生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

日本共産党による松竹伸幸氏除名処分およびその周辺問題について・前編

前回:

ikiruiiwake.hatenablog.com

 

松竹伸幸氏の除名について

 前回の記事で取り上げた"日本共産党ヒラ党員"松竹伸幸氏が、2月6日付で除名処分となった。この件に関し、松竹氏・日本共産党・大手メディアの間での応酬が続いている。

 日本共産党の一連の対応を巡って、多くの左派系知識人も発言しているが、快刀乱麻を断つとはならず、言論の状況は未だ浮動している。

 この記事では、問題を整理し、急所を見出していきたい。前編ではそれぞれの声明を要約し、言表内容レベルでの論点を整理し、コンフリクトの直接的原因を明らかにする。後編では、日本共産党綱領の掲げる理念の思想的源流からアプローチし、コンフリクトを規定しているパースペクティブの決定的なズレを見出す。期せずして長大な内容となってしまったので、目次から任意の場所へ飛んでみるのが良いと思われる。

 

事実のレベル――それぞれの主張の整理

 ここでは、大まかに時系列に沿って、党及び党が言及した論説を中心にその主張の要点を洗い出し、議論を接続する。その中で矛盾や詭弁があればその都度指摘していく。

 まず出発点は、くだんの除名処分について日本共産党が公にした文書である。

松竹伸幸氏の除名処分について/2月6日 日本共産党京都南地区委員会常任委員会 京都府委員会常任委員会

要約

  • 松竹氏が「すでに公然と党攻撃を行っている」という「特別な事情」のため、支部委員会のもと、同意党規約第50条に基づき京都南地区委員会常任委員会が除名処分を決定。京都府委員会常任委員会が承認。
  • 党首公選制は、民主集中制の組織原則(分派の禁止)に相容れない。
  • 松竹氏は、現党規約が異論を許していないかのように事実を歪めて攻撃している。
  • 松竹氏は安保自衛隊に関する綱領路線に反対し、党の方針を「野党共闘の障害になっている」「あまりにご都合主義」と攻撃している。
  • 松竹氏は、党に対して「およそ近代的政党とは言い難い『個人独裁』的党運営」などとする攻撃を書き連ねた鈴木元(日本共産党員。1月に『志位和夫委員長への手紙: 日本共産党の新生を願って』を出版。)氏の本の出版のタイミングを、自らの出版物と合わせるよう働きかけた。この事実は、『週刊文春』1月26日号において、松竹氏が認めている。また、松竹氏は党の聞き取りに対して、鈴木著書の中身を知っていたと認めた。これは党攻撃のための分派活動である。
  • 松竹氏は、党の聞き取りに対し、自身の主張を党内で中央委員会などに対して一度も主張したことがないことを事実として認めた。松竹氏は、規約で保障されている党内で意見を述べる権利を行使することなく、突然党攻撃を始めた。
  • 松竹氏の一連の動きは、党規約第3条4項(分派の禁止)、第5条2項(党の統一と団結)、第5条5項(党の決定に反する意見を発表しない)に反する規律違反である。

 この党公式の発表に対して、同日、松竹氏はプレスリリースと記者会見を行っている。また、ブログでも同じ内容を重ねて主張している。

松竹氏のプレスリリース

日本共産党による除名処分についての見解 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

同ブログ記事

共産党員は、党にとどまってください | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

会見

 

要約

  • 分派の実態として、グループをつくって連絡を取り合うようなことはない。ただ本を出して党員にも読んでほしいと思ってやったことが分派行為であるならば、言論の自由は全く許されていない。
  • 1970年代初めの新日和見主義分派の処分(中心人物の川上徹が党員権利停止1年の処分)と比較して、除名処分は重過ぎる。
  • 記者会見等にあたって党外の人間とは協力したが、党員からの協力の申し出は断った。分派の実質はなく、こじつけである。
  • 規約第50条は、処分は対象党員の所属する支部の党会議・総会の決定によるとともに、一九上の指導機関の承認を得て確定されることを定めている。地区委員会が処分を決定できる「特別な事情」というのは、支部の活動実態がないことなどを指すのであって、松竹氏の所属する支部は活動しているのだから、党の処分は規約の曲解に基づく。
  • 所属支部は松竹氏を支持している。それでは除名処分を決めることができないという判断で規約をゆがめたという点で重大な問題である。
  • 処分撤回を求めて規約上の権利を行使する。そのため、党員に働きかける。自身に同調して離党しようとしている者は、党にとどまって協力するように。

 ここで松竹氏は、分派の事実がないことを主張しながらも、自身の所属する支部を自身の支持者として形成していることを明らかにしている。これは分派形成を認めるも同然であって、オウンゴールではないのだろうか。

 本来、その人の政治的意見の支持不支持と、規約の解釈と処分は、それぞれ独自の道理に基づいて、別個に考えなければならないものである。しかし、どうも松竹氏はそれを混同しているようにみえる。

