生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

ラカンにおける欲望/ラカンを用いて

 前々回前回の二つの記事で、欲望に対峙したときに起きる問題を大まかに捉えることを試みた。欲望の原因は何で、我々はどうすべきか?ただ生活を満たせばよいのか?哲学が必要か?革命か?それともどうしようもないのか?あるいは「なにもしない」をすることか?そしてこの問い自体が欲望の形式をまとっている。欲望について問うとき、その問い自体が欲望として再帰的に問われているのだ。

 

 今回は、欲望の形式をより具体的に素描してその突破口を浮き彫りにすべく、精神分析ジャック・ラカンの理論と言葉を用いることを試みる。ラカンの理論はその生涯のなかで幾たびも変化しており、独自の用語を多用することからも難解で有名である。全容を掴むことは一朝一夕では不可能としても、その発想や用語からは豊富な切り口を提供してくれることだろう。

 この記事では、まず前半部で、ラカンにおける欲望の理論をその歴史に沿って辿っていく。これは向井雅明著『ラカン入門 (ちくま学芸文庫)』からの抜き書きを中心に構成する。後半部ではその理解をもとに、いくつかのトピックを経由しながら欲望の可能な地点を明確にしていく。

 

 

 これを書くにあたって手元に置いて参考にしたのは以下の書籍である。ラカンを理解する上ではスラヴォイ・ジジェクからも影響を受けているが、彼の縦横無尽のテキストを適切に扱うにはとくべつ高度な理解が必要に思われるので、ここではほとんど用いていない。

 

 

 

 

 

 

ラカンにおける欲望

 これまでの記事では、欲望を明確に定義せず意味を広くとって使ってきた。というのも俯瞰的横断的に議論するためには、各分野で定義の異なる一つの単語を半ば無理やり同じものとしてピン留めするほかなかったからである。しかしここからはもう少し厳密にしなければならないだろう。ラカンにおける欲望とはどういうものだろうか。その理論的変遷とともに見ていく。

鏡像段階

 鏡像段階論は初期ラカンの代表的な理論であり、自我の形成過程を説明する。

 人間は他の動物に比べて未熟な状態で生まれる。生まれて間もない子どもは、自分の身体についての全体的なイメージも持ち合わせておらず、諸感覚のバラバラの寄せ集めでしかない。そうしたバラバラのイメージを鏡の中の自分のイメージ(あるいは他者のイメージ)に統合していくことで自我を形成していくのである。このようなイメージの領域は、「想像界」として定義される。

分断された身体のイメージしか持ち合わせていない子どもが、ある日母親に抱かれて鏡の前にやってくるとしよう。そのとき彼は、おのれの身体を器官的に運動支配するよりも先に、まず自分の全体像をそこに見出すことになる。彼は鏡のなかのイメージを自分と同一化し、一つの全体像として予知的につかむのだ。ここに人間の自我の起源があるといえよう。

 

向井雅明『ラカン入門』P.22

 

 この段階では、イメージを巡る他者との「決闘的―双数的(dual)な競合」が起こる。このイメージは私のものか、お前のものか。イメージは自我の拠り所になるのであるから、この自他の相克は存在を賭けた激烈なものとなる。このような想像界的な欲望には、羨望や嫉妬が挙げられる。

 

象徴界による調停

 想像界的な「私かお前か」の世界は、第三者の介入によって終止符が打たれる。この第三者想像界における嫉妬や憎悪を超えた絶対的第三者である。神や法、親がこの役割を果たす。

 象徴の導入によって、想像界的な自他の対立は調停されるが、同時にあるギャップが生まれることになる。それが象徴界的な欲望を形づくる。このギャップを巡る構造の説明は以降、パロールと無意識、シニフィアンによる分節、ファルスと去勢、象徴界の裂け目と対象a、部分欲動などと名前を変えて繰り返し登場する中で、象徴界から現実界へとその主軸が移っていく。

 

象徴界的な欲望

無意識にとどまる現実化されていないものが承認を求めて出てこようとする運動を、ラカンは欲望と呼んだ。

 

