生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

「不適性検査スカウター」は構造的差別そのものである

 就職活動をする中で、適性検査を受けることがある。

 適性検査はその建前上、人の性格や能力を見極め、企業や職場との相性の良さを見極めるためにある。性格における長所と短所はコインの表と裏であって、慎重な人は瞬時の決断が必要な仕事には向かないし、大胆な人は細かい作業には向かない。この文脈において適性検査は、適材適所のための「マッチング」であって「選別」の作業ではない。

 

 しかし、中にはあからさまな「選別」を目的とした検査が存在する。それは、一般的な「学力検査」と、"業界唯一の不適性検査"「スカウター」(不適性検査スカウター: 人材採用で失敗しないための適性検査)である。

 

 学力検査による「学力差別」がいかなる問題を孕むかについては、一般的な共感は得られないだろうからここでは書かない。これについて気になる方は、「女性装の東大教授」として知られる安冨歩の「学歴差別」言説に当たると良い。これは、ネット上の記事や動画でも多く語られている。

 

 

 

 「不適性検査」の問題点は、既に何度か述べられている。代表的なものは、白饅頭こと文筆家御田寺圭による"不適性な人"を密かに排除する社会の到来 自由の名のもとに行われる「淘汰」 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)(2019年)があるが、インターネット上で確認できる限り、2012年には同じ制作会社による前サービス「サイコテスト」がTwitter上で物議をかもしている*1。また他にも、発達障害当事者のブログ等で散発的に問題視されている。

 しかし、それらの文章では問題点は十分に語りきられていないと思われる。そこで、ここではできうる限り徹底的な批判を試みるとともに、このようなサービスが生まれる就職活動の世界観それ自体の暴力性を明るみにし、問題の根本的解決を呼びかけたい。

 

「不適性検査スカウター」とは何か

不適性検査スカウターとは

 「不適性検査スカウター」は、そのホームページによれば、「人材で失敗したくない企業のための」「定着しない、成長しない、頑張らない人材を見分ける業界唯一の不適性検査」である。

 主に中小企業を利用者として想定し、優秀な人材を探すよりも、採用の失敗を避けるための検査として開発提供されている。

 また、費用は業界最安を謳っており、低コストでリスクを回避できることが強みである。公称12000社以上の導入実績があり、その中には官公庁や東証1部上場企業も含まれている。

スカウター精神分析」の内実

 「不適性検査スカウター」が提供する検査には、「能力検査」「資質検査」「精神分析」「定着検査」の4種類がある。今回主に問題にするのは、「精神分析」である。

 「精神分析」についてホームページの説明には、「スカウター精神分析は21のネガティブチェックで、採ってはいけない人材を見極めます」、「会社や職場に対する強い不満、精神的な弱さ、集中力・注意力不足による事故(ヒューマンエラー)等、問題行動やトラブルの原因となる性質や心理傾向を発見します。採用前に実施する心の健康診断の役割を果たし、採用の失敗を超強力に減らします」という記載があり、精神の健康状態による足切りがその主な目的であるといえよう。

 検査の実際の設問には、「自分の周りには悪意が満ちている」「自分は監視されている」「幼いころから人の目を見て話しなさいとよく言われた」などの、特定の疾患や障害を直接的に判断するような項目が含まれている。

社会正義、法律、倫理との関係

 ところで、厚生労働省は「採用選考時に配慮すべき事項」*2で、本来自由であるべき事項である人生観の把握や、合理的・客観的に必要性が認められない採用選考時の健康診断の実施は、就職差別につながるおそれがあるとして、配慮すべきとしている。

 職種によっては、高度なストレス耐性や良好な健康状態が求められる場合もある。その場合に採用段階で特別な検査が設けられるのであれば、合理的客観的に必要性が認められる。例えば、宇宙飛行士の試験がこれに当たる。しかし、一般的な職業において、網羅的な精神状態の検査が必要だとは言えないのではないだろうか。