 記者会見中の除名処分とは異なる論点でも、松竹氏は政治的競争をすなわち多数派工作に結び付いている。物事は道理によって主張し決定すべきであって、民主制において多数決はその最終決定の儀式的手段に過ぎない。道理を尽くしても受け入れられないのであれば、その集団はそれまでである。非常手段を行使したところで、頭がすげ替わるにすぎず、道理と民主主義が根付くわけではない。多数決ありきの根回し的多数派工作はそもそも、日本共産党の民主主義観とは相いれないのではなかろうか。

 松竹氏は処分撤回を勝ち取るため、自身に同調して離党しようとする党員に、党に留まって援護するよう呼びかけている。これがまた党の逆鱗に触れることになる。

2/8日付け赤旗掲載

党攻撃とかく乱の宣言/――松竹伸幸氏の言動について/書記局次長 土井洋彦

要約

  • 2/6日の松竹会見は、「日本共産党に対する攻撃・かく乱者としての姿をあらわにするもの」
  • 除名は、「党首公選制」という意見に対してではなく、党規約に反して規約と綱領を公然と攻撃したことに対してである。
  • 鈴木元氏との関係が党攻撃のための分派活動に当たることは明白。松竹氏は一切弁明できていない。
  • 規約に基づいて党攻撃から党を守ることは、憲法21条「結社の自由」にもとづく当然の権利である。
  • 松竹氏が党内に自らの同調者をつのることを宣言しているのは、分派工作の宣言に他ならない。
  • 松竹氏は「善意の改革者」を装っているが、その正体は明らかである。

 党は、ここでは松竹氏の手続き上の異議に反論せず、松竹氏を「攻撃・かく乱者」と規定することに終始している。これは、松竹会見を報じたマスメディアの「共産党は異論を認めない」という論調に対応したものではあるが、論戦としては「除名処分について」文書の内容を繰り返すもので、進展はない。

 処分撤回を求めて党員に働きかける行為を分派活動と指弾された松竹氏は同日、ブログで反論している。

仮にも「学術・文化」を担う責任者の書き物か!?—「赤旗」土井論文 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

要約

  • 「党攻撃とかく乱の宣言」論文は、松竹氏が党員に除名に反対の意思表示を呼びかけたことに対して、「分派をつくるという攻撃とかく乱の宣言」と批判しているが、党規約に定められた再審査を求めるにあたり、自身の正当性を訴えかける権利はないのか。
  • 論文の執筆者は共産党学術・文化委員会責任者の土井洋彦氏である。「学術文化」とは、反対論も含め広く分析・試行しながら漸進的に真理に近づくものである。しかしながら、土井論文は、共産党の「学術文化」が結論に都合の良い材料だけを集め不都合な材料を隠し通すものであることを告白したようなものである。
  • 党は松竹氏の主張を「分派」と主張するが、分派は党員がつくるものであって、すでに分派として除名された松竹氏は、党員ではないので分派はつくれない。

 前段は手続き論として一定の妥当性があるが、党に手続き上の異議を申し立てる当の松竹氏が、会見を含めた手続き外での番外戦術的な世論工作を行ってきた。こうした動きは誠実なものとは言えない。もちろん、党内での公式な発言権が事実上無い状態ならばやむを得ない行動ではあるが、その点については議論がない。

 後段の主張は詭弁である。外部からの分断工作も語義上の分派工作に当たるのであって、もちろん規約上の対応はできないけれども、公然と非難する権利はある。

 2/8同日、朝日新聞がこの件について社説を発表した。

(社説)共産党員の除名 国民遠ざける異論封じ:朝日新聞デジタル

要約

  • 党勢回復に向け党首公選を訴えた党員(松竹氏)を除名することは、党の閉鎖性を一層印象付け、幅広い国民からの支持を遠ざける。
  • 激しい路線論争が繰り広げられていた時代ならともかく、現時点で党首選を行うと組織の一体性が損なわれるというのは、かえって党の特異性を示すことになるのではないか。
  • 党のあり方を真剣に考えての問題提起を一方的に断罪するようなやり方は、異論を許さない強権体質としか映らない。
  • 党内の結束が保てたとしても、党外の有権者・知識人の心が離れるなら、党勢は細るばかりだと思い知るべし。

 朝日新聞社説は、除名の正当性ではなく、それが与える間接的な影響を主に取り上げている。

 その論は、「共産党は普通になれば支持されるだろう」という考えを基調としている。しかしこれは朝日新聞社自身を(そしておそらくその社員たちを)支配している「普通」に対する強迫観念を投影したものに過ぎない。

 朝日新聞紙面にしばしば見られる「どっちもどっち論」の出どころもまた同根であろう。道理よりも人心に阿ることを優先するポピュリズム的なやり方を、国民的大衆的と呼んではならない。

