生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

2.合目的的器官(2)情報システムとしての器官

 器官が様々な物質によって伝えるのは、情報である。これが前節で得られた結論の一つであった。

 この節では、こうした情報の考え方に全面的に依拠して器官に当たってみたい。情報は、十分に明快に定義されており、不適切なアナロジーによって理解を誤らせる、生物についてのいくつかの考え方(「興奮」、「心的エネルギー」、「リビドーの備給」など。)について適切に整理ができると思う。同様の主張がすでにグレゴリー・ベイトソン精神と自然: 生きた世界の認識論 (岩波文庫 青 N 604-1)』,『精神の生態学』によって行われているので、折に触れてこれを参照しながら議論を進めよう。

 

情報とはいかなるものか

 情報は、「物質」や「エネルギー」とは根本的に異なっている。

 このことは、心理学や生理学における不適切なアナロジーによって曖昧にされている。神経系はエネルギー伝達組織ではないし、個体のエネルギー低下は活動の低下に直接的に作用しない。アメーバにはじまりほとんどあらゆる生物は、エネルギーが枯渇した空腹状態において、捕食をはじめとした積極的な行動に動く。エネルギーの低下が活動の低下に直結するのは、その個体が死ぬときだけである。

 エネルギーの投入が器官の制御機構になっているときも、器官全体のはたらきを見れば、それは一連の論理回路に属している。

 例えば、ガソリンエンジンの出力調整は、ガソリン=燃料の量によって行われる。ガソリンの噴出量は、タンクに残存するガソリンの量で決まるのではなく、アクセルの踏み込み具合などで決まる。エンジンは情報処理をしないが、全体を見れば車の速度という出力結果の違いは、ガソリンの噴出量の違いによって決まっている。ここでは、ガソリンというエネルギー源は情報と制御の媒体として機能している。

 「エネルギーの備給」と呼ばれるような現象もまた同様に、本質的にはエネルギーではなく情報と制御に属する現象と考えられる。

グレゴリー・ベイトソンにおける情報
 ベイトソンにとって、情報とは「違いを生む違い」である。事物には無限の差異が可能性として含まれているが、その中でごく一部のものだけが、何かしらより大きな存在の精神プロセスの中で、実効的な差異になる。*1
 そもそも、感覚器官一般は外界の差異に対して生物主体の行動を変化させるために存在している。行動変化という違いを生まないような違いは、情報として役に立たず、認識される必要がない。そういうわけで例えば、ウシガエルは羽虫だろうがゴキブリだろうがザリガニだろうが動くものに対してはなんにでも飛びついて吞み込んでしまうのだ。強靭な消化器を持つ彼らにとって、動くものはすべて捕食の対象であり、それが何であるかは問題ではないのである。ここでは、動くものと動かないものの差異だけが、捕食行動を決定する情報である。
 もっとわかりやすい例を挙げれば、我々人間の生存に欠かすことのできない空気や酸素は、普段は全く認識されない。我々が空気の存在に気がつくのは、標高が上がって呼吸が苦しくなったときや、風が吹いて体に吹き付ける空気が変化したときや、空港に降り立って故郷とは全く異なる温度と湿度を感じ取った時、つまり差異を感じ取った時である。海から一生涯出ることのない魚は、水の存在を知らないまま過ごすのである。
抽象的な情報の構造と「規定は否定である」
 さらに抽象化して考えよう。情報の最小単位は最小限の「違い」であり、一つの(1/0)、1ビットである。ここで注意が必要なのは、メッセージとしての情報とその情報の持つ情報量は違うということである。1ビットの情報が1の情報量を持つわけではない。情報量は、その情報が得られる確率に左右される。「1」しか送られてこないと分かっていれば、「1」が送られてきてもその情報量はゼロである。
 情報とは「違い」なのだから、いかなる情報もその表現と対立する他のもの、他の極となるものなしには立ち現れはしない。図が見えるときには必ず地があり、地が見えるときにも必ず図がある。認識されたものは、純粋な存在、「ある」ではなく、「それではないではない」という、ある種の否定性に媒介されたものであると言える。
 これによって、スピノザからヘーゲルへと受け継がれた「規定は否定である」という原理を、情報の根本的な性格として明快に読むことができる。 規定は連続的な現実をカテゴリに嵌めてバラバラに切り刻み、不要な存在の一切を捨象し、存在を本質ではなく表象として取りあつかう。情報は、無限の差異から特定の差異だけを取り出す。我々の認識は、感覚器官によって条件づけられており、このような規定=情報の世界の外で認識することは絶対にできないのである。
 