 障害者雇用促進法厚生労働省障がい者差別禁止指針では、「手帳の有無に関わらず」障害を理由とした差別は禁止されている。「スカウター精神分析」の目的が特定の障害者の排除であることは、設問や会社資料から明白であり、「診断をしていないから差別ではない」は言い逃れにならない。

 また、「スカウター精神分析」をを受ける際には、その検査が「不適性検査」「精神分析」とは表示も説明もされなかった。略号で「検査SB」と表示されるのみである。

 これは、本人の同意のない検査であって、医療倫理に反する。もちろん、当検査は医療的な診断を下すものではないが、それに類するものであることには変わりなく、とても応募者の人権・人格を尊重したものとは言えない。

不適性検査の歴史と関連会社

 「不適性検査スカウター」のホームページによれば、提供会社は2017年12月に設立したシンガポールに拠点を置くSCOUTER TECHNOLOGY PTE. LTD.、国内運営会社は2018年1月設立の「株式会社スカウター」となっているが、登録商標の表記は2012年からとなっている。

 同検査の開発元、株式会社トランジションホールディングス*3(2015年6月設立)の企業ホームページによれば、その沿革は1978年に「中田幸子」が適性検査のプロトタイプを開発したことに遡り、1998年に株式会社トランジション設立、2013年に「不適性検査スカウター」を発売開始している。

 ちなみに、株式会社スカウターおよび株式会社トランジションホールディングスの代表取締役はいずれも三ケ島秀典であり、所在地も同様に「東京都品川区東五反田1-7-11 AIOS五反田アネックス511」で一致している

 また、2012年に炎上した「サイコテスト」のホームページ魚拓*4によれば、この検査の開発元もTRANSITION Inc.、トランジションとなっており、transition.jpへのリンクもあることから直接的な関係があると思われる。ちなみに、同魚拓によればサイコテストこと「人材リスク診断 PSYCHOTEST」は2012年の6月に発売開始している。ちなみにこの炎上の時点では、トランジション代表取締役は「中田幸子」だったようだ。

 冒頭に挙げた御田寺による記事では、「株式会社アソシエート」が「不適性検査スカウター」の提供企業とされているが、これは正規代理店である。

 

就職活動における直接差別と間接差別

 差別というと多くの場合、カテゴリーに基づいて人々を不当に区別する行為を思い浮かべる。例えば、「女性だから」差別される女性差別や、「黒人だから」差別される黒人差別が挙げられる。

 しかし、そのような直接的な差別だけが差別ではない。中には、そうした明示的なカテゴリー化抜きに特定の人々を差別するような、構造的差別、制度的差別などの間接差別が存在する。

 このような間接差別への視線抜きに、「不適性検査スカウター」の問題全体を解明することはできない。御田寺による分析では、この間接差別に対する言及が抜け落ち、「不適性検査」が差別に当たらないものとされてしまっている。

明白な行為としての直接差別

 我々が通常目にする差別のほとんどが、明白に行為として現れている直接差別である。

 こうした直接差別は、憲法および労働基準法男女雇用機会均等法障害者雇用促進法その他の各法律で明示的に禁止されている。

 従って、直接差別に対しては多くの場合で法律に則った権利回復と被害補償を受けられるように、法整備はなされている。これらの法整備自体が、反差別運動の前進によって勝ち取られた歴史的なものであることは特筆すべきである。

不可視化される間接差別

 他方、法整備や社会的関心が十分に追いついていないのが、制度や構造に基づく間接差別である。それらは、一見差別には見えないので、異議申し立てが起こりにくく、通りにくいのである。

ルールはルール?差別の制度化

 厚生労働省男女雇用機会均等法についての資料*5によれば、間接差別とは、

  1. 性別以外の事由を要件とする措置であって、
  2. 他の性の構成員と比較して、一方の性の構成員に相当程度の不利益を与えるものを、
  3. 合理的な理由がないときに講ずること