 ともあれ、翌2/9、党は赤旗紙面上で朝日新聞に対して反論する。

「結社の自由」に対する乱暴な攻撃――「朝日」社説に答える/政治部長 中祖寅一

要約

  • 除名処分は「一方的な断罪」ではなく、規約に基づいた意見表明がないまま、公然と党攻撃を開始したことに対するものである。
  • 朝日新聞社説の「異論を許さぬ強権体質」という評は、事実に基づく公正な報道姿勢を自ら投げ捨てたものである。
  • 朝日社説は松竹氏の言動を善意のものと持ち上げているが、松竹氏が善意から行動しているならば、なぜ規約をふまえルールに基づいて行動しなかったのか。
  • 松竹氏は、党の根本を否定する内容を主張しながら、「規約と綱領の枠内」という偽りを振りまいている。善意に党を考える姿勢ではない。
  • 松竹氏は、「乱暴な党攻撃を書き連ねた本」を出版した鈴木元氏への働きかけなど、分派活動を行っていた。
  • 朝日社説は、党として公にしている事実を無視しており、道理のかけらもない。
  • 1988年12月20日最高裁判決は、憲法第21条「結社の自由」について、松竹氏の主張する「言論・出版の自由」が、自由な意思で加入した組織のために「制約を受けることがあることもまた当然」としており、「言論の自由」によって党攻撃を合理化することは不可能。
  • 日本共産党の方法を「閉鎖的」「党の特異性を示す」などと攻撃する朝日社説は、「結社の自由」を保障した憲法への攻撃である。
  • 「結社の自由を守れ」と声を上げることを呼びかける。

 党は一貫して、松竹氏の分派・党攻撃という自身の事実認識に拠って主張を行っている。それが揺るがない限り、党の態度の正当性もまた揺らがない。

 ところがこの点について同日、本件において党から二度名指しで批判された鈴木元氏が反論を提出している。

鈴木元『松竹伸幸氏への除名処分と小池晃書記局長の会見等の共産党の見解について 

要約

  • 赤旗紙面上で2回にわたって批判を受けた。紙面は社会的に開かれた場所であり、党内問題ではない。従って、赤旗に反論権を求め、意見を公にする権利を行使する。
  • 規約第50条の例外規定のもと地区委員会で処分決定がなされたが、党の「全国的な問題で急を要した」という説明は説明となっていない。
  • 委員会決定は通常委員会総会決定のことを言うが、本決定は常任委員会で行われている。
  • 決定がなされた常任委員会には、規約上弁明の機会を保障されている松竹氏は呼ばれていない。
  • 除名という最も重い処分が規約を蔑ろにする形で行われたのは疑問。
  • これまで党内で意見を上げても、解決も回答もなかった。「党内解決の努力をせず外から言うのは規約違反」という党の判断は不当。
  • 党首は公人であり、その在り方は党内問題ではない。
  • 「党首選挙が分派を生む」という論は、党建設委員会による2022年8月4日「革命党の幹部政策」論文がもとであり、この規約解釈を勝手に「党の決定」とするのは間違っている。
  • 松竹氏の非核・専守防衛論を党綱領の「安保破棄・自衛隊解散」に反する主張とすることは、志位委員長のもとでの野党共闘における共産党の「安保条約当面維持、野党連合政権では自衛隊合憲」という方針をも綱領に反対する路線として批判することになり、野党共闘の否定に至る可能性がある。
  • 著書『志位和夫委員長への手紙』における「個人独裁的党運営」云々という記述は、志位氏の書記局長就任が宮本不破体制において密室で決められたことを批判するもので、本全体として党攻撃を行ったものではない。
  • 周囲の党組織から南地区委員会への除名処分の説明を求める声が上がっているが、地区委員会は対応できていない。
  • 松竹氏とは以前から面識があるが、出版に当たり日程以外で松竹と意思統一したことはなく、分派の事実はない。
  • 小池書記局長の2/6記者会見からは、党規約に対する不見識がうかがえる。
  • 赤旗の示した1988年最高裁判決は、司法審査は政党の処分について、「原則として当該政党が有する規範・条理に基づき適正な手続きに則って、なされたかいなかの点についてのみ」及ぶとしている。つまり、規約適用の適切性が問われる。松竹除名処分は無理に無理を重ねており、党外からの批判は必至である。
  • いまからでも遅くないから、除名処分を取り消し謝罪せよ。

 この論文は論点が交錯しており、主張とは関わりのない領域での党への批判的な記述によって冗長となっているがそれでも、事実であれば除名処分の手続き的正当性が失われるクリティカルな記述が含まれている。除名処分の正当性もさることながら、党内での議論が機能不全に陥っていたならば松竹氏の党に属しながらの「外からの攻撃」も一定の妥当性を得る。