『入門』

 

 象徴界の導入によって生まれる欲望はどのようなものか。

 無意識は記憶痕跡からできあがっていると考えることができる。様々な経験は、いったん印づけられると消えることはない。思い出すことができないだけで、痕跡としては残っている。無意識のなかで抑圧されたまま残っている痕跡とはトラウマであり、これが承認を求めて出てこようとするのである。承認とはここでは無意識が意識化されることであり、つまり言語化である。このような言語化されることへの欲望が象徴界的欲望である(『入門』P.85-87)。だから、この時期の精神分析の目標は、症状を引き起こす抑圧された記憶痕跡を見つけ出し、それに言葉を与えて理解可能なものにすることとなっている。

 しかし、「フロイトによると、欲望は失われた対象を再び見出そうとする運動であるが、この対象は完全に失われてしまったもので、それを見出すのは不可能なこととされる。つまり、欲望の充足はあり得ない」(『入門』P.87 L.13)。すべての無意識が言語化されることはなく、欲望は決して尽きないのである。

 

欲求・要請(要求)・欲望

 なぜすべての無意識を言語化することはできないのだろうか?ラカンシニフィアン(意味するもの)/シニフィエ(意味されるもの)という言語学の用語と発想によってそれを説明する。

 生まれたばかりの赤ん坊にとっては、自身の泣き声は何の意味も持たず、またそれが自分自身のものであるかどうかも分からない。自分という意識を支え得る自我が備わっていないからである。単なる生理的反応である赤子の泣き声に意味を与えるのは、母親(そばにいる大人)である。親が自らの欲望の観点から子供の泣き声を要請として解釈し返答することで、子どもにとって泣き声が母への呼びかけの機能を果たすようになるのである。この相互理解の経験の繰り返しが充足体験として子どもの記憶に記される。ここにあるのは、子どもの現実的な欲求と、それを母親に伝える象徴としての要請である。(『入門』P.89,90)

 ところで、欲求と要請は完全に一致することはない。現実は連続的であるのに対し、象徴はシニフィアンによって分節され、構造化されているからである。欲求を満たすための要請は、つねに伝わらない部分=満たされない欲求を残す。このギャップを埋めようとすることが欲望である。(『入門』P.93)

 また逆に、子どもは欲求の言葉を借りて母親の現前を要請する。例えば、食べ物やお菓子を口実に母親との接触を要求する。これは愛の要請である。子どもがお菓子をねだるとき、単に頭を優しくなでてやるだけでも子どもは満足する。子どもはお菓子を通して愛の証を求めるのである。これに対し、要請を文字通りに受け取って要求されるがままに応えると、彼は最後には何も受け付けなくなってしまう。ここで与えられた要求の具体的な対象(欲求の対象)は、「これじゃない!」という感覚を引き起こす。(『入門』P.94)

 

 まとめると次のようになる。欲求の充足要請はシニフィアンの連鎖を通らなければならない。したがって、要請は分節化された要請である(要請から逃れる欲求=欲望がある)。また要請は、要請の相手に対する無条件の愛の要請となる。要請は、その彼方に愛の要請の地平を形成する。このように欲望は二重化された要請の中央で成立する。(『入門』P.98 L.6)

 

〈父の名〉を巡る欲望

 前節で説明された欲望は、母親との関係によって説明されているが、主体の心的構造を説明するうえでは十分ではない。ラカンは、フロイトのエディプスコンプレックスを解釈することで得た〈父の名〉によって、主体の構造を説明する。このとき、欲望もまた再び別の形で説明される。

 

 生まれたばかりの子どもには母親の行動は理解を超えており、全能で気まぐれに見える。しかし子どもは次第に、二重化された要請のなかで、母親が自分のほかに欲望するものがあることに気づく(さもなければ、子どもは母親の一部として取り込まれて自らの存在を失ってしまう)。子どもは母親の欲望の対象を探し求めるが、しまいには母親の欲望を満たすような対象は存在しないこと=母親の去勢に気づく。これは、子どもに探索を進めることの意味を失わせてしまう危機的な出来事である。(『入門』P122-130)この出来事は、母親の去勢を示すシニフィアン、象徴的父親との出会いである。