とされている。

 これは例えば、事務職などの採用に身長を選考基準とすることが挙げられる。身長は一見中立的な判断基準に見えるが、男性と女性では平均身長に有意な差があるため、身長を基準に選考することで実質的にいずれかの性を優遇することになる。合理的な理由がない限り、これは認められない。

 このように、明示的な差別がなくとも、間接差別として差別に当たる場合があるのである。明示的な差別表現がないからと言って、「ルールはルール」として差別的な制度が容認されるわけではない。

 ちなみに、男女雇用機会均等法では第7条で間接差別は明示的に禁止されているが、障害者雇用促進法にはそのような規則がない。これは法の不整備であって、障害者の間接差別もまた憲法に照らして禁止されるべきものと考える。

目的が何であれ

 間接差別は、その目的が差別でなかったとしても、起こりうる問題である。

 適した能力を持つ人物を採用するためには、何らかの試験や基準によってその能力を計るほかない。そのさい、特定のカテゴリーの人が不利な基準が選ばれてしまう場合もある。その基準が職務上合理的ならば正当化されるが、特定のカテゴリーの人々を不利にすることに合理性がないのであれば、差別に当たる。

 身長のような単一の要素ではなく、複数のデータから統計的な判断を行う場合も同様である。複数の異なる属性をもとに統計的に判断した結果、特定のカテゴリーに不利な結果が生まれ、差別的状態が生じるものを統計的差別という。

自己強化する統計的差別

 こうした統計的差別は、再帰的に自己強化する。つまり、統計的差別によって特定の集団が不当に不利益をこうむり、社会的評価が低下すると、それがさらに統計的評価に反映されてしまうのだ。

 明確な因果関係を特定できないデータ間の相関関係をもとに、特定のスコアを予測することは、統計的な技術として可能である。しかし、それを社会の多くの主体が行うことで予測が現実にフィードバックされるような構造が出来上がると、そのような手段はもはや正当化されえなくなるのだ。

ブラックボックスによる差別

 一般的な統計学的データ分析の場合、どのような変数が予測結果に強く反映されているかも重要なデータの一つである。したがって、分析対象についての十分な知識があれば、一連の分析結果から統計的差別などの問題を発見することは可能である。

 しかし、統計に対して複雑な処理を行うニューラルネットワークなどのAI技術や、そもそも恣意的に設定されたデータ変換による「適性検査」は、入力と出力の直接的な因果性を外部から把握・検証できない。この場合、差別はブラックボックスの中で行われることになる。

巷に溢れている根拠不明の「適性検査」や「AI診断」の判断の結果には、誰が責任を負うのか?

差別の責任は誰が

 こうしたブラックボックスによる差別の責任は誰が負うのだろうか。

 分析サービスの提供元に落ち度があるのは明らかである。しかし、判断を行っているのは各企業の採用担当であって、分析はあくまで材料を提供しているに過ぎない。免責事項もあるうえ、被差別者とは契約関係がない。また、実際に公益訴訟が起きたとしても、今度は被害範囲が広すぎるため責任を負いきることはできないだろう。

 実際に就職活動の場面で間接差別によって不利益を被った場合、損害賠償請求を行うことはできる。その場合、被告は企業となる。しかし、企業に求められる賠償はあくまで一人の応募者を不合理に落としたのであって、社会全体の傾向的な差別について責任を負わせることはできない。

 不正確な診断結果によって間接差別を発生させ、企業の採用上の不利益やイメージ低下を被ったことで、各企業がサービス提供元を訴えることもできなくはない。しかしこの場合も、個別の診断結果に限られるのであって、診断結果が再帰的に社会に及ぼした全体的な影響について問うことはできない。

 明文法によって統計的差別が定義され禁止されていない限り、民事訴訟によって特定の主体に全責任を帰すことは難しいだろう。

ただ「安い」という理由で

 「不適性検査スカウター」の特徴の一つに、検査単価の安さがある。官公庁含め多くの企業が採用しているのも、単価の安さが一因に挙げられよう。つまり、何の悪意もなくただそのサービスが安いからという短絡的な理由だけで、差別的な状態はつくり出されていることになる。