 同日、志位委員長は記者会見で自ら説明を行い、翌10日の赤旗に掲載された。

志位委員長の記者会見/松竹氏をめぐる問題についての一問一答

要約

  • 問題の基本点は、除名の発表文とこれまでの二回の「赤旗」論説ですべて述べている。
  • 除名処分の理由は、異論を持ったからではない。そういった排除は規約で絶対にやってはならないとされている。除名は、異論を党内の党規約に基づく正式のルートで一切表明することなく突然、外から党の根本的立場を攻撃したことに対する、然るべき対応である。
  • 除名は憲法21条「結社の自由」に保障された「政党の存立及び組織の秩序維持」のための対処であり、「言論の自由」「出版の自由」で党に対する攻撃を合理化することはできない。
  • 松竹氏は、規約と相容れない「党首公選制」を主張し、党規約に基づく党運営を「異論を許さない政党」と事実に反する主張で攻撃した。綱領に反する「安保堅持・自衛隊合憲」を主張し、綱領と政策を「野党共闘の障害」「ご都合主義」と攻撃した。。鈴木氏の本が党を攻撃する内容のものであると知りながら発刊を督促するなど、分派活動を行った。このような事実を重く見ており、除名処分は妥当。
  • 党の規約は、党内で異論を唱える権利を保障している。松竹氏がルールに乗って話し合いを求めてくれば誠実に応じたが、それはなかった。
  • 規約上の処分に先だって、1月21日の藤田編集局次長の論説で政治的批判・政治的警告を行ったが、松竹氏は一顧だにしなかった。また、2月2日の府・地区常任委員会による聞き取りでも、全く反省をしなかった。こうした手続きの上で、除名以外にないと判断した。従って、手続き上も除名という判断も適切だった。
  • 鈴木氏への対応は、中央は報告を受けていないが、規約上の対応は検討されているはずである。
  • 朝日社説は、松竹氏を「善意の立場からの改革者」であるかのように持ち上げ、党が一方的に異論を排除したと事実をゆがめて描いている。
  • 「結社の自由」は、結社に自由に加入(あるいは脱退)する自由とともに、結社が自主的・自律的に運営する自由も認めている。大手メディアが任意の党の運営を「非民主的」と決めつけてバッシングすれば、「結社の自由」は危うくなる。
  • 朝日新聞は2022年7月の社説でも、日本共産党に対して事実をゆがめた非難を行っており、党の自主的・自律的な運営に対する介入・干渉・攻撃である。
  • 党指導部の選出方法については、現状の方法が一番民主的で合理的である。「党首公選制」を押し付けることには道理がない。
  • 政党の党首の選出方法は、党の自主性と自律性に任せられるべき問題であり、他党のやり方について云々することはない。それが「結社の自由」である。
  • 朝日新聞が自由な言論活動をやることを否定するものではない。言論の自由は断固として擁護する。従って、党は言論で応じている。
  • 松竹氏の行動の根本には、「日米安保条約堅持」への政治的変節がある。
  • 善意の意見には誠実に対応するが、悪意からの攻撃には断固反撃する。
  • 朝日新聞社説は悪意だったと思っている。

 党中央の主観的事実として、これまで同様一貫している。

 ただし、党内部でのコミュニケーションが不全であったならば、そうした中央の主観も事実を映しているとは限らない。例えば、「松竹氏が一度も正規の党のルールに基づいて異論を表明しなかった」という党の認識は、末端での水際作戦的な異論封殺や揉み消し・握り潰し、連絡・伝達の不備による散逸・消失などによってもたらされたものでもありうる。

 とはいえ、処分の判断は複合的な要素によるものであるため、部分的な事実について松竹氏・鈴木氏の反論が通ったとしても、全体としては処分が覆りはしないであろう。

 2/10、毎日新聞がこの志位会見を全く無視する形で社説を出している。単に技術的な関係で発表日時が前後したのかもしれないが、朝日新聞社説を反復する形である。

社説:共産の党員除名 時代にそぐわぬ異論封じ | 毎日新聞

要約

  • 松竹氏の党首公選制の提案は、党勢退潮への危機感から、党内論争を活性化するために行われたものである。
  • 共産党以外のすべての主要政党が党首公選制を採用しており、「公然と党攻撃を行っている」と退けて済む問題ではない。
  • 党は近年現実路線へとかじを切ってきたが、今回、旧態依然との受け止めがかえって広がった。組織の論理にこだわるあまり、異論を封じる閉鎖的な体質を印象付けたのではないか。
  • 自由な議論ができる開かれた党に変わることができなければ、幅広い国民からの支持は得られまい。

 この毎日社説は、既にあった議論の域を出ない。当然、党は再び猛然と反撃する。

2/10結社の自由への不見識/田村氏が「毎日」社説で指摘

要約

  • 松竹氏は、党の規約を認めず、日米安保条約破棄という党綱領の核心部分を認めていない。党員としての立場にないことが明らかな人が『党員である』ことを売りにして党の外で騒ぎ立てることは党に対する攻撃
  • 松竹氏の除名理由は異論を持ったからではなく、毎日社説見出しの「異論封じ」は松竹氏の側に一方的に立ったもの。
  • 結社の自由の観点からすれば、党改革を迫るのは「見識を欠いたもの」