 ここで主体(こども)は象徴的父親を、母親の欲望の不可能性の象徴から母親の欲望を禁止する者に置き換え、「不可能なものを禁止されているものと見なすことで、その禁止の彼方に一つの可能性の次元をつくり出す。」(『入門』P.128)そして、この禁止を周りの現実に重ね合わせ〈父の名〉を具現化することによって、内容のある欲望の対象が生まれるとともに、理解不可能だった母親の欲望に象徴的秩序が与えられ理解可能になる。子どもは幻想に基づく自我理想と自らの欲望を形成する。「幻想によって、主体は〈他者〉の欲望を自分自身の欲望であるとの錯覚に変え、自らを支配していると考えるようになる。」(『入門』P.149)

 

 ここに、ラカンの有名な言葉である「人間の欲望は他者の欲望である」のもつ両義的な意味を明らかにできる。子どもの欲望は、母親の欲望を通して形成される。他者が欲望することを欲望する。同時に子どもの欲望は、母親への欲望である。他者を欲望する。これらは、現実には不可能だが、欲望の充足を禁止する父の名のはたらきによって、可能なものとして欲望を搔き立てる。

 

現実界、〈もの〉das Ding

 中期ラカンでは、これまでの想像界象徴界を中心とした説明に、「現実界」が主題として加わってくる。主題や用語には変化があるとはいえ、大枠の構造や発想自体は引き続き同じものであるように見える。

 

 母親との接触における最初の充足体験は、記憶に一つの記号として記入される。子どもはこれを再備給することで幻覚のなかで満足を再現しようとするが、完全な満足とはなり得ない。そこで今度は、記号同士の組み合わせによって最初の体験を再現しようとする。このとき記号はほかの記号と関係することでシニフィアンの地位を獲得する*1。ここでその記号はそれ自体の意味を失う。記号の表象(シニフィアン)は理解可能な痕跡として残るが、実際に満足を与えた部分は失われる。これが未知で不可解な部分として残る。この不透明な部分が〈もの〉das Dingである。「充足体験を再現しようとすることは、このdas Dingを取りもどそうとする努力である。」(『入門』)

 

欲動と享楽

欲動とは、自らの存在を持たない主体が対象物によって存在を得ようとする機制である。

 

『入門』P.241

 

 欲動はフロイトにおいては生物学的な本能の欲求のニュアンスを含む言葉だが、ラカンにおいてはそうではない。欲望が象徴界の導入によって起こる存在欠如に関わるのに対し、欲動は象徴界的な説明で解消できない、現実的なものである。生理的な興奮が一時的なものであるのに対し、欲動のそれは恒常的な圧力である。欲動の目的とは欲動の充足であるが、これは満たされることでおさまるようなものではない。

 欲動の満足を享楽と呼ぶ。欲動の直接的満足は近親相姦的欲望の満足を意味し、主体を母親のなかに飲み込ませるので、欲動は主体にとって危険な側面を持つ。

「主体の非存在は、人間が言語世界に入ることで自らの存在を失うことに原因がある。象徴界は主体を実体のないものとして生み出し、そこにある限り、主体は己の真の存在を見出し得ない。」つまり、享楽は不可能である。

 

無を隠す幻想のヴェール

 享楽は不可能であるが、主体は自らのすべての行動のモチーフである享楽の不可能性を認めることができない。享楽の不可能性を認めることは死を意味する。メランコリーでは自我は失われた対象の無に同一化し、終局的には自殺に至る。(『入門』P.254,246)

 

何もないところに何かを置き、その背後に何か実体的なものがあるかのような効果を得ることは、無から逃れるための人間の多くの活動に認められる手段である。

 

『入門』

 

 通常、不可能の場所を埋めるのは、〈父の名〉による禁止の法である。前述したように、不可能を禁止することで可能な領域が成立する。「禁止さえなければ享楽が得られるかのような考えを持つことができる」(『入門』P.255)。禁止は法に対する違反を誘う形で、享楽への欲望を可能にする。