サイバネティクスにおける情報の否定性

 グレゴリー・ベイトソンは、主著『精神の生態学』に収録されている「サイバネティクスの説明法」という論文で次のように、サイバネティックな説明を「否定的」と言い表わしている。

因果論的causalな説明は、通常「肯定的」positiveである。ビリヤードボールAがこれこれの角度でボールBに当たった、ゆえにBはこれこれの方向に動いた、という言い方をする。
サイバネティックな説明はつねに「否定的」negativeである。他にどのようなことが起こりえたかを考え、なぜそれらの代替的な経路を出来事が進んでいくことができなかったか、なぜそれらは断ちきえ、残ったわずかの可能性のうちのひとつが実現したのか、ということが問われる。
 肯定的な因果論的説明は、知識を加えることはできても情報を絞り込むことができない。その説明の全体は論理和として肥大化していく。
 否定的なサイバネティックな説明は、論理積として積み重なり情報を絞り込んでいく。
 
 例えば、「なぜ殺したのか?」よりも「なぜ殺さずにいることはできなかったのか?」のほうが核心的である。「安倍晋三はなぜ殺されたのか?」という問いは、この事件に関する無限のお喋りを実現するだけで本質的な答えを導き出さない。一方、「安倍晋三が殺されずに済むことはなぜありえなかったのか?」と問えば、警備の欠陥、警察庁への人事介入による組織の劣化、「日本はテロのない安全な国」という慢心、破壊的カルト集団統一協会とのつながり、同団体との政治的結びつきによる法治の機能不全、困窮者を救済しない国家制度、といった一連の本質的な問題を浮かび上がらせる。これらのうちのどれか一つの条件がなければ、安倍銃撃事件は発生していなかったはずである。これらの条件の全てを揃えてしまったのが、10年近くにわたる安倍自民党政治なのだ。
 
 我々が取り組んできた問題も同様である。「なぜ何かがあるのか?」よりも「なぜ何もないではないのか?」のほうが実利的な質問である。その答えは、「なにもないよりなにかあるほうがポテンシャルが低いから」だ。「なぜ宇宙には構造があるのか?」よりも「なぜ宇宙は均一ではないのか?」のほうが実りの多い質問だ。その答えは、「初期の量子的揺らぎが引き延ばされたから」だ。
生物と否定性

 単なる肯定的な物理的因果性の連鎖である実在的一元論の世界に対し、情報による制御を行う生物において、一番初めの"否定性"が現実化していると言える。生物の遺伝、発生、生活のあらゆる場面で、情報による足切りや対称性の否定が機能している。

 とはいえ、規定性が理解されるためには、規定性を規定しなければならない。つまり、否定を否定することによってはじめて、遡及的に初めの否定が見いだされるのである。
再帰的規定
 同一性という概念は、同一性と差異との間の差異から再帰的に決定される。「同じ」は、「違う」とは違う。
 同一性が有意味となるのは、差異性との関係においてであって、差異性との関係なしの同一性はナンセンスな発話にしかならない。差異は同一性に先だつ。
 とはいえ、「差異性」もまた、その概念化は同一性との差異からなされる。「否定性」も同様の地位にある。
 

生体のサイバネティクス(情報-制御)