事実踏まえぬ党攻撃 「毎日」社説の空虚さ

要約

  • 党はその事実と見解を全面的な公にしてきたが、毎日社説はそれらをまったく踏まえず、「閉鎖的な体質」「開かれた党にならなければ支持は得られまい」などと決めつけ

 新聞社に対するこうした厳しい反撃は、党に対する更なる反発を呼んでいる。しかし、言説の内容と事実のレベルで見れば、共産党の対応は正しい。朝日・毎日両社説は、道理から外れた場所で私的な心象を語っているに過ぎない。

 2/14、産経新聞が周回遅れ的な社説(「コラム・主張」)を掲載する。

【主張】共産党の除名騒動 危うい強権体質が露わに - 産経ニュース

要約

  • 共産党にとって「結社の自由」は「言論、出版の自由」より上位にあり、「民主集中制」では上級機関の決定にたいし、一般党員は絶対服従を強いられる。
  • 朝日・毎日社説に対する異様なまでの非難は、外部からの異論さえ許さぬ排他的な党体質を露にしている。
  • 共産党が政権を担った場合、「言論の自由」は同党が容認した範囲内でしか許されないだろうと判断。共産党独裁の中国でも、憲法上は「表現の自由」が明記されている。
  • 現実的な安保政策への転換を求めた松竹氏を除名したことで、党の「日米安保破棄」路線はより固定化された。

 「結社の自由」と「言論の自由」はいずれも守らなければならない憲法上の権利であって、それらが衝突するときには法理上適切に対処されなければならないからこそ、最高裁判決による憲法の解釈が持ち出されたのである。「どちらが上」という話は産経新聞社の勝手読みである。

 また、共産党が政権を担った場合の言論の自由については、産経新聞社は日本の三権分立制を理解していないものとみられる。言論の自由を(他の権利との関係で)どの程度許容するかは、最高裁判所憲法判断にかかっており、国会で多数派を占め内閣を形成したとしても、簡単には手を入れられるものではない。「共産党が政権を取ると独裁になる」という言説は古くからある反共の決まり文句ではあるが、日本国の政治制度に対する無理解を露呈したものに過ぎない。

 このコラムは全体的に噴飯ものであるが、党はわざわざ反撃している。

2/15「産経」社説の特異な立場

要約

  • 党は、一般に「結社の自由」と「言論、出版の自由」をいずれも表現の自由に関わる重要な人権と捉え、どちらが優位になるなどとは主張していない
  • 松竹氏が「結社の自由」に基づき党綱領・規約を認めて加入している。党を外部から批判・攻撃することは党員であることと両立しない。党と異なる見解を主張したいのであれば、離党の自由も、離党後の言論の自由も保障されている。
  • 処分の経過は、異論を党規約に基づく正式ルートで表明しないまま突然外から党の根本的立場を攻撃したことが党のルール違反とされたことで、どの党にも当てはまる当然のものである。
  • 産経社説は、「押印は絶対服従を強いられる」などと決めつけているが、もしそうであるならば党が一定の勢力を有していることはありえない。
  • 産経社説は、党の朝日・毎日社説への「異常なまでの非難」が「外部からの異論さえ許さぬ排他的な体質」を露にしているとしているが、党の批判は事実を踏まえない決めつけによる不公正な論難・政党の自律権への侵害に反論したものである。
  • メディアが政党に対し不公正な批判を繰り返すことは、民主政治のプロセスを歪める

 同日2/15、朝日新聞は懲りずにコラムを掲載する。これは、産経新聞によるコラムと大差のないレベルで道理が破綻しており、論ずるに値しないものに思われる。

あの国の共産党が党内投票の試みを止めた 「民主集中制」の呪縛とは:朝日新聞デジタル

  • 民主集中制が「民主的に議論し、決定したら統一的に行動すること」ならば、公選で指導者を決定し、当選者を統一的に支持すればよい
  • 赤旗の「公選が分派を生み出す」という理屈は、「民主」が行き過ぎては「集中」を損なうという意味か
  • 中国は民主集中制憲法に明記し、独裁を強いている
  • 日本においては、党の論理を国家に浸透させるのではなく、党外の市民に支持と理解を広げなければならない。

 朝日新聞の提案するような、一発多数決の党首公選で選ばれた指導者の独裁を許す体制のは、ファシズムに他ならない。公選は「行きすぎ」るほど民主的な方法ではなく、むしろその逆である。党員一人を一票に還元・集列化する多数決制よりも、徹底的な話し合いによるほうがはるかに民主的である。その点、党の民主的運営を押し進める立場であるならば、党首公選制ではなく直接民主制、党大会の日程拡張とすべての党員の発言権を求めるなどが対案となるべきであろう。

 これにたいする党の反撃は、2/17赤旗に掲載された。

「朝日」コラムにあらわれた“反共主義という呪縛”

