生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

2.合目的的器官(4)個体性と同一性

 われわれは身体や道具その他の器官によって構成され、それによってまた種、社会、技術などのシステムに従属している。個体の論理は、器官の論理や種の論理に還元されてしまうように見える。ここで個体の実存はいかにして可能なのかということが大問題として浮上する。

 古くからあるこの問題は、現代の脳科学にまで接続している。ここでは、その最新の知見によって古くからの臆見を排しつつも、詳細には深入りせず今後の議論で重要になる部分だけを述べることにしたい。

 

 まず第一に確認したいのは、自我や意識を統括する脳の特定領域のような中央プログラムは存在しないという事実である。

 中央プログラムの観念は、霊魂にはじまり、デカルト松果体や理性、自己というかたちで、心身二元論として長らく影響を保ってきた。現代においても、AIを用いて人の意識や心を再現できるかどうか議論されるとき、多くの場合そこでは心という特定の器官が想定されている。

 しかし、脳科学においてあきらかになったのは、そうした中央プログラムの不在である。意識的な行動と思われるような選択、決断の行為においても、そこにあるのは一元的な決定ではなく脳の様々な部位、あるいはもっと広い範囲での神経や身体の協働なのだ。

 したがって我々は、個体の実存をもたらすような器官を所与の前提とするのではなく、器官のいかなる機序が個体の実存をもたらすのかを考えなければならない。

 

経験の主体としての個

 経験の主体としての個体を考えてみよう。いかなる「私」が経験の主体なのだろうか?

 従来の中央プログラムのモデルでは、身体じゅうの感覚器官から神経を通して集められた情報が、脳での何らかのシミュレーションによって経験として把握されると考えられる。このようなモデルを、ダニエル・デネットは批判的に「デカルト劇場」と呼んでいる。こうしたモデルでは、脳の中の小人、霊魂、精神が「私」である。しかし、こうしたモデルは現実を反映してはいないのだった。

 デカルト的二元論を正確に押し進めたカントにおいては、経験の主体としての「私」の存在は、経験的には把握されないものの経験を可能にするためには想定せざるを得ない、超越論的仮象である。これはちょうど、科学者の観察対象に対する立場と同じである。経験的な対象の問題系に、「私」は含まれないのである。「私」を問題にする我々はこれに満足することができない。超越論的仮象としての「私」が経験の中でいかに立ち現れるかを分析する必要がある。

情報としての経験

 「私」はいかにして立ち現れるのか。前節までの成果を活かして、情報に着目して考えてみよう。生物の器官は、単純な力学に従う客体ではなく、サイバネティックなシステムによって、「違い」を情報として受け取り、自身の論理をもって別の「違い」を生み出すのだった。

 個体と言う単位を考えた時、脳までひっくるめた体全体が、情報の受け手-私-個体である。同時に、それらの情報網は内的に統一されているわけではない。例えば、自分の肝臓の(気持ちとまではいわないでも)状態を直接的に把握することができない。我々はそれを把握するための専門の器官=道具によって検査しなければならない。ここでは肉体だけではなく、情報ネットワーク上の私もまた分裂している。

情報の媒体としての情動

 経験は情報として受け取られるが、情報の伝達には物理的実体としての現象が必要である。例えば、モールス信号でも手旗信号でも何でもよいが、そうした伝達の媒体がなければ情報は伝達しない。

 この意味で経験experienceの媒体となるのは、身体的な情動である。赤の赤さや腕をつねられた痛みの「感じ」は、刺激に対して神経系やホルモンなどの情報伝達網が引き起こす身体的な効果の全体である。このような身体的な効果抜きの「赤さ」や「痛み」はナンセンスである。つまり、身体は経験の主体である自己に含まれなければならない。

 

