生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

序論:「否定的なもの」と自然科学の方法

 否定性、存在の無、欠如、自身との最小限の差異……。

 ヘーゲルおよびそれに影響を受けた(とくにコジェーヴヘーゲル講義から影響を受けた)、サルトルラカンジジェクらの哲学において、こうした「否定的なもの」は重要な位置を占めている。というのもこうした「否定的なもの」は、人間存在の(あるいは人間という言葉が特権的な意味を持つことを避けるならば)現存在の不可欠な構成要素、もしくはそれとコインの表と裏の関係にあるというのである。

 人間存在と「否定的なもの」の関係を記述した文章は、何かしらの実感としては理解できる一方、字面としては何を書いてあるかチンプンカンプンだという印象を受ける。例えば、サルトル存在と無』においては次の具合である。

 

「無」を世界のうちに到来せしめる「存在」は自己の存在において「無」を無化するのでなければならない。だがその場合にも、この存在は「無」を自己の存在に関して自己の存在において無化するのでない限り、「無」を内在の核心における一つの超越者として立てる危険をおかすことになる。「無」を世界に到来せしめる「存在」は、その「存在」において、その「存在」の「無」が問題であるような一つの存在である。いいかえれば、「無」を世界に来たらしめる存在はその存在自身の「無」であるのでなければならない。このことによって、またしても「存在」のうちに根拠を要求するような一つの無化的な行為を考えてはならない。むしろここに求められている「存在」の、一つの存在論的性格と解しなければならない。残る問題は、いかなる繊細微妙な存在領域において、自己自身の「無」であるような「存在」にわれわれが出会うかということである。

(『存在と無』第一章第一部Ⅴ)松浪信三郎訳

 

 もちろん、このくだりの前にはここに至る子細な検討が述べられているし、この後にも検討が続く。しかし依然として、理解に先行した何らかの実感的確信をもってしなければ、こうした文章を読み解くことはできないだろう。実際、こうした「否定的なもの」は、それが人間の根幹にあるというヘーゲルなどの主張とは裏腹に、とくに英米圏ではほとんど重要視されていないように見える。そこではただ肯定的な命題だけが問題である。この傾向は、分析哲学に限らず、心理学においても見受けられるように思う。

 

 ジジェクはその著書『Less Than Nothing: Hegel And The Shadow Of Dialectical Materialism』(未邦訳)のなかで、「否定的なもの」の痕跡をソクラテスプラトンにまで遡って見出している。ジジェクによれば、「否定的なもの」はソクラテス-プラトン-デカルト-カント-ヘーゲルという哲学の大道に常に存在している。それにもかかわらず「否定的なもの」の思考の線が未だに細い小径であるのはなぜだろうか?ジジェクによれば、「否定的なもの」は常に「否認」「抑圧」されてきたのだという。

 

 とはいえやはり、「存在の無は存在するのだ」などと言われて、にわかに納得することはできない。なにしろ、「否定的なもの」は、実体によって決定論的に演じられる現実の一部ではないから、現実世界をいくら科学的に分析しても無駄だというのである。しかしこれでは、霊魂や神、そして人間の自由といった超越論的仮象の実在を主張する(あるいは仮定する)という域を出ていないのではないか。そこでは、「否定的なもの」は、主体を説明するための数あるマジックワードの一つとなってしまう。主体は謎のままである。

 ジジェクならばここで、ヘーゲルの「古代エジプト人の謎は、古代エジプト人にとっても謎だった」という格言を引くなどして、主体の謎が主体自身の内在的な構成要件であることを示そうとするであろう。例えば、カントにおける主体の自由は、叡智界における道徳的理性と現象界における因果律のantagonism(敵対、対抗、矛盾)がある限りで現れうるのであり、理論的矛盾に見える叡智界と現象界の対立は、それ自身主体の取り除くことのできない内在的な構成要件なのである。

 さてしかし、こうしたカントの叡智界による説明は不十分であろう。ここではさらに、ヘーゲルの「超感性的なものは、現象としての現象である」という転回によって、叡智界と現象界の差異は、現象と現象それ自身との差異に置き換わる。現象を、現象としての現象、我々の目にする現象が我々の知覚によって媒介されているのだと把握することによって、その彼岸としての超感性的な存在、「物自体」を予期することになる。これがヘーゲルの自己意識であるが、ここにはすでに再帰性が見て取れる。現象と現象としての現象の間の最小限の距離は、現象の世界からの撤退という身振りを含んでいる。これこそが「否定的なもの」である。

 

 この「否定的なもの」について、自然科学によって妥当な説明を得ることはできるだろうか?それとも、我々は主体の「否定的なもの」を因果律の裂け目、現実の裂け目として認め、人間主体を宇宙における特権的な存在として承認せざるを得ないのだろうか?