要約

  • 朝日新聞は、赤旗の指摘・批判にも関わらず、事実の歪曲と「結社の自由」への介入を続けており、良識を疑う。
  • 日本共産党民主集中制は、自身の歴史的経験の形成物であり、党内での民主的討論や少数意見の留保と全党の統一行動を図るもので、「異論排除」や「上意下達」とは無縁である。
  • 日本共産党民主集中制は、自発的な意思によって結ばれた結社の内部ルールであり、社会に押しつけることは決してしないとたびたび強調している。
  • 日本共産党が中国の人権抑圧を厳しく糾弾し、「共産党」の名に値しないと批判していることは周知であり、中国共産党と並べて議論する道理はない。
  • 「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す」という理念を掲げた朝日新聞が、反共メディア同様の、事実も道理も無視した主張を繰り返すのは異様である。
  • 日本大手メディアには、軍国主義に加担した戦前の教訓がある。いまするべきは日本共産党への攻撃ではなく、岸田政権の軍拡に対する正面からの批判である。

 ここで赤旗は、「一読して強烈な違和感」、「言論機関としての良識を疑います」とより語気を強めて朝日新聞を批判している。この姿勢をトーンポリシング的に批判することは可能だが、道理を欠き事実の指摘を受け入れず対話を拒否しているのは朝日新聞のほうである。

 今般の出来事における党の振る舞いを批判するのであれば、その事実認識の誤りを適示するほかない。党内での議論や手続きの実態を告発する内容であれば正当な批判的報道であるが、今のところメディア各社の行っていることはイメージに基づく大味なバッシングでしかない。その結果論争はもはや元の論題を離れて、泥仕合と化している。

 2/18、赤旗は主張を集約した問答形式の解説記事を掲載している。

大手メディアの共産党バッシングどうみる?/おはようニュース問答 ワイド版

要約

  • 松竹除名は異論ではなくルール違反のため。
  • マスメディアの論説について「攻撃」という語を使うのは、それが事実に反する批判だから。
  • 安保堅持なら、「抑止力」として米軍問題は鎮圧される。それでは共産党共産党でなくなる。
  • 松竹の根っこには安保堅持への変節がある。一昨年の総選挙以来マスコミが作り出した「党首公選」の声にのって自分の主張を宣伝するのが狙いだろう。
  • 専断を排し、みんなの知恵と力を集めて民主的に運営するうえでも、団結するうえでも、今の指導部集団を選出する方法が一番合理的である。
  • 「結社の自由」と「言論・出版の自由」もいずれも重要な基本的人権である。
  • 朝日は人権擁護を標榜するなら共産党攻撃の前に岸田軍拡を批判的に報道せよ。

 これ以上議論を追っても、新たな事実が出てこない限りは水掛け論に終始するのでここでいったん切り上げたいと思う。

 

 今回の除名処分問題を、「それぞれ落ち度があったため、誰もが不幸な結末を迎えた」とまとめるのはたやすい。しかしそこに潜む問題は、社会一般に関わる問題として学術的に議論していく余地がある。

除名の件について一般化可能な論点は次の3つである。

  1. 組織の意志決定の正当性の担保
  2. 組織人の倫理
  3. モラル・ハラスメント

順に見ていこう。

組織の意志決定の正当性の担保

 松竹除名処分問題の第一の争点は、党の下した処分の正当性に対する疑義である。これは、「規約そのものの正当性」、「規約の解釈・執行の正当性」、「規約の執行の正当性を担保するための手続きの正当性」といった、複数の階層に対する疑義でありうる。そしてまた、「正当性を担保するための手続きの正当性を担保する……」という無限遡行も招きそうに見える。それは究極的には、党組織全体のコミュニケーションに対する疑念の現われなのである。

 組織の意志決定と行動は、一般にいかにして正当化されているのだろうか?。こうした問題は、一方では、国家・共同体における法-権利の問題として人類文明の比較的初期から、法学として学問的な追究がなされてきた。他方、20世紀に入ってからは、経営学行政学などで現代的な組織の意志決定の学問が形成された。

 現代の法の正当性を担保するための重要な原則の一つとして、「デュー・プロセス・オブ・ロー(適正手続きの保障)」が挙げられる。これは、法の適正な手続きによってのみ刑罰や行政行為が可能であるという考え方である。つまり、公的な意思決定及びその執行は、その時々の気まぐれや思いなしではなく、事前に決められた方法と基準によって行わなければならないのである。

 さてしかし、いくら手続き通りに行われていても、手続きそのものが不正に侵されていれば、その手続きに則った行為は正当とは言えない。それらの、法の正当性を担保するための手続きの正当性は、いかにして担保されるか?。それは、国家においては一連の手続きを法に定める立法府の議員や、法を適用する司法府の裁判官の任命制度に係っている。