 したがって、安さのためには差別的なサービスをも利用するという企業の倫理が問われている。そして、そういった企業倫理は、差別を野放しにする社会全体の思想的状況を反映している。こうした状況を変化させるには、現状の告発とともに、反差別運動の前進が必要である。

 

リスク回避としての差別に根拠はあるのか

 前章までは、人権や日本国憲法の精神に基づいた法律に則って、差別に当たる問題を明らかにした。この章では、差別自身の論理が破綻していることを示したい。つまり差別は、有益だが人権に反するので禁止すべきことなのではなく、それ自身が有害無益なのだと示したいのだ。

生身の差別から、間接差別へ

 差別は昔から存在する。むしろ、差別そのものが社会構造を形成していたと言ったほうがよかろう。階級社会や性的役割分業は、経済的文化的に再生産されてきた差別的制度である。

 そうした社会階層的分断は、生産様式などの外的な条件付けが第一にあるとはいえ、それを維持する内的な動機は、〈他者〉の排除である。それぞれの階級集団が自分たちとは異なる者を排斥する仕組みを持つことによって、その階級は定常状態を維持している。そのうえで、他の集団の成員との間に競争的あるいは相補的関係が築かれているのだ。*6

 こうした〈他者〉の排除に基づく社会構造は、資本主義的生産様式の浸透という下部構造の変化と、68年革命を代表とする解放的な思想の広まりによって、解体されつつある。

 旧来の社会構造に基づく差別の解体に対して、差別を維持しようとするインセンティブも存在する。それは、社会の多様化による新たなコストの発生を嫌う傾向である。これらの保守的な傾向は、広い意味での経済的事由によるものであって、社会の急激な変化に対しては反発しつつ、緩やかな変化によって次第に弱まっていくと思われる。

 しかし、差別を残しつつも階級移動が流動化した状況においては、差別を突破し差別する側に回ろうとする上昇志向的インセンティブが発生する。これによって特定の階級へ人が殺到すると社会的摩擦が増加し、この社会的摩擦そのものによって差別のインセンティブが強化されてしまう。差別のインセンティブが強化されると、ますます有利な階級への上昇志向のインセンティブも強化される。つまり、差別の再帰的な影響によって分裂生成的なランナウェイ現象が発生するのだ。

 このとき、直接差別を具現化した社会へと反動的に変化してしまう場合もあるが、直接差別が公には許されないような社会状況であると、グレーゾーンの選別の強化という形で差別構造の維持が試みられる。直接的な差別は、間接的、構造的な不可視の差別へと移行する。これが、資本主義先進国で起きている新階級社会の背景である。

 

 しかしここで強調しておきたいのは、被差別者は、人権・"ポリコレ"以前から虐げられ排除されてきたのと同時に、受け入れられる場所では受け入れられてきたという事実である。つまり、差別の解消は、社会の進歩という線的な時間軸に比例したものではなく、もっと根本的な社会構造や世界観の問題だと思われる。

 したがって、間接差別の問題は現代社会特有の思想状況と技術的条件に基づく問題であるが、差別それ自体は非歴史的な領域の問題である。差別的な社会はどれだけ変化・進歩・発展したとしても差別的であり続けるだろう。差別なき社会のためには、世界観そのものを転換する、非歴史的な断絶としての跳躍が必要なのである。

 

「中小企業が障がい者に対応するリソースがない」?

 以上の視点に基づいて、差別を温存する反動的な言い訳について考えてみよう。御田寺による記事では、文化的ハイクラス以外にはマイノリティへの配慮をする「リソース」がないことが、反動形成の理由として挙げられている。たしかに、余裕のある階級だけが差別から解放され、生産者階級はその思想的前進を押しつけられてますます余裕をなくしているという現実はあるかもしれない。

 しかし、この問題はそもそも、リソースの問題ではない。差別が前提となっている生産様式や社会構造は、差別によってしか再生産されない。従って、そのような社会では差別の存続は死活問題に直結する。リソースがあったからといって、差別を撤廃できるとは限らないのだ。