 よくあるのは、主体の本当の根源を知ってしまえば、もはや主体は主体でいることができないから、それを知ることは不可能だという議論だ。全知を手に入れた人間は、叡智界の操り人形よろしく、必然と理に従って行動するほかなくなってしまう。ここには、ジジェクが『イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)』で触れた「知ることはできない。知ってはならないからだ。」という、カントの倫理的命題「できる。しなければならないからだ。」の"興味深いヴァリエーション"がある。

 この点について、ジジェク量子論を比喩的に引用することで説明を試みている。現実そのものが実は、実体のない量子の確率・統計的な存在に支えられている。現実そのものが非一貫性を抱えているのだ。この非一貫性を認め、裂け目そのものと和解することが必要なのだ。

 しかしこの説明の機能はあくまで比喩に留まるだろう。量子脳仮説を採用しない限り、量子の様態が直接に自己意識に関わってくるわけではない。マルクスが発見したのは、近代社会の非一貫性・矛盾(貧富の格差の拡大や労働者の健康状態の悪化)が近代社会の構造に内在する対立なのであって、人間の怠惰やユダヤ人の陰謀のせいではないということである。ましてやそれは、量子論とは何のかかわりもない。我々が探すべきは、現存在の存在のしかたに特有の非一貫性であろう。

 

 マルクス主義のアナロジーから考えれば、主体の抱える「否定的なもの」の在り処を突き止めることは、必ずしも禁じられているわけではないのではないだろうか。確かに、近代社会の「真理(社会を維持するための不可欠な症候としてのプロレタリアート)」に気づくことは、主体をその社会から引き離し、新たな善(=共産主義)を打ち立てるための反社会的な根源悪にむかって追い立てる。それは近代社会によって禁じられているが、「真理」の発見自体は不可能ではなかった。あるいは不可能だったのかもしれないが事実起こってしまった。同じように、主体の「真理」は主体自身によって隠匿されているが、主体の主体からの分離を条件として、知ることができるように見える。*1

  そういうわけで我々は、自分自身の「否定的なもの」を認める条件で、「否定的なもの」の正体を見定めることができるのではないだろうか。そしてそれは、マルクス形而上学ではなく社会科学的な方法を先駆的に用いたように、形而上学ではなく自然科学によって可能ではないだろうか。むしろ、「否定的なもの」による存在の裂け目が自然主義的に必然的であるということを明らかにすることすら、原理的には不可能ではないように思われる。

 

 

 「否定的なもの」を「否定的なもの」のまま、現代の自然科学の用語で捉え、輪郭を描いてみるという試みは見たことがない。こうした折衷案的な試みは得てして折衷した両者から激しく批判されるのがお決まりであるが、私はやってみる価値はあるように思う。*2その過程はサイバネティクスやオートポエーシスといった情報学や生物学における自己言及システムの言葉によって行われ、次のようなものになるだろう。

 

 まず「否定的なもの」の次元を明らかにするためには、直線的な因果律から脱出しなければならない。直線的な因果律は世界の一貫した充実、肯定性しか示さないからである。微視的な因果律が、機能を持つ構造を生成することを明らかにし、因果律に従いつつ独自の原理を生み出す、創発と名付けられる現象について述べる。

 これは、生命の生成の説明を可能にする。化合物はそれぞれの原子の単体がもつ性質の合計ではなく、その構造に応じた新たな性質を持つ。部分の総和が全体を説明しない。同様に、高分子のたんぱく質もまた、その部分の総和では説明できない機能を持つのである。

