生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

欲望の解決を巡る弁証法

前回記事

ikiruiiwake.hatenablog.com

 

欲望の過剰/不足とゼロ地点

 欲望は何らかの過剰/不足として現れる。

 欲望は何らかの不足を満たそうとする。

 欲望は何らかの過剰さを放出しようとする。

 過剰/不足は、それが過剰でも不足でもない、正常であり完全であるようなゼロ地点を指し示す。

 欲望のゼロ地点への回帰の傾向は、欲望のそれ自体的な説明においては単にホメオスタシスの表現である。他方、失楽園神話的な説明においては質的に異なる次元を示唆する。失楽園神話において、完全性は通常の領域の外にあるのだ。楽園追放によって生まれた欠如は、楽園の回復によってしか埋めることができない。

 

 例を挙げよう。マルクス主義において、貧困(富の不足)の真の解決の意味するところは、富の増加(不足の充足)ではなくプロレタリア革命である。富というかりそめの解決を求める努力は、富の希少性のためにむしろ状況を悪化させる。つまり、皆が富を求めるほど富を巡る競争が激化し、資本の回転が加速し、労働者はさらに搾取される。脱出点は、競争そのものを廃棄することにある。革命後の世界で彼らは単に「競争しない」のではなく、「非競争的(つまり共産的)」である。マルクス主義において富の不足は真の問題ではない。真の問題は、ブルジョワ社会では不可視化されている領域に位置する、ある欠如(資本主義社会を可能にする、原初に失われたあるもの)である。

 仏教において欲望の解決の意味するところは、その満足ではなく、欲望そのものの十分な抑制である。欲望は満たせば満たすほど大きくなって、とうとう満たすことができなくなる。逆に、欲望を抑制(否定)して「足るを知る」ことで満たされるようになるというわけである。そこでは彼らは単に「欲望しない」のではなく「無欲」なのである。真の問題は欲望の空想的な対象の過剰さにあるのではなく、欲望することそのものの過剰さにある。

 

 ここで起きていることは、スラヴォイ・ジジェクが不死を巡る彼の定番のジョークで言い表している、否定判断と無限判断に関わるものだ。

 

youtu.be

 

 「死んでいない」と「不死」を比べた時、後者では死が可能な領域そのものが否定されている。不死は<生/死>の外にある。不死を求める行為には相応の代償がつきものである。不死を手に入れる代わりに、生の根本的な本質を失うのだ。不死は死と同時に生をも不可能にする。

 

 「欲望しない」ではなく「無-欲」を目指したとき、つまり欲望することそのものを不可能にしようとするとき、例えば性欲をなくすためにペニスを切り落とすことが考えられる。このように欲望そのものの根本的な解決は、欲望の彼岸、快感原則の彼岸にある。これを目指す試みは、自殺に導くような死の欲動の表れである。*1

 このおぞましい"欲望の最終解決"の対極には、「ほしいものが、ほしいわ。*2」という、欲望への欲望がある。このような欲望の究極の肯定は、欲望のもとへ主体を消滅させようと反復脅迫的な消費へと駆り立てる。

 「生」と「死」の間に「不死」という怪物の脅威があるように、「欲望する」と「欲望しない」の間には得体のしれない何者かが潜んでいるのだ。この<欲望を欲望する/無-欲>の軸においては、主体の生を肯定する極はない。生は宙吊りに耐えることではじめて可能になる。

 

欲望の解決はどのレベルにて行われるべきか?

 ここで前回の、欲望の根源の問題に戻ることになる。

 現実的な問題として、誤った方法で欲望を満たそうと試みた場合、事態は悪化する。例えば、空腹は半日おきに食事をすることが唯一の現実的な解決であり、断食しても腹が減るだけだ。他方、アルコールへの欲望はアルコールを摂取すればするほど悪化する。断酒するほかない。同じように、過食症による食への強迫的な欲望は、食べることでは解決しない。人体の食物への欲望と依存、精神のアルコールへの欲望と依存、症状としての欲望と依存は、それぞれ異なる構造を持っているのである。

 であるならば、我々のほかの欲望はどのように構造化されているのか?必要なのは商品か?精神分析か?それとも革命か?そしてこの謎かけそのものが「真実の欠如」という欲望の構造を持っている。我々に必要なのは答えを信じることか?問い考えることか?謎を忘れることか?

 この問題は正しく扱わなければ、人間の破壊だけでなく、非-人間的なおぞましい何かをもたらすだろう。もっとも、この世の中がおぞましくなかったためしなど一度もなく、問いが適切に問われていない以上我々の社会もまたそうなのだが。

*1:宗教家は自殺よりもスマートな方法でこれを行う。しかし、それが自らの意志のもとで行われる限り、物理的な去勢と精神的な去勢には本質的な差はないように思われる。

*2:西武百貨店の1988年広告ポスターのキャッチコピー。糸井重里によるもの。