生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

2.合目的的器官(1)器官と機能環

 前章で我々は、全くの無から偶然によって宇宙が誕生し、因果律の盲目的な連鎖の中から構造が創発し、自らの維持再生産を目的とする合目的的構造すなわち生命が出現するまでを追った。

 生命は具体的な生存戦略に沿った合目的的器官を有し、器官は遺伝子と自然選択によって絶えずファインチューニングされる。

 合目的的器官は、環境と相互的な関係インタレレーションシップを築く。この点で器官は、土塊や石ころとは根本的に異なった在り方をしている。しかしなお、合目的的器官は機械的な律動をするのみで、自身の合目的性を理解しているわけではない。器官は環境とは(存在者として)相互的な関係を築くが、その存在においては受動的である。

 この受動性から存在の問いの領域にたどり着くためには、つまり器官から主体が創発することを明らかにするためには、なによりもまず器官の様態を明らかにしなければならない。

 

器官の合目的性

 器官は、その目的のために存在する。肺は酸素を取り込むため、心臓は血液を循環させるため、胃は消化のため、腸は吸収のため、手足は移動したり周囲の物体に力学的な影響を与えるため、目は物を見るため、脳は考えるため、等々。

 これらの合目的性は、決して見かけのものではなく、遺伝と自然選択によって、常に継承され調整されている。

盲目的器官

 器官のうち、植物のもつ器官と動物の内臓に当たるもののほとんどは、盲目と沈黙のなかで自動的に働いている。

 その盲目的な一貫性たるや、植物の茎は根から切り離されても水を吸い上げ続け、カエルの心臓は解剖されて血を失った状態でも何時間も拍動し続け、スジホシムシは身体を切断されてシャーレにピンで留められても砂を掘るしぐさを続ける。

 この盲目性は、生命を維持する確実さに繋がっている。一般的に、制御機構が複雑になるほど故障のリスクは大きくなるものである。生命体の核心的な目的を担う器官は、その故障が致命傷となるため、むしろ生命体そのものの死を超えても生き続けるよう設計されている。生命が生きている間に器官が止まってしまっては困るが、生命の死以降に器官がどうなろうが問題ではないのである。敢えて強い言葉で言えば、器官は個体の死を超えて生きる、不死の領域にある。

器官による選択的な作用と制御

 器官は、受動的な自動機械(例えば、動力を伝える滑車や歯車、またその集合である時計)とは異なり、合目的性に沿って特定の対象や状況に対して選択的に作用する。

 この選択的作用は、生物のさまざまなレベルにおいて行われている。

 

 まず、単純なエントロピー勾配を利用した見かけの選択的作用がある。単純拡散と呼ばれる物質の受動輸送がこれに当たり、細胞内外での小さな分子のやり取りや、肺胞でのガス交換がこれを利用している。例えばガス交換では、空気中の酸素濃度が二酸化炭素濃度よりも圧倒的に多いため、大気と血液系を接続できれば、分子的な選択をしなくとも酸素を取り込み二酸化炭素を排出できる。

 

 次に、分子的な選択的作用がある。例えば、細胞膜はリン脂質の二重層でできており、小さい分子と脂溶性分子を透過し、大きく親水性の分子やイオンを透過しない。この仕組みは、硬貨を自動でふるい分ける貯金箱のように構造のなかに制度化されており、神経系による制御を必要とせず盲目的に作用する。このときも駆動力はエントロピー勾配である。

 

 次に、タンパク質による選択的な輸送・受容がある。これは、タンパク質がその構造によって特定の物質とのみ作用することにより可能になる。輸送の駆動力は、輸送の対象となる物質の濃度勾配(エントロピー勾配)から得るものもあれば、別の物質の濃度勾配から得るもの、ATPを消費してエネルギーを得るものもある。別の物質の濃度勾配を駆動力とする場合、駆動力源となる物質と輸送対象の物質の組み合わせはタンパク質の構造次第で任意であり、自由度は飛躍的に高まる。

 

 タンパク質は、微視的サイバネティクスとも言うべき制御機構を可能にする。

 そのもっとも単純な例として、ヘモグロビンを挙げたいと思う。ヘモグロビンは、そのタンパク質の構造によって、酸素と結合すればより酸素と結合しやすく、二酸化炭素と結合すればより酸素と結合しにくくなる。つまり、酸素濃度の高いところでは酸素と結合し、酸素濃度の低いところで酸素を手放すのである。この自己促進的な仕組みによって、ヘモグロビンは効率的に酸素を血管の末端に届けることができ、静脈で必要以上に酸素を持ち帰ることがない。

 

