生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

なぜ人を殺してはいけないのか?(2)

 前回の記事では、「なぜ?」に対する複数の答え方について述べました。

 まず、現実世界の階層構造において複数の回答があります。りんごが木から落ちるのは、万有引力が働いているからでも、枝が折れたからでも、強い風が木を揺らしたからでもあります。そして強い風は、大気や太陽光、地球の自転などがかかわる気象によって吹きます。「リンゴが木から落ちるのはなぜ?」と訊かれたとき、どの階層についての説明が求められているのかを読み取る必要があります。

 階層における説明が必然性の説明だとするならば、次の説明は偶然性の説明です。まず一つは、「人間原理」による説明、次に、言葉の定義に言及する説明を挙げました。いずれも、疑問が存在するための条件は疑問の対象それ自体であり、それが説明になるのです。自分が自分の根拠となる命題、「皆が王を王と呼ぶのは、皆が王を王と呼ぶからだ。」もこの偶然性の説明に含むことができるでしょう。

 

なぜ人を殺してはいけないのか?

 それではいよいよ本題に入り、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに答えていきましょう。

説明①法は法である

人を殺してはいけないのは、人を殺してはいけないからだ。

 我々が規範の内側にいる限り、法の権威に服す限り、「法は法である」という同義反復だけが法に従う理由の唯一正当な説明です。規範に従うということは、規範が規範であるということだけを理由にしなければなりません。

 「神、仏、王、父などの超越的存在が決めたからだ」という説明も、「だから有無を言わず従うのだ」という意味である限りここに含まれます。なぜならそこでは、神、仏、王、父それ自身が法だからです。人は、神が神であるという理由で、父が父であるという理由でそれに従うのです。このような権威に対して疑問を持つことは許されていません。なぜなら、権威はそれがそれ自身の根拠である限り機能するのであって、それ以外に理由を求めてしまえば権威は失われるからです。

 以上が第一の答えですが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いがこれに満足することはないでしょう。なぜならその疑問自体、規範の失墜のうえにしか現れることがないからです。

説明②感性的な動機の説明

人を殺してはいけないのは、人を殺すと良くないことが起きるからだ。

 人を殺すことで、良心が痛む、人に恨まれる、報いを受ける、地獄に落ちる、社会で生きていけなくなる、生活できなくなる、などの影響が発生します。

 

 「人を殺すと自分が損をするから」という感性的な動機からただ人を殺さないだけでは、「人を殺してはいけない」という規範に従っているとは言えません。それはただ自分の利益に従っているだけです。

 利己主義社会全体の利益を持ち出す場合も同様です。そこでは社会=私が主体として判断し、個々人はそのエージェントとなっています。

 法の権威は第一に法が法であることに起因するのであって、それが賞罰によって動機づけられるならすでに法は死んでいるのです。従ってこの説明は、正確には「汝の利益を追求せよ」という法の細則の一つにすぎません。

説明③感性的な動機を操作する社会実践的な法規範の説明

私が人を殺すと良くないことが起きると言うのは、殺されたくないからだ。

 法の権威が失われても、依然として法は賞罰による動機づけとして機能します。しかし、「人を殺してはいけないのは人を殺してはいけないからだ」という同義反復が無効だとしても、「人を殺してはいけない」という法が定められうるのはなぜでしょうか。もはや「人を殺してはいけない」のは自明ではないはずです。なぜ人を殺すと損をするように法を定めるのでしょうか。あるいは天罰や地獄が罪を自制させる概念として語られるのでしょうか。

 

 この問いに対しては、ホッブズなどによる社会契約説が答えているように思われます。つまり、超越的存在によって法が定められているのではなく、各人が「殺されたくない」という感性的な動機に従うことで、法と賞罰によって殺人を抑止する仕組みが造られているのです。

 社会実践的な次元であるという意味では、天罰や地獄を巡る言い伝えも同様の機能を果たしていると言えます。「人を殺すと良くないことが起きる」という発話行為が、そのような心的現実の根拠となっているのです。

 

 この場面においては、すべての人は「殺されたくない」とだけ考えており、「人を殺してはいけない」とは考えていません。にもかかわらず、「人を殺してはいけない」という規範についての社会的合意が形成されるのです。そして、「人を殺してはいけない」という規範は、この社会的実践における崇高な目的理念を表現しているように思われます。このように各人の理念なき盲目的な利益追求の運動が普遍的理念を実現することを、ヘーゲルは「理性の狡知」と呼んでいます。

 しかし、これを決定論、目的論として捉えるのは誤っています。理性の狡知はあくまで後出し的に自分を実現させたことになるにすぎません。ここで起きているのは創発とそれに付随する神話的説明の生成です。つまり、理念は偶然性の産物である必然的なものなのです。したがって、社会契約説の説明の裏面には、自然状態がつねに用意されています。実際には、自然状態から社会契約が創発するかどうかは、ほとんど偶然に委ねられています。