 任命制度が正常に作動するためには、任命制度の作動を監視する機構が必要となる。それは例えば、選挙管理委員会や選挙監視活動を行う団体である。

 しかしそれらの団体も、正常に作動しているか監視しなければならない。かくして、最終審判者として民衆を想定する民主主義を除いた、すべての専制体制は理論上その完全な作動のためには無限の組織内スパイを必要とする。そして、それらの無限の組織内スパイが活動リソースを食い尽くすため、組織の維持は不可能である。

 これは、制度や手続きは行為の完全な正当性を担保しえないことを意味している。もちろん、制度や手続きを定めることで様々な不正を排し、ある程度の正当性を確立できる。しかしそれも、組織が正常に作動している限りのことであって、異常なコミュニケーションの蔓延を制度的に抑止できはしない。

 つまり、法や規約、制度や手続きは、組織や集団の正常なコミュニケーションの一要素に過ぎず、それらを絶対的に担保するものではない。つまり、「メタ言語はない」のである。

 正当性とは、実践的には納得の指標である。それが機能するためには、それについてのコミュニケーションがなければならない。これこそが政治である。

 そのコミュニケーションは、伝統やカリスマに依存している場合もあれば、民主的議論に立脚したものでもありうる。いずれの場合も内部的な対立とすり合わせは常に存在する。しかし、不仁な行いによってコミュニケーションそのものに対する不信を生み出せば、早晩、法の正当性は崩壊するであろう。

組織人の倫理

 松竹除名処分問題第二の争点は、党員として松竹氏の行動にどの程度正当性・妥当性があったかである。組織に属していながら、組織を救うためという名分で、組織に反する主張をマスメディアに訴えかける行為は、党からすれば「攻撃」であり、マスメディアらの受け止めは「善意の改革者」であった。それらは主観的な評価である。しかし我々はこの問題を、客観的で普遍的な視点の下で、組織人の倫理の問題として考えることもできるだろう。

 組織活動は、さまざまなステークホルダーと価値に関わって成り立っている。例えばそれは、自分やその家族、自分と同じような組織成員とその家族、ユーザーや消費者、周辺住民、支援者、関係団体、官公庁、マスメディア、投資家、そして未来を生きる人々などが挙げられる。これらのステークホルダーは、広がりを持っており、普段不可視化されていることもある。

 こうしたなかで行われる組織活動では、それぞれの価値の対立が発生しうる。例えば、公害問題において、企業の利益と周辺住民の健康が対立する。あるいは環境問題において、今生きる人々の便利と、未来の人々の生存という価値が対立する。あるいは、自分自身の雇用と生命の危機と、ユダヤ人数万の生命が対立する。組織的な意思決定においてこうした問題が解決されればよいが、もし組織の意志決定が正義に反するものであったとき、倫理的判断に基づいた問題解決が組織成員の一人一人に求められることになる。

 そうしたとき、ステークホルダーと価値を吟味して、問題解決のための有効な行動を設計しなければならない。目的に対して過剰な手段を使えば、他のステークホルダーに対して過度な負担をかけることになるし、しかし目的に対して弱すぎる手段では問題を解決できないからである。

 組織における問題解決を試みる際、その組織の正規のルートによる異議申し立ては第一に考えるべき正道である。突然の公益通報内部告発、マスメディアをけしかけるといった行動は、決して禁止されるものではないが、ステークホルダーに衝撃と負担をかけることになるため、場合によっては損害賠償請求に繋がる悪手である。また、そういった手段があまりに軽率に利用されると、公益通報等の手段が社会的信頼を失い、無力化されてしまいかねない。*1

 今回の件で言えば、松竹氏らが党内での公式な議論を尽くさなかったことは、その正当性と倫理性において致命的な落ち度であった。彼らがもう少し周到な準備と計画に基づいて、事前に党内部で可能な限り異議申し立てを行い記録に残していれば、同じことをしても党からの反撃は不可能になっていたはずである。

 こうした問題系は、応用倫理学の範疇として企業倫理や公益通報を巡って研究がされている。入門的な教科書としては、例えば放送大学の『新しい時代の技術者倫理 (放送大学教材)』がよくまとまっている。

モラル・ハラスメント

 松竹除名処分問題の第三の争点は、マスメディア及び大衆的知識人と日本共産党の間のコンフリクトである。党外からの「日本共産党が国民に受け入れられるための提案」を、党が「攻撃」と受け止め過剰反応的に反撃したことで、周囲を困惑に陥らせている。しかしこうした見方は一面的である。

 共産党に「提案」する知識人の言説に共通しているのは、「国民」や「市民」を引き合いに出すことで、コミュニケーションから出来事の事実や、「自分」を抹消していることである。彼らの発話は全て、「国民はこう思うだろう」「市民はこう受け止めるだろう」という形で、党に対し変容を迫る。

 しかし、実際には「国民」や「市民」は存在しない。一人一人考え方の違うバラバラの人間がいるだけである。つまり、彼らの言説の参照先は全く信用に値しない。彼らはなぜ、自らの理性と知識によってアンガジュマンするのではなく、不定形の主体を参照して発話をするのか。