 ヘモグロビンのサイバネティックシステムは自己完結しているが、受容体タンパク質が他の物質やタンパク質を通じて細胞や様々な器官に働きかけることで、より複雑な制御が可能である。受容体と作用の組み合わせはタンパク質構造次第で任意であるから、このサイバネティックシステムを限界づけるような物理的法則や傾向は理論的には存在しないと言ってよい。

 

 長距離伝達する神経伝達物質であるホルモンなどにより、巨視的な器官のサイバネティックな制御が可能になる。動物の器官は基本的に、これまでの微視的な次元を基本的な仕組みとして、この神経伝達物質のネットワークによって制御されている。

 

 情報伝達に特化した細胞、神経細胞は神経系を形成し、動物の筋肉の制御すなわち運動を可能にする。運動能力は、外界の情報の取得によってサイバネティックな制御が可能になることで初めて役に立つ。感覚器官、筋組織、神経系は、「動く」という戦略の下で同時並行的に発達していなければならない。

 

 脳という器官は、神経細胞の集中的運用によって高度な情報処理と学習を可能にした。これが全く新たな論理領域を創発する。すなわち、生命は知能を手に入れる。それは分子や細胞でできたカラクリ機械のような生得的な挙動ではなく、経験に基づく予測、すなわち学習(強化学習)を可能にする。それは、生得的に組み込まれた順応の能力ではなく、全く新たな規則と方法を見つけ出す力である。

 

 脳は他の器官と同様に、生物の合目的性に従って形成されており、機能によって分化している。例えば鳴禽類の脳には、さえずりを生成するためのいくつかの神経核が存在し、あるものは音を、あるものは句を、またあるものは節を生成し、またべつのものは聴覚からの情報によりさえずりの調整と学習を担当する。

 

 脳を媒体とした知能が、知能自身に向けられることではじめて、哲学は可能になる。つまり、論理的な、あるいは脳自身の再帰構造である。我々の哲学的課題はこの脳という器官と構造をひとつの不可避の前提としてはじまるのである。

 

 ともあれ、我々は少し先へ進みすぎた。知能について考えるよりも前に、器官一般の世界とのかかわり方をもっと詳しく見ていく必要がある。なぜなら、脳もまた他の器官のうちの一つであることに変わりなく、他の器官と同じ枠組みによって世界と関わるからである。

 

情報の次元

 ここまでの議論から、器官が単なる力学的な仕組みの機械とは異なる機序によって動いていることが明らかである。すなわち、器官はその目的、意味のために自らを制御する。ここには、単なる物理的な因果の連鎖ではなく、意味、情報の次元が介在する。

 例えば、ボールを蹴っ飛ばせば、放物線を描いて飛んでいく。これが物理学的必然である。しかし、犬を蹴っ飛ばせば、犬はキャンと鳴いて足にかみついてくる。これは物理的必然とは異なる機序、犬の生物としての機序が働いている。

 犬の生物的な機序が分子化学的必然かと言えば、そうではない。タンパク質塊に塩酸を垂らせば加水分解が起きて溶けるが、犬に塩酸を垂らせば、その皮膚には化学熱傷が起き、やはりキャンと鳴いて苦しみもだえるだろう。そして皮膚の細胞組織では、傷の修復と再生が試みられる。その分子化学的なプロセスは、どこをとっても必然に従うが、その全体は目的論的に巧妙に仕組まれている。

 犬を蹴っ飛ばす例は20世紀のサイバネティクス学者グレゴリー・ベイトソンが用いたものだが、この問題自体はそれ以前から生物機械説を巡って争われてきたものである。そこで、反・生物機械論者の代表格であるヤーコブ・フォン・ユクスキュルの視点から、生物、そして器官から見た世界を見てみよう。

ユクスキュルによる研究に拠って

 ユクスキュルは、19世紀後半から20世紀前半を生きた生物学者である。彼は代表作『生物から見た世界』の冒頭で、生理学者生物学者の生物観を対比させている。生理学者は生物を客体-機械として研究する。それに対して生物学者は、生物を主体として捉え、機械ではなく機械操作係にたとえるのだ。*1

 これは、ダニエル・デネットが批判しているデカルトの脳の中の小人*2を、生物学者は生物のうちに認める、ということではない。むしろ、神経系の連鎖、機能環の全体が、主体=機械操作係なのである。

 ここでヘーゲルの有名な言辞、「精神は骨である」を思い出すのが良い。つまり、精神(主体)と骨(実体)の関係は、因果的(主体=デカルトの小人が肉体に影響を与えるという、人相学的発想)でも説明的(肉体の性質が、主体の性格を規定する。機械論、骨相学的発想)でもない。それらは、内在的な分裂というかたちで直接一致するのだ。