 生物やそれに類するシステムは、その構成要素である部分の総和とは次元の異なる能力を持ちうるのである。この能力は、決して超自然的な力ではなく、あくまで自然の法則に服従しつつも可能になるのである。*3

 

 次いで、創発した生命の合目的性と具体的な機能について分析がなされる。ここでは、器官学(Organology)やユクスキュルの機能環について語られるべきだろう。また、それらの機能については、情報とサイバネティクスの観点から整理され記述されるのが良いだろう。「興奮」や「エネルギー」を通信・制御に関わる語として用いることは誤解を招く。物質・エネルギー・情報は、それぞれ異なる次元を担う概念であり、使い分けが重要になる。

 それぞれの器官の役割を同定するのは専門の学者に任せるとして、私にできることは、それらの全体的な枠組みや形式を抽象的に明らかにすることである。現存在は、それがいかなる生物的実体に伴っていようとも問題ではない。つまり、地球人だろうが宇宙人だろうがケイ素生物だろうが関係ないということだ。

 複数の器官・機能環が並列あるいは直列に作動することで生物は合目的的に自己再生産を行うのだが、これらの器官は必ずしも調和のとれた統一ではなく、統一なき調和でありうる。例えば、ユクスキュル『動物の環境と内的世界』によれば、ウニは体内に統一的な神経伝達を持たない。かれらは並列する複数の反射によって調和のとれた生活をする。「犬が走るときは、犬が足を動かしている、しかしウニが動くときは、足がウニを動かす」。かれらの統一は、その現実存在の内部にでなく、"設計図(Plan)"にのみ存在する。

 

 最後に、合目的的器官が複合して形成するシステムと自己参照・再帰的な構造を分析し、多重の再帰構造が自己意識を創発しうることについて論じる。ここでは、この創発を客観的な諸運動としてだけでなく、主観的な視点から描くことを試みたい。

 さらに、自己意識の無限遡行問題と学習の階型論を絡め、再帰する学習として自己を含めた状況のすべてをかっこ書きに入れる能力として否定性を明らかにし、この能力が進化論や生物学の見地から自然に生起・創発しうることを明らかにする。そして、そのような能力がいかなる射程を持つのかについても考えたい。

 もし力が及べば、ユク・ホイによる『再帰性と偶然性』で語られている、「有機化する無機的なもの」の問題についても言及したいが、これはおそらく別の機会になるだろう。

 

 ここからの一連の記事では手元の未完全なメモから全体の議論を構成していく。もしこの試みがうまくいくならば、参考書籍や引用元について再度厳密に当たったうえで再編して論文形式にまとめ直すこともできるはずだが、差し当たってこのブログはうまくいかないかもしれない冒険だと思って楽しんでいただくほかない代物である。

*1:ここには遡及的効果が見て取れる。つまり、主体の真理としての「否定的なもの」=主体の主体からの最小限の距離は、「主体の主体からの分離」によってそれを知ることができ、それを知ることによって「主体の主体からの分離」が為されるのである。我々は常に既にそうであったものを発見するのだが、その発見によっては常に既にそうであったところのものになっている。しかし、やはりそれははじめからそうだったのだ。

*2: このように、既存の生物学や脳神経科学を用いて、意識の肯定的な実体を掴もうとする態度は、ヘーゲルが『精神現象学』の頭蓋論のくだりで批判したものではなかろうか。否、我々は、精神の充実した内容を生物の諸器官のなかに見出そうとしているのではなく、まさしく「否定的なもの」、無を、無の生じる余地を見出そうとしているのである。現代において、自然科学的な世界観との何らかの結びつきがなければ、哲学は他の蒙昧な思い込みとともに歴史書のなかにだけ生き残る存在となり果ててしまうのではないだろうか。のっぺりとした因果的必然の世界に人間が生きる場所をつくるためには、「否定的なもの」の場所が可能であることを明らかにしなければならないのである。

*3:もっとも、究極的に言えばすべてがクオークの狂ったダンスによって構成されている。しかし、そうした理解は物事の構造に含まれる本質を見逃す。仏教徒が美人を「しょせんは糞袋、十年もすれば老いて醜くなる」等々とするとき、かれは現実に目を向けることで自分自身の欲望という〈現実界〉から目を背けている。