 この経験=情報=情動の考え方から、実体一元論的な機械論的運命論と、物理法則に違反した精神と物質の相互作用を想定する物心二元論アンチノミーを解決できる。

 精神は物質に影響しないが、情報は物理的制御に変換される。情報は物質ではなく、ある組織・有機体organization、器官において利用される、物質の差異である。

 客観的には情報処理を必然的な連鎖として描写できるため、これでもまだ実体一元論の因果的必然の連鎖から脱出できていない。しかし我々自身がその情報処理を扱っているのであって、主観的にそれらの情報処理を生きねばならない。足を蹴られると、その衝撃を神経が情報として解釈し、神経細胞を通じて脊髄や脳へ情報を送る。情報処理の結果、足を引っ込め、イタイ!と叫ぶ。「痛さ」はこの運動全体の主観的な効果である。

意識のハード・プロブレムとクオリア問題について

 以上から、「なぜ経験はあるのか」といった問題は「情報を経験する」という二階建ての枠組みそのものに問題があることが分かる。経験そのものが、情報として機能しているのだから、経験なしには情報はあり得ないのである。

 クオリア問題を真に構成しているのは、クオリアそのものではなく、クオリアクオリアとして認識される事態である。つまり、我々は、「経験を、〈物自体〉とは隔てられたただの経験として経験している」。これは、ヘーゲルの「見かけとしての見かけ」に関する議論と同じものである。つまり、クオリア問題はカント的地平につきものの誤った問いなのである。

 

 真の問題は、「イタイ!」と「私は痛い」の違いにある。「イタイ!」が「私の痛さ」を構成するのであって、痛さが「イタイ!」に先行するのではない。痛さから「イタイ!」が導き出されると間違って考えることで、クオリア問題が発生する。

 「イタイ!」を痛さとして把握するとき、つまりクオリアクオリアとして、経験的な見かけを経験的な見かけとして把握するとき、そこには自分の経験についての経験、つまり自己意識がある。この自己意識、再帰的な認識こそが、個体の経験を個体の経験足らしめていると私は考える。

 

再帰性と自己同一性

 個体の自己同一性は、必ずしも要請されるものではない。「寝る私」と「食べる私」と「生殖活動する私」は、身体的には同一である必要があるが、その情報回路において同一である必然性はない。実際、「ハンドルを握ると性格が変わる」というようなシチュエーションにおいて、人格の同一性はどこまで担保されているのだろうか。

 さまざまな経験に対して個体の主観的な同一性を維持しているのは、その再帰的認識、自己意識である。自己意識に異常をきたし、自分の行動を自分の行動だと認識できないと、実際には人格は統合され統一的な行動を行っているとしても、主観的には解離性障害と同様の効果が起こると想像できるだろう。

超越論的自己同一性

 まず、純粋な再帰を考えてみよう。つまり、無媒介の自己意識である。この場合、自己同一性は内容を持たない形式として、超越論的な地位に留まる。そして、「意識していると意識している」という無限遡行に陥る。しかし、この超越論的で空虚な悪無限は、それ自体が再帰的に認識されていないことから来るものである。

経験的な自己同一性

 日常的な意味での自己同一性は、経験的な対象を媒介としている。自我のイメージを獲得する鏡像段階は、鏡と他者を介した自己意識として理解できる。我々は鏡の中に鏡を見ている自分を見るのだが、それを自己として措定するさいに、他者を参照している。

 一般的な意味でのアイデンティティは、「私はこういう人間だ」という経験的な自己同一性を与える。これは、トーテミズムの一種である。人の性格を物象化した記号を経由して、自分を認識するのである。こうした経験的な自己同一性は、文化に依存している。

 このような経験的な自己同一性が何らかのショックによって崩壊すると、人格の統合性が失われる。しかし、人格が統合されていないことそれ自体は問題ではない。ウニは明らかに自己イメージを持たず、個体としての自我も持たないが、それでもうまく生き延びており、ウニという種のシステム、そして生態系システムを支えている。

形而上学再帰

 実存の問題として、個体を一つのシステムの単位として成立させるには、この再帰性=自己意識に支えられた実存の自己同一性についてより分析が必要であると思う。とくに、超越論的な自己同一性の線を先へと押し進めなければならない。

 

 ともあれ、ここまでで獲得した情報と再帰性という概念によって、生態学認知科学と、生の哲学、そしてドイツ観念論以降の〈無〉に関する哲学を対話させられるのではないだろうか。

 これでいよいよ準備が整ったと思う。次章では本題に入り、「存在の無」について考えていこう。