 現状の多くの生産様式は、定型発達者を前提として構造化されているため、非定型発達者に対する差別によってしか再生産できないのである。文化的ブルジョワのあいだで解放運動が進んでいるのは、非定型発達者やマイノリティがその生産様式に合致しているからである。

 従って問題は、配慮に必要なリソースをいかにして捻出するか、あるいはリソースを惜しんで差別を再生産するかではなく、従業員に合わせて生産様式そのものを変化させることが可能かどうかである。

 この視点から見れば、大企業よりも、人数や資本の少ない中小企業の職場の方が、従業員それぞれに対応する柔軟なマネジメントが可能なはずである。

 これは世間知らずの夢物語だろうか?しかし考えてみてほしい。戦争による荒廃から立ち上がり現代日本の礎を作った人々は、多くがその時その場でできることを生業にしていったのではなかったか。従業員を選り好みするまでもなく、それぞれ試行錯誤しながら働いてきたのではなかったか。戦後から現代に至るまで、中小企業の活力を奪っているのは、大企業の下請け化による収奪と生産様式の固定化である。

本当のリスクは防げない

 差別・選別の発想が陥っている罠は、特定の要素を排除すればイレギュラーの発生を抑え、円滑な業務や生活が可能になる、という仮定にある。

 しかし、そのような特定の要素に依存したリスクは、真のリスクとは言えない。イレギュラーの原因が特定できているのだから、完全に排除する必要はなく、うまく折り合ってやっていけるはずである。

 真の不確実性は、複雑な人間関係ネットワークのほうにある。均質な人間を取り揃えても、それぞれの間の関係の数は人数の二乗になる。人数の二乗の関係性がそれぞれ別の関係と影響し合いながら動的に変化していく。ここには挙げて窮まることのない変化の可能性がある。

 それぞれの人間に個性がある場合、関係性の全体は個性に依存した構造を見せる傾向がある。しかし、それぞれの人間に個性がない場合、構造は潜在的な対称性に常に脅かされることになる。それぞれの人間関係が全く偶然的で交換可能なのだから、その全体はある日突然相転移を起こして全く異なる構造に変化しうる。均質化は、系全体がその原因であるような、より危険なリスクを呼び込むのだ。

 こうした複雑なネットワーク系が生み出すリスクに対応するには、フィードバックによるサイバネティックな制御によって動的に定常状態を維持するほかはない。そして、そのようなマネジメントが可能なのであれば、個々人の引き起こすイレギュラーにはその範囲内で十分に対応可能なのである。

世界観の問題

 ここまでの議論において、二つの世界観が対立してきた。一つは、問題は個々の定まった要素にあり、それに対してリソースを使って対処しなければならない。もう一つは、問題は動的な関係性にあり、フィードバックによってマネジメントしなければならない。

 差別の発想はなべて前者の発想に基づいている。そして、前者の世界観に留まる限り、差別は様々な対価を支払ってなくさなければならない課題として存在する。

 他方、後者の世界観に立てば、もはや差別は不可能である。そこでは、個々の性質は関係性によって定義される副次的なラベルでしかない。

 前者は素朴実在論・実体論であり、後者は関係主義・関係論である*7

 ここで、どちらの世界観が世界を正確に表しているか?という問いは正しくない。なぜなら、その問い自体が実体的な世界の実在を前提としているからである。

 とはいえ、実在論を否定するのがここでの趣旨ではない。そうではなく、社会という十分に複雑な系では、実体の性質よりも関係性の方がはるかに強い意義を持つと主張するのである。

 

 これまで我々は、後者の関係論的な視点から前者の実体論的な認識を批判することで、差別の根拠を解体してきた。我々の主張は、差別される側に要因があるのではなく、差別こそが、差別の要因とその根拠をつくり出すということである。

 この立場は、相対主義の陥る「相対主義それ自体の絶対化/相対化」という再帰的な問題を回避すると同時に、「不寛容にたいする寛容」や「差別主義への差別」といった混ぜ返しも無効化する。なぜなら、それらはやはりある種の実体論化に原因があるからである。

