生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

2.合目的的器官(3)拡張的器官、道具、言語、技術

 これまで生物の器官を主に見てきたが、器官をサイバネティックな情報システムと見なすことで、もはや境目なしに他の領域に移行できる。その射程には、人工的器官から社会現象まで幅広く含めることができる。

 中でも今回は、道具、言語、技術について論じる。道具は器官として、拡張された器官として使われる。言語は道具の一種として始まる。技術は言語と同種のゲームによって独自の論理を持って自己再生産する。これらを語ることで、我々人間がいかにより大きなシステムの器官として機能しているかを明らかにできる。現実には、人間は世界の主人などではなく、階層性のなかに挟み込まれている。

 

拡張的器官としての道具

 情報の流れを見た場合、ザリガニが生来持っているハサミと人間が道具として使うハサミの間に、違いはない。職人は、道具を身体の調和された延長として使いこなす。作用器官として客体に適合した形で働きかける。情報という観点から見た時、生物と非生物の境界は自明ではない。

 感覚器官としての道具を考えよう。眼鏡は、近視の人にクリアな世界をもたらす。顕微鏡は人間の目では見ることのできない細かな世界の認識を可能にし、望遠鏡はこれまた人間の目では見通すことのできない遥か宇宙の星々の認識を可能にする。こうして認識されたものに対しては、まったく新しいかかわりが可能になる。このように、新しい器官としての道具は、それに合わせて主体の環世界を広げる。

 必ずしも感覚器官の拡張だけが世界を広げるわけではない。足の延長としての自動車や、脳の延長としての高度な計算機もまた、人の環世界を広げるだろう。

 このように、拡張的器官としての道具は、より広く明晰な環世界を提供し、生物の生存に寄与するのである。

 

道具としての言語、言語の論理

 道具の延長として、言語を考えることができる。言語は物理的実体は持たないが、個体間で情報を伝達するための媒体であり、特殊な拡張的器官と言える。

 言語は、記号的な操作によって、論理的で明確な思考や情報の整理をも可能にする。三半規管が三次元座標系の空間を提供するように、視細胞の配置が色についての視覚を決定するように、器官による認識はその器官のありように依存する。言語の場合も、その体系が言語的認識の枠組みを提供する。つまり、言語によって考えるとき、その考えは言語構造に依存する。

 しかし言語に見るべき特徴はそれだけではない。

 一度成立した器官は、遺伝と自然選択によって、その目的に従って洗練されていく。言語もまた、一度成立すると、人々の生活環境や社会構造に従って独自の発展を遂げる。いわば、そこには言語独自の論理があるのである。シニフィアンの連鎖は、誰の制御を受けるでもなく自律的に運動する。我々は皆言葉を使っている。しかし、言葉を制御している人は誰もいない。

 これは単に、我々言語使用者が言語ゲーム*1を形成しているというだけのことではない。むしろ、ゲームの独自ルールが我々を制限し、ゲームに奉仕させているのである。ここで人と言語=道具の主従は逆転する。

技術-論理

 道具が言語と同じように進化するとき、そこにはスティグレールが技術-論理techno-logiqueと表現した、技術自体の論理が発現する。

 もはや、人の必要に応じて道具が設計されるのではない。道具に応じて人の必要が作り出され、技術は人間を含めたあらゆる環境を巻き込みながら自己増殖していく。技術は道具を通じて人間に住む世界を提供し、まさにその認識枠組みによって技術の更なる発展を促進させる、自己促進的フィードバックループに陥っている。

 

 ここに、〈個体-自己〉にたいする〈システム-大いなるもの〉の優位というテーマが現れる。これは、生物における個体に対する種の関係と等しい。ただ人間においてのみ、種の遺伝的発展よりも、言語文化的、テクノロジー的発展のほうが生存に重く寄与するために、遺伝システムはもはやサブシステムになれ果てている。

 

細胞-個体-種(=大いなるシステム)における階層性とサイバネティックな制御

 生物の世界においては、サイバネティックな制御のもと細胞が個体に奉仕するように、個体が種に奉仕する。

 種全体の遺伝的アプローチは、乱数を取り入れたある種の巨大な計算機として見ることができる。個体はその踏み台である。種のレベルで見ると、個体の生殖と死の統計的な結果が、種全体の遺伝子プールに対するフィードバックとして機能する。個体が環境への適応度に従って生きたり死んだりしなければ、このフィードバック機構は正常に作動しない。ラマルクの獲得形質の遺伝は生物学的には間違っているが、統計的なフィードバックがそれを実現しているのだ。

 

個人の社会への奉仕

 こうした個体の種への奉仕は、国家社会主義のアナロジーとして用いられる。もちろん、国家社会主義体制は個体から種へのフィードバックを認めないので、アナロジーとして生物種を持ち出すのは完全に誤っている。しかしやはり、生物における個体-種と同様の意味で人間個人は社会に奉仕する。これは、近代の経済学を一瞥すればはっきりと示されている。

