで十分賄えるだろう。都会から農村への憧憬のまなざしに彩られたプリミティブライフコンテンツは、一つの人気ジャンルである。

 東日本大震災をきっかけに、都市では人が生きていけない時代が来ると確信するようになっていたが、まさかこんなに早く新型コロナウイルスという形でやってくるとは思っていなかった。その確信に基づいて中学卒業後すぐに行動に移さなかったのはとんだ失態だが、万事塞翁が馬というやつで、哲学をやっていなければ今頃私は蒙昧な百姓に過ぎなかっただろうからこれはこれでよいというものである。

 生えているものを採って食ってよいとなれば、食っていけないという不安からはそれなりに解放されるような気がしている。これは何も農村への憧憬というわけではなくて、雑草と生玄米でしのぐくらいの貧乏はある程度覚悟している。しかし、実体のない不安に駆られて働き続けなくてもよいとなってはじめて、健全に働くことができよう。都市では、働かなければ文字通り餓死である。

 自分で食っていけるようになれば、古い友達にも胸を張って会える。ニートだからと蔑むような奴はどうせ碌な奴じゃないからいいのだという考えもあるが、こちらが劣等感を抱えたままではむしろそういうコミュニケーションを呼び込むことになってしまう。自分の生活を立て、古い縁を結び直し、人生を自然に楽しんでいきたい。立ち止まって考えるべきことはあらかた考え尽くした。もう自己欺瞞を恐れる必要はないのである。