 

 ラカンは、象徴的父の他にdas Dingの場を埋めるものとして、芸術作品と宮廷愛を取り上げている。芸術家は、創作によって父の名に代わるものを創り出し、無の場を埋める。宮廷愛において詩人は、das Dingのヴェールとして女性を芸術作品として創造する。恋愛において「女性は自らの無とdas Dingの無との一致を計り、自らの内部にdas Dingを含むような見せかけの存在となる」。

対象をdas Ding(物)の尊厳へと高揚すること、これがラカンによる昇華の定義である。

 

(『入門』P248)

 彼らは、das Dingへと高揚された対象物を通じて、欲望を可能にする。

対象a

 59年~60年のセミネール第七巻『精神分析の倫理』から70年代初頭に至るまで、〈もの〉に代わって対象aラカンの理論展開の中心となっている。(『入門』P.322,『人はみな妄想する』P.280)

対象aとは、失われたはずの〈もの〉もしくは享楽の、痕跡である。(『人はみな妄想する』P.280)ラカンは対象aにさまざまな機能を与えたが、欲望について語る際に重要になるのは対象aは欲望の対象=原因だという点である。対象aは主体の欲望を惹きつける対象というよりも、主体を欲望へと駆り立てる原因である。また、対象aは象徴的、想像的機能を持たない、"それ"としか言いようのない現実的な存在である廃棄物に相当するものとして扱われることもある。

 例えば、欲望される対象が女性であるとして、対象aはその女性ではなく、その女性を欲望させる何らかの要素、それも「それ」としか言いようのない(つまり、「顔が広瀬すずに似ている」とか「有名財閥の令嬢である」のような想像的・象徴的な要素ではない)捉えがたい要素「何かは分からないがあの人はほかの人とは違う!」である。この対象aはほかならぬ欲望の主体の視座によってはじめて機能しているのであって、その女性の客観的性質には帰せられない。

 

 「主体はシニフィアンの効果として生まれる存在欠如であって、シニフィアンの世界にある限り、自らの存在を見出すことはできない。そこで主体はシニフィアンの外部に位置する対象と関係を結び、それを通じて存在を得ようとする。欲動とは、そのような主体と対象aの関係を表して」いる。(『入門』P.357)

 

疎外と分離

 言語における意味は、シニフィアンの連鎖によって生み出される。「意味を生み出すシニフィアンの最小単位は、二つのシニフィアンの結びつきである」(『入門』P.362)。独立して機能するシニフィアンは存在しない。ここでは、主体は自らの同一化した単一のシニフィアンをただ繰り返す意味のない自閉的世界を構成するか、さもなければ他のシニフィアンによって換喩的に意味が与えられる世界を選ぶかしかない。そこでは主体は象徴化不可能な享楽を内包する部分を喪失する(『妄想する』P.289)。この往来を疎外と言う。

 疎外は象徴界との関係を表す。ここに留まる限り分析は終わらず、主体の存在欠如は解決不能である。シニフィアンと享楽は二律背反的であり、シニフィアンの領野に居つづけるかぎり、主体は享楽に到達できないが、仮に享楽に到達したとすれば、その到達は主体の死滅を意味する。(『妄想する』P.290)

 しかし、主体がかかわるのは象徴界だけではない。現実界がある。主体が象徴界から離れ、現実界に向かう過程を、ラカンは分離と呼んでいる。(『入門』P.364)「分離とは、主体と〈他者〉が双方に共通する空集合を仲介として結ばれることである。」(『入門』P.364)主体は自らの存在欠如だけでなく、〈他者〉の欠如を見出す。ここ(欠如の場a)に主体は他者の世界に埋没することから逃れ、自らの固有の場を見出す。

 芸術家は、創作物をaに置く。一般の人にとっては、自我が分離による主体の存在形式である。

 このようにして、原初の全体的な享楽は、aに局所化される。分離の操作によって獲得される享楽は、フロイトが部分欲動と呼んだものに相当する、部分的な享楽である(『妄想する』P.293)。