自由放任主義における市場=大いなるシステム

 まず、アダムスミスをはじめとした自由主義がある。市場の自動調整機能は、適者生存の原理によって作動している。生物の自然選択が種の存続に寄与するように、市場における商売人の適者生存は、市場そのものの存続と発展に寄与する*2。商売人は市場のゲームに勝とうと躍起になっているが、勝とうが負けようがそのゲームに参加すること自体から市場システムは発展の原資を得ているのである。

マルクス主義としての技術-論理

 つぎに、マルクス主義がある。マルクス主義の基本的な姿勢は、「下部構造が上部構造を規定する」というテーゼで表される、生産様式が社会構造や観念を規定する根本の要因であるとするものである。そこでは歴史の主役は、カエサル織田信長や自由平等の思想などではなく、生産様式、つまり社会総体的な技術である。人々は、そのときどきの生産様式=技術のために自らを再生産しつつ奉仕しているに過ぎないのだ。

サイバネティックな市場

 最後に、現代の消費者行動論に基づいて高度に技術化された商品市場を見てみよう。そこでは際限のない商品のバリエーションが無数の選択の自由を提供しているように見えるが、消費者は決して自由な選択が可能な主体ではない。高度に組織化された広告・販売システムが、統計とパーソナルデータに基づいて消費者を誘導する。広告・販売システムは我々の行動をフィードバックとしてサイバネティックに変化し続ける。もはや、商品を買うことばかりか、買わないことまでもがシステムへの貢献になるのである。

個体の自由は大いなるシステムに絡めとられている

 生物個体の実存は、種の論理によって絡めとられている。同様に、人間個人の実存は社会の論理に絡めとられている。しかしそれは自由の抑圧という意味でではなく、自由の完全な発露こそが要請され勘定に入れられているのである。

 個々の自由と偶然に委ねられているものでも、実際にはシステム全体の傾向がそれを規定していることがある。

 例えば、ダーウィンの進化論は、遺伝子の変異という偶然とその個体の環境への適応に委ねられているように見える。しかし、変異した遺伝が生存上有効であるかどうかを決めるのは、その種が採用している生存の戦略に依存している。ヤマアラシのトゲはヤマアラシにとってのみ有用なのであって、ライオンのたてがみがトゲに変わってもよいことなどない。

 需要供給曲線による価格決定は、偶然に委ねられているように見える。しかし市場全体でのその働きを見てみれば、結局は商品の価値がその再生産に必要な価値に一致していく傾向があるとわかる(労働価値説)。

 技術発展は、一握りの天才による実験と発明に依存しているように見えるが、実際には技術-論理的な傾向を持っている。発明は、時代の要請に応じて為される。

 

 人間特有の生の苦しみは、複数の技術論理が個体の身体で衝突するからとも言えるかもしれない。遺伝的な生命の論理と、言語文化社会構造の論理、テクノロジー技術の論理は、人間の中で互いに衝突している。自然主義ハイデガー主義による技術批判、科学的な視点からの人文学批判、実存主義による自然主義批判などなどは、こうした衝突によって生み出されている。

 しかしここまでの我々の議論を見れば、このような相互批判では事態は全く解決しないのが明らかであろう。問題の根幹は、個体-システムの相補的関係にあるのだから。

 

個体性はどこにあるのか?

 もし個体が種に従属するのであれば、個体の実存はどうなろうか。もし、個人の権利が社会システムとの関係においてのみ存在するのであれば、個人の尊厳はどうなろう?我々の存在が、単に種のシステムに奉仕するための細胞器官の集まりなのであれば、その存在はシステムの肯定的な一部に留まる。保守共同体主義の世界観はまさにこのように個体を社会システムの要素に還元するものである。

 個体は、しばしば分割不可能性によって定義される。しかし、システムと個体もまた分割して存在することはできないのではないだろうか。ここまで見たように、生物の個体は器官の論理と種の論理に挟み込まれている。

 科学が対象とする世界には、法も権利も存在しない。人格も尊厳も情緒も存在しない。だからと言って我々はそれを捨て去るわけにもいかないだろう。であるならば、個人の個人性を前提とするそれらは何に基礎づけられるべきか?その絶対性を主張するとするならば、いかにしてか?

*1:ウィトゲンシュタインが提唱した。言語はアプリオリな意味内容を持つのではなく、特定のゲームにおける機能を果たしていると主張した。例えば、「ダイイシ!」という語の意味は不明瞭だが、大工の間では「台石を持ってこい!」という意味で機能する。

*2:正確には、アダムスミス(1723-1790)がダーウィン(1809-1882)に着想を与えたとするのが正しい。