 我々は不寛容や差別を実体的な性質ではなく、ある関係性の産物として見るのである。その意味で我々は、「差別する自由」を認めない。差別は自由意志ではなく社会的必然として起きているからである。そして、この視点において、差別の主観的な正当化はいかなる意味でも不可能である。

 差別の解決は、観念的な思想にではなく、社会構造そのものの変化に、いやむしろ社会構造の変化可能性そのものにかかっている。実体的な思考をしている限り、社会は死んで硬直したものとしてしか映らないだろう。そうした「ネクロ経済学」(安冨、生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス))からの脱却が、こうした問題の根本解決の道筋である。

 

追補:就活と婚活のアレゴリー

 御田寺の分析が不十分に終わった原因の一つが、彼の挙げた就活と婚活のアレゴリーにあると思われる。

 彼の論は、婚活におけるスペックでの足切りが差別ではないのだから、就活における不適性検査も差別には当たらない。不当だが、不当だとリベラルのあいだでも社会的に認知されていない。弱者男性は取り残されている。という建付けを背景としている。

 しかし、婚活におけるスペックでの足切りも間接差別に違いない。最たる例は「学歴差別」である。家族生活を営む上で、学歴は合理的な考慮事項だろうか?。これは婚活全体が、良好な関係性を築くことではなく、実体的な個々人の能力の比較考量によって定量的なQoLスコアを最大化することを目的としたゲームと化していることを表している。低リスク志向が事実上、特定の社会集団に取り入るための結婚戦略となっており、ヘタをすればそのような社会集団は文化的空想の中にしか存在しない可能性すらある。

 文化全体がそうした方向へ進んでいることについては、大いに批判すべきである。

 弱者男性論は、強者男性と上昇志向の女性、そして男女同権運動に対するルサンチマンに基いているが、当の強者たちの社会が差別まみれのろくでもない場所だと気づいていない。そうでないとすれば、反動的な抑圧社会、女性を差別する社会に戻せという要求は、ようするに差別する側に回りたいという欲望の発露に他ならない。

 このような事情から、彼らは差別の地平そのものを突破できないでいるのだ。

 御田寺が記事中でやり玉に挙げている「内側の人」にかかる尊重は、実際のところ人権以前の「〈他者〉の排除」に他ならない。「やさしさ」としての人権や、淘汰を正当化する「私的選択の自由」「経済活動の自由」要するにブルジョワ的自由は、現代的概念としての人権そ決定的にはき違えている。

もちろん、現代日本社会が人権をはき違えて受容していることは間違いない。しかし、御田寺自身がその地平から逃れていないからこそ、淘汰の論理に決定的な反論ができずに終わってしまうのである。

 御田寺の言うような「人権感覚の高まりの皮肉」は存在しない。我々は、人権をラディカルに最後までやれと主張するべきなのだ。それは、新階級社会が伝統的階級社会を葬るために使った観念群を新階級社会自身に対して向けることである。

*1:適性検査「サイコテスト」をめぐって - Togetter

*2:公正な採用選考の基本|厚生労働省

*3:会社概要と私たちのヒストリー: トランジション

*4:【魚拓】適性検査サイコテスト|人材派遣・紹介会社のためのWEB人材リスク診断

*5:https://www.mhlw.go.jp/general/seido/koyou/danjokintou/dl/aramashi-11.pdf

*6:おそらく、数多の関係性が集まった定常状態としてのバーザール、イチバはこの説明には当てはまらない。イチバには、「一見さん」と「常連さん」という個人にかかる関係性だけがあり、社会集団としてのまとまりは存在しないため、構造的な差別もまた存在しないと考えられる。

*7:ここでは、しばしば実在論に分類されるマルクス唯物論は、後者に分類される。マルクス主義において、ここでの実体論はいわば虚偽意識に基づくものであり、関係の方が経済システムとしての実在的実体なのである。