 

剰余享楽

 1969~1970年『精神分析の裏面』では享楽とシニフィアンの二律背反は退き、ラカンは両者の関係を考えるようになる(『妄想する』P.318)。主体はシニフィアンによって、完全な享楽を断念する代わりに、対象aを通して享楽を何度も反復することが可能になる。ここで獲得される享楽を剰余享楽と呼ぶ。症状は個々人特有のある種の享楽の方法であり、それがゆえに反復する。

 

〈一者〉

 1970年代に入ると、ラカンは対象aでも現実界(と享楽)を捉えるには不十分だと考えるようになる。代わって、言語との遭遇が残したものを〈一者〉と呼び、「性的関係はない」(欲望の可能性は幻想に支えられている)、「〈他者〉はいない」(〈他者〉の欠如)に対して「〈一者〉はある」とした。〈一者〉は反復現象の基となり、〈一者〉の享楽を形成する。

 ここにおいて、〈一者〉の享楽は、象徴界の裂け目に当たるもののように遡及的に措定されるのではなく、実在すると考えられる。これを優先させると、欲望は結局のところ二次的である。

 

まず〈一者〉の享楽があり、それを耐えられるものとするために〈他者〉を構築して、ファンタスムをつくり、そこから欲望を成立させ、その欲望を追求しながら人間は生きていくのだ。

 

『入門』P.394

 

 享楽がそのようなものである以上、解釈(≒言語化)によって症状を消し去ることはできない。精神分析終結は、そのような症状と「うまくやっていくこと」に位置づけられる。75年~76年のセミネールでは、ラカンは症状を言語的構造(S1→S2)から捉えるのではなく、享楽、現実的無意識(S1)から捉え、「サントーム」と呼ぶようになった。ミレールによればそこでは、サントームは「主体の真の固有の名」であり、各々の主体において異なる、特異的=単独的な享楽のモードが刻み込まれている。(『妄想する』P.375)患者が苦しむ症状は、患者自身の無意識において認められないままに享楽を追求するS1、もしくはトラウマである。それを患者が自分のものとして自らの人生を生きるための手段とすることができれば、その人は自分自身の本質的な部分を満足させて生きていけるはずである。(『入門』P.412)

 症状に固有の自閉的な部分をもちつつ、さまざまな対象や知識から自由に自分なりの大他者を発明し、それによって他者と別のしかたでつながることを可能にすること。これによって分析を終えることができる。(『妄想する』P.380)

 

症状は、創作によって終結する。

 

『人はみな妄想する』

 

 以上が、欲望を中心としてラカンを追った大まかな顛末である。最後には、「〈他者〉の欲望」が「〈一者〉の享楽」へと移し替えられることによって、〈他者〉に晒されていた主体は、自閉的な安定性をもって生きることが可能になっている。

 

ラカンを用いて

 ここからがこの記事の後半部である。ラカンを受けて話を進めよう。

ラカンの射程と真の問題

 先へ進むためにまず、ラカンの射程の限界を明らかにしておこう。精神分析精神分析であるためには踏み込むことが許されない部分がある。その限界は、精神分析の能力の限界であるというよりもむしろ、その限界こそがラカンの主張なのである。

 

 精神分析はそもそも、フロイトがヒステリーを中心とした精神疾患の治療に当たる中で作り上げた理論体系である。その点で精神分析の意義は、症状の治療に役に立つこと、患者の生活に支障をきたす症状と苦痛を取り除くことにある。しかしラカンにおいては、精神分析理論の発展が進む中で症状そのものがもたらす享楽が発見され、症状を取り除く意義が相対化される。同時に理論そのものにおいて、〈父の名〉を明るみに出し社会的価値観を相対化している。ここにおいて、精神分析は自分自身の足もとを掘り崩している。

 ラカン精神分析では、決して分析主体に生きるべき道を指し示したりはしない。それは医者や宗教家の仕事である。精神分析は、自らの生きる道を他者に求める者には、その態度を回心するよう暗に迫る。分析主体は分析の過程を経ることで結果的に他者の欠如を認め他者との分離を獲得する。しかし分離の獲得をあらかじめ明示的な目標として提示することは分析の役に立たない。なぜならそれ自身が暗示や主人の言説としてはたらいてしまうからである。