機能環

 当時の生理学者たちは、生物の行動はもっぱら反射に基づいていると考えた。反射は、刺激を受けた感覚器から神経興奮が中継点を通り実行器に到達し行動に反映される、一連のプロセスである。このとき通過する道の図式は、その弓なりのかたちから反射弓(英語ではreflex arc、反射弧)と呼ばれる。

 これに対しユクスキュルは、生物の知覚器の作用対象と実行器の作用対象が客体を通じて結ばれていることを主張し、「機能環」として図式化した。

 

 機能環は、主体と客体の関係を組織だった全体として映し出す。

 環境中の客体から送られてくる様々な刺激は、生物の感覚器官において固有の刺激として受容され、知覚徴表として主体の知覚世界に入る。つぎにこれは神経網(=内的世界)を経由して、生物の活動器官が捕捉可能な固有の対象領域を呈示する。生物は、活動器官を通して客体に働きかける。それは捕食、逃走、繁殖行為に連なる何かしらの行動である。このとき、感覚器官が対象とする知覚徴表担体と活動の対象となる活動担体は、同一の客体の上で重合している。*3

 器官、ひいては生物にとって世界には、それが知覚できるものしか存在しない。客体が主体に関わるのは、それが一方では知覚対象、他方では作用対象となり、この構造によってつながり合っているときだけである。そしてその構造は、すべての生物においてその環境に存在する事物にぴたりと適合しているのである。

器官の連合と複数の機能環

 器官は、生物の生活目的に従って連合している。機能環における感覚器官と活動器官の組もそうである。それらは、神経やその他の伝達物質によって接続され、決まった順序で働く。

 しかし、器官の機能は直列に接続するだけではない。生物の身体では、互いに関わらない並行的な機能環が働いていることがある。

 人間の身体においても、大まかに呼吸器系、消化器系、筋骨格系などの器官系に分けられるが、これらは並行的である。しかし人間の身体は至極複雑であり、一つの器官が様々な副次的な機能を併せ持ち、全体はホルモンなどによって絶えず調整されバランスがとられているため、並行的器官として例示するにはふさわしくないかもしれない。

 並行的器官のもっと明瞭な例が、ユクスキュルの著書に見ることができる。例えば、ウニには神経の中枢器官が存在せず、複数の反射がまったく独立に活動している。それらが機能上共有しているのは物理的な身体だけなのである。それにもかかわらず、器官が自分自身の別の器官を敵とみなして攻撃したりしないのは、その生態が巧妙な工夫とともに設計されているからである。彼らは「反射の共和国」として、別々の機能環によって働きながら、同一の目的を果たす。

 並行的な器官系は、単に独立に運動しているだけでなく、互いに協働することもある。ビゼンクラゲは呼吸と捕食、消化、移動を、一つの環状筋の収縮による泳動運動によって行っている。彼らは複数の器官系を持つが、それらは同一の対象=海水にたいして一つの機能環によって働いていると思われる。

 これらの事実が指し示すのは、自己同一性の問題である。一方では、独立した反射の集合が一つの個体をなす。他方では、統一された行動が複数の異なる器官に奉仕する。必ずしも、一つの個体が一つの精神を持つとは限らない。また複数の系が一つの精神をもちうる。その在り方は、生物と環境の関わり方によって規定されているのである。

神経系の論理回路

 ユクスキュルは、実験によって得られた神経網のはたらきを、水道管やバルブ、貯水槽で例えて説明しようとしている。神経の興奮は決まった方向へ流れ出し、ある時は堰き止められ、あるときは一定まで蓄積されてから放出される。これらの組み合わせによって、生物はさまざまな律動を可能にしているのである。

 水路の例はそれなりに理にかなっているとはいえ、本質的な部分を見落とすことに繋がってしまう。それは、神経網は興奮を伝達しているのではなく、興奮によって情報を伝達しているということである。

 これは次のように例えてみると分かりやすいと思う。ある水の豊富な王国では、川上にある王城が水路の水位を制御することで川下の人々に命令を下す。ある水路がある水位を示したときに何をすべきかは、あらかじめ規則されている。このとき水路が伝えているのは、もちろん水ではなく王城からの命令である。

 そういうわけで、神経系の興奮は本質的に情報の次元で機能しているのである。このように考えると、神経の促進や抑制はANDやNOT回路であり、それらの組み合わせは任意の情報処理を可能にすることが分かる。神経の詳しい機構は今日では明らかにされており、そこにはまさに論理回路のようなニューロンの性質を見て取れる。

*1:生物から見た世界 (岩波文庫) p.13

*2:伝統的な心身二元論に基づいて考えられた、機械的な身体を脳の指令室から一元的に操作する意識主体の存在。

*3:動物の環境と内的世界 第四章 p.73-