 彼らの言説の形式は、自らを傍観者の位置に起きつつ、アドバイスのふりをして党の根幹部分への干渉を試みるものである。これは、モラル・ハラスメントにおける「マニピュレーション」そのものではないだろうか。

 「モラル・ハラスメント」はもともと、フランスの医学博士で犯罪被害者学などに取り組んでいたマリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱した概念で、『モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない』,『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』などがある。

 「モラル・ハラスメント」を直訳すれば「精神的な嫌がらせ」であるが、イルゴイエンヌの「モラル・ハラスメント」の射程はそこに留まらない。嫌がらせは何度繰り返しても嫌がらせに過ぎないが、「モラル・ハラスメント」は隠蔽された微小な攻撃を継続的に行うことで、対象者の尊厳や完全性を破壊する一連のプロセスである。

 モラル・ハラスメントの明確な定義は難しい。なぜならそれは、メタ・コミュニケーションレベルの概念だからである。モラル・ハラスメントの過程は様々な形で隠蔽されて進行するため、一般常識的な外部からの視点からではハラスメントの加害・被害の見分けは不可能で、ともすれば二次加害に繋がってしまう。

 これを安冨歩は、「学習」というパースペクティブから明確に再定義した(『複雑さを生きる やわらかな制御』)。そこでは、モラル・ハラスメントは、相互学習に基づくコミュニケーションに擬態した、破壊的なメッセージ(心理的嫌がらせや、矛盾した振る舞い、社会通念の押しつけなど多岐にわたる)によって、相手の正常な学習能力の作動を破壊し、また人格を支配することである。こうした意味でのモラル・ハラスメントの明快な入門書として、安冨歩著『誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠』がある。*2

 前半部で挙げたマスメディアの論説は、善意の指摘のふりをしながらも、党からの反論は一顧だにせず学習を停止した状態で自らの主張を繰り返している点で、モラル・ハラスメントに限りなく近い行動をとっている。彼らは、党に対して開かれたコミュニケーションを求めているが、彼ら自身が党に対して開かれたコミュニケーションをとっていないため、党がどれだけ努力しても、コミュニケーションは不可能である。抗弁しても聞く耳を持たず、意に反する行動をすれば助言の名の下バッシングを受けるため、まともに相手をすれば最終的にはただただ彼らの云う通りに従うほかなくなってしまうのだ。

 こうしたモラル・ハラスメント的状況で、党が行った事実レベルに固執する対応は、理にかなっている。現実的な加害行為をコミュニケーションにおける文脈で隠蔽・糊塗することはモラル・ハラスメントの典型的な一手段(例えば、名誉を著しく害する悪口を触れ回っておきながら「友達の間の冗談」と糊塗する)であり、それを打破する一つの手段は、行動を完全にリテラルに受け取ることである。*3

 モラル・ハラスメントは、被害者の人格や自尊心を破壊することで支配下に置く。被害者の人格が強い自尊心によって守られていれば、狙いは直ちに看破され、モラル・ハラスメントは機能しないのだが、被害者の人格の破壊が中途半端だと、自らが攻撃を受けていることを悟ることはできても、その機序を理解できないという事態が起こる。これにより、被害者は秩序付けられていない怒りの爆発を起こすことがある。このアウトバーストは、モラル・ハラスメント被害者を社会的に窮地に追いやり、モラル・ハラスメントの加害者を利する結果を招くことが多い。日本共産党の反撃が招いた事態は、まさにこのパターンではないだろうか。

 こうしたパースペクティブのもとで一連の言説を眺めてみると、リベラル・左派論客においても、セカンド・ハラスメントに当たる論説があまりにも多い。彼らは、隠された事実如何ではそれがセカンド・ハラスメントに当たる可能性があることすら、考慮せずに発話している。これは、リベラル・左派のあいだにも、不可視化された暴力に加担しうる危険な傾向が潜んでいることを、明らかにしている。

 モラル・ハラスメントは、コミュニケーションの本質に位置する不可避の問題であって、政治的問題を解決するうえでも、ぜひとも理解しておかなければならない概念系だと思われる。

 

後編

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へ続く。

*1:ただしもちろん、組織がその全体において腐敗している場合には例外となりうる。正規の異議申し立て制度は、組織的隠蔽を維持するためのフィードバック装置として機能している可能性がある。その場合には証拠隠滅を避けるため、初手で公的機関に通報を行い、不意打ちで外部からの捜査が入るようにしなければならない。

*2: 安冨による先行書としてより専門的なハラスメントは連鎖する / 安冨 歩/本條 晴一郎【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストアがあるが、絶版となっており中古でも入手が難しい。

*3:もちろん他方では、こうした態度は、病的なものでありうる。グレゴリー・ベイトソンは、精神分裂症の原因として、(主に家族関係における)矛盾したメッセージであるダブルバインドを推察している(『精神の生態学』)。