 

 このようなものであるから、精神分析理論から直接に進歩主義的な「理想の人間」を導出するのは越権行為である。人間は事実として母親の子宮から生まれ、言葉を学び、首尾よくいけば社会のなかで他者とかかわりながら自立していくものであるが、そのような事実から「人間はそのようにあるべきだ」は直ちには導かれない。精神分析家がそのように主張する場合、そこでは社会的通念から密輸入した言説を権威ある者として代弁している。これでは分析主体に新たな暗示を与え、〈他者〉から分離するどころかより〈他者〉への依存を深めてしまうことになる。精神分析を理論的基礎とした何らかの信念を持っていたとして、それを口にすることは言表行為として自己矛盾する。

 つまり、ラカンに「いかに生きるべきか?」と問うのはお門違いであるし、ラカンの理論からそれを導いて公表することもまた間違っている。精神分析理論を学んだからと言って、精神分析の過程が完了することにはならないし、分析の理論を先取りして、「欲望をあきらめるな」と自分に向かって命令するようではおかしいのである。ラカンが示すのは次のことである。「いかに生きるべきか?」という問いは〈父の名〉に対して要求を要求する行為であり、そして、〈他者〉は欠如していてこの問いに完全には答えることはできない。他者の欠如が導く真の問題は、私の欲望から幻想を除いた部分、欲動である。そこから先は〈他者〉なしで往かなければならない。

 

欲望と欲動の関係

 主体がラカンを通して自身の欲望に言及するとき、ほとんどの欲望はこの自己言及に耐えることができない。なぜなら、欲望はそれが満たされる可能性に向かうのであって、ラカンはその不可能性を突きつけるからである。欲望は多くの場合、それに対する無知がその条件である。

 また、欲望に欲動と享楽を対置するとき、欲望と欲動の間にはギャップが生まれる。欲望の対象は運動の目指す目的地であるのに対し、欲動の対象は運動そのものである。欲望は欲動に基づく機能主義的な説明を為されることでその真剣な自己目的性を失う。完全に欲望の中に生きる主体はそれ自体不可能なもの(「欲望することの欲望」の不可能性とでも言うべきか)である。この場合、欲望は満たされないばかりか、欲望することそのものすら宙ぶらりんになる。

 

 第一に問題となるのは、主体が自身の欲動からなる症状もしくはサントームに同一化することはいかにして可能かということだが、ここではこれには立ち入らない。現実的なものの引き受けと同一化は、「腑に落ちる」という感覚とともに常に既にそうであったものにたいして起こるのだが、そこで起きている内的な過程は、ポランニーの暗黙知と同様に説明不可能と思われるからである。

 

 欲動の満足は具体的な欲望を介さない(あるいは不適切な欲望を介す)場合に、苦痛を(その苦痛が享楽を提供するのであるが)もたらす。例えば、具体的な食べ物への欲望なしに食べ続けるとすれば、それはまさに症状である。そこでは、何らかの適切な欲望があてがわれる、つまり、〈一者〉の享楽と言っても完全に自閉的な享楽ではなく、象徴界との何らかのつながりが持たれる必要があるように思われる。

 私がここで取り上げたい問題は、この"適切な欲望"と欲動の主体はいかにして両立しうるかである。例えば、市民ランナーにとって走ることそのものが享楽であり、2週間後のレースでの目標タイムは単なる視界の染みに過ぎない。これは問題ない。しかし、同じことがほかの場合についても言えるだろうか?愛することそのものが享楽であって、それ抜きの愛の対象は実のところ単なる屑である。革命運動そのものが享楽であり、実際の社会変革の内容は実のところ重要ではない……。これは倫理的に問題ではないのか?ここでは愛や革命に対する真摯さという自己意識は享楽のためのナルシシズムな欺瞞として説明されてしまう。もっと詳しく見ていこう。