 情報が生物においてどのように機能しているかを理解するために、ユクスキュルの機能環に戻ろう。
 感覚器官は、外的現実から特定の標識だけを見つけ出し、情報を取得する。作用器官は作用空間上の客体に働きかける。生物が首尾よく生活するためには、この両方が働いていなければならない。
生物と器官における情報
 認識は、感覚器官によってはじめて可能になる。これは、単に肯定的な物理的実体として感覚器官が必要であるというだけではない。感覚器官が外界にある無限の差異から特定の差異だけを選び取って情報として受け入れることではじめて、外界は意味を伴って認識される。器官には、情報の取得だけでなく、同時にその取捨選別の機能がある。
 この意味で、透明な万能知性による認識は存在しない。それは情報の定義に反するからだ。すべてを知ることは、何も知らないのと同じことである。
 感覚器官から得られた情報は、生物内部の様々な経路を経て作用器官に伝えられる。この過程での情報の変換の全体が、理解と行動決定を形づくっている。ここに複雑なニューロンのネットワークが介す場合、そのプロセスを明示的に理解することは極めて難しい。しかし、生物の内的な情報処理器官は、ほとんどの場合で感覚器官から入力された情報に対して、作用器官への適切な出力を行う。そうして、生存と繁栄に合致した行動が起こる。
感覚器官と作用器官の協働
 感覚器官から作用器官に至る情報の流れは、単に行ったきりの一方通行ではない。生物の生活がうまくいくためには、感覚器官が捉える知覚世界と作用器官が捕捉しようとする活動世界が、主体の内的世界において絶えず相互に調整されなければならない。機能環のループは、サイバネティクスにおけるフィードバック・ループとして機能するのである。
 ミツバチの帰巣本能を例に挙げよう。ミツバチは、巣からの飛行経路を記憶し、巣に戻ってくることができる。これは作用空間上の位置記憶と考えられる。
 ミツバチが巣から出ていったあと巣を数メートル移動させると、ミツバチはもともと巣があった位置に帰ってきてひとしきりそこに留まったあと、移動させられた自分の巣を発見して帰巣する。現実に巣が移動したあとも、ミツバチの作用空間における巣はそのままであるために、巣にではなく巣のあった場所に戻ってくるのである。そうして帰巣に失敗したことに気がつくと、感覚器官によって捉えた自分の巣の座標位置によって作用空間上の巣の位置を上書き修正するのである。感覚器官によるフィードバックがなければ、ミツバチは巣に帰れないまま元の巣の位置で当惑し続けるだろう。
 遺伝的な自然選択による進化もまた、このフィードバックのもとにあると考えることもできる。この場合、個体の生存がうまくいったか繁殖できたかどうかによって、個体から種へのフィードバックが行われている。このフィードバック・ループによる調整によって、生物個体は多くの場合で適切な活動ができるのである。
フィードバック・ループ
 フィードバック・ループは、サイバネティクスの提唱者ノーバート・ウィーナーによる、「正常な制御のためには情報は相互的でなければならない」というサイバネティクスの本質的な機構の表現である。つまり、機械の制御にはただ命令だけ与えればよいというのではなく、機械に対する命令は、その結果によって調整される必要がある。
 例えば、地図だけを見て航海する人はいない。いくら道順を知っていても、それでは目をつぶって歩くようなものだ。誤差や風の影響を修正しなければならないし、そもそも現在位置の目算を誤っているかもしれない。操舵装置が壊れていて意図した動作をしていないかもしれない。ともかく、安全に目的地に到達するためには、その道順から逸脱しないように、舳先を細かく修正し続ける必要がある。同様に、機械への命令は行ったきりではうまくいかないのである。
生体における情報の流れ
 情報の流通経路を辿ってみれば、生物がどのような世界に暮らしているのか理解できる。例えばウニは、互いに交わらない情報網がひとつの身体にいくつも存在していることになる。全体を司る王たるデカルトの小人は存在しない。他方ビゼンクラゲは、泳動という一つの動作で知らずのうちにいくつもの仕事をこなしてしまっている。当のクラゲにとっては、呼吸と捕食の区別はないはずである。
 あの盲目的な器官、スジホシムシの穴掘りについて考えてみよう。それは、ほとんどサイバネティックな制御を受けない、情報のやり取りをしない、と言える。生物の生活上の基底的な器官は、その生活の中で否定されえない。そのような器官は当の生物にとって、存在するが情報を持たない、恒常的な力動である。*2

*1:精神と自然: 生きた世界の認識論 (岩波文庫 青 N 604-1)』Ⅳ精神過程を見分ける基準 p.187

*2:我々人間においても、存在するにもかかわらず論理的な意味を持って経験されない領域が存在する。それは、我々の変化しえない行動を与えているものである。ここで我々はラカンの言う〈現実界〉に触れる。人間の欲動は、スジホシムシにとっての穴掘りと同じ領域のものだと思われる。