説明➌人間原理による説明

人を殺してはいけないのは、そのような規範を持つ社会しか存在しえないからだ。

 我々の「人を殺してはいけない」という社会規範は偶然的な創発に拠っているかもしれませんが、「そうではない場合」は自然状態であり、規範そのものがあり得ないでしょう。「人を殺してはいけない」のような社会の根本にかかわるような規範は、それが存在し我々がそれに疑問を持つ限り、それはそれ以外ではありえないのです。

説明④歴史的な実践の目的理念

法が人を殺すと良くないことが起きると言うのは、人を殺してはいけないからだ。

 説明③で説明したような仕組みで形成された理念は、自立的な概念として定立されます。「自由・平等・友愛」や「普遍的価値」といったスローガンが、その生成の歴史的な経緯を離れて、普遍的な理念として人々の間で用いられるようになっていくのです。ここでは、感性的な動機によってつくられた理念が、それ自体目的へと転化しています。そこでは創発によって無目的に出現した合目的的な社会の、目的が表現されているのです。

 この段階において、法は理念の実現のための手段として機能します。それ自身目的としての法から個々の個別的価値のための法へ、そして普遍的価値を実現するための法へと移行したのです。

 

 ここにおいて理念にはある種の不死性が宿っているように見えます。理念は、自らの身体である個人や社会の死を超えて存続するかのように振舞い、社会のすべてを打ち滅ぼしたとしても実現しなければならない理想として、人々を革命へと駆り立てます。そして理念の実現は、革命の炎のなかに一筋の閃光としてのみ見ることができるのです。

説明➍定義を転倒させてみせる説明

人を殺してはいけないのは、殺してはいけないのが人だからだ。

 「人を殺してはいけない」という理念が明らかになるとき、またその裏面も輪郭を露にします。

 これは、「人を殺してはいけない」という命題を逆転させることで、「殺してはいけないものが人である」という定義として説明とするものです。この二つの命題は論理的には同値ではありません。人でなくても殺してはいけないものがあるかもしれないからです。しかし、人に限定して「人を殺してはいけない」と言うことが「人以外は殺しても良い」を含意する場合、同値になります。そして、「殺してもよいものは、人ではない」という非人間の定義も実現します。

 このような、特定の人種や民族を人間から除外し「(特定の社会集団)は人ではない。ゆえに殺してもよい」とする考え方は、人類史におけるほとんどあらゆる差別と虐殺に結び付いています。そして現代においても、ホモサピエンスホモサピエンス以外の生物種を「人」から除外することで、彼らを家畜化し、搾取し、殺しています。これを動物倫理学は「種差別」として告発しています。

 究極的にこの説明が含んでいるのは、「人」の定義、そして「殺してはならないもの」が恣意的に、つまり何の必然性もなしに決められているという事実です。「人を殺してはいけない」というモラリズムが恣意的な排除と差別を隠し持つ限り、つまり人というくくりが発展的に解消されないかぎり、この説明はシニカルな態度をやめることがないでしょう。

説明⑤具体的な道徳的個人による理念の引き受けと行為としての規範の言明の説明

人を殺してはいけないと私が言うのは、人を殺してはいけなくしたいからだ。

 個々人が法や規範について発話する際、実際にはその発話によって法や規範を再生産しています。ある個人がこのことについて自覚的するようになると、彼は法の理念を引き受けてその再生産に加担するかどうか選択を迫られることになります。

 理念の下での個人の「人を殺してはいけない」という発話は、「人を殺してはいけない」という理念と理想を自らのものとして引き受け、その再生産の行為として行われるのです。

 したがってここでは、「人を殺してはいけない」根拠は、超越的存在でも「見えざる手」に導かれる社会契約でもなく、理念を引き受けた個々人の意志にあります。ここにおいてのみ、自らの実存的な責任の下で「人を殺してはいけない」と語ることができます。

 

 いったい何の権利があって自らの意志から規範を宣言することができるのでしょう?まるで自らが法であるかのようです。しかし実際、法の源泉は人間でしかないのです。神、王、正義、法律などにかんするあらゆる言説は人間が生み出し、人間が絶えず再生産しているものです。人間は自ら生み出したものに服従するだけでなく、自らの意志によってそれらを再生産したり作り変えたりする権利も持ち合わせているのです。

 この領域において、倫理的な対立は調停不可能で絶対的なものとなります。「人を殺してはいけない」を意志する者と「人を殺すべし」あるいは「人は死ぬべし」を意志する者の間では、絶対的で回避不能の闘争が闘われなければなりません。彼らはもはや感性的な動機のためではなく理念のために闘うので、妥協点は論理的に存在しないのです。

 したがって我々はこの闘争を、自らの意志において「人を殺してはいけない」と宣言することを、恐れてはなりません。「人を殺してはいけない」最後の理由は、殺人を望まない人間の意志にかかっているのです。