 

愛と宮廷愛

 せっかくなのでラカンの例から引こう。中世の吟遊詩人の運動に、宮廷愛というものがある。詩人は、身分の離れた近寄りがたい宮廷の貴婦人に愛の詩を贈る。詩のなかで婦人の姿は到達しえない理想の領域にあり、非人間的に描かれる。詩人は婦人の気ままに従い、奴隷になることに喜びを見出す。(『入門』P.247)

 詩人の愛は、愛の対象ではなくその対象への到達が禁止されていることによってこそ支えられている。欲望しそれが手に入らない状態に詩人の享楽がある(ここでは「性関係はない」(不可能性)が禁止によって隠蔽されている)。ここで詩人は、自分の享楽の在り処、手に入らない状態を楽しんでいることを知ってはいけない。これを知ってしまうと、詩人は途端に自分の愛がとんでもない自慰的なものだったことに気がついてしまう。

 宮廷愛において詩人が対象を〈物〉の次元まで高揚するとき、彼が愛しているのはその婦人の人格や見た目や…ではない。その婦人自体のなんらかの性質ではない(実際「その婦人自体」のようなものはない。見かけの奥には何もない)。このとき、宮廷愛の本質はその構造であって、愛の対象は偶然的で交換可能である。

 愛する対象の人は、ラカンに言わせれば、見せかけの見せかけである。つまり、その先に何かを隠しているかのように見せかけているような見せかけである。その見せかけとしての幻想の向こう側に愛すべき核は存在しない。「真実の愛」は不可能の座にある(性関係はない)。

 

 さて、愛という幻想を横断してもなお愛は可能であろうか?

 

 例えば、「君が死んで違う人に生まれ変わったとしても君のことを愛する」という文句がある。このようなパトローギッシュな動機を削ぎ落して逆説によって愛を表明する方法がここで示すのは、対象の性質のすべてが無くなっても何らかの愛の対象、対象aが残るということである。ここでもう一歩進んで、そのような対象aは端的にないのだということを認めたとしよう。そこでもなお愛があるとするなら、それは非人間的で不条理な愛となる。「私が本当は愛していないとしても私は愛する」。幻想を取り払っても残る残余、それは不死の現実界、ゾンビのようなものだ。その愛はそれでもその人を愛すると主張する。このような外傷的で象徴化不可能な愛こそが、愛の幻想によって防衛しなければならないもう一つの〈現実界〉ではないだろうか。

 主体がこの愛に同一化するに至るならば、あらゆる問題は主体とともに滅びることになる。しかしこの同一化は望んでできるものでも、避けようと思って避けられるものでもない。ここにはもはや選択の余地はなく、語るべきこともない。

 

革命

 欲望を達成するのを阻むように見える障害は、しばしば欲望の原因そのものである。つまり、欲望を構成する対象aは、障害の向こう側の欲望の対象ではなくその手前の障害そのものである。そして、障害の向こう側に見える対象は、ほかならぬその障害によって起きている幻視である。

 ジジェクが言うには、共産主義革命の夢もまたそれと同じ物を抱えている。

 

youtu.be

 

 このジジェクの指摘は、革命の不可能性よりもむしろ、革命が裏切られることの必然性を物語っているように聞こえる。「資本主義抜き資本主義」としての共産主義の生産体制は、資本制生産の生産力を引き継ぐどころか、その大崩壊を招く……。しかし、ラカンを引くだけでは、共産主義の不可能性を示すことはできない。

 ここで、欲求・要求・欲望の三つ組を使って考えてみよう。

 革命が単に要求として(つまり、諸国民の経済的要求あるいは認知の要求等々から)為される場合、それは欲求との剥離を生む。共産主義体制が要求をすべて達成したとしても、「これじゃない!」という拒絶に遭うだろう。すべての欲求を要求を通じて満たそうとすれば、体制は際限のない自己改革を迫られ、しまいには赤ん坊が授乳を拒否するようにして、国民は体制に対して純粋な拒否を示すことで主体を示そうとするだろう。ここに共産主義体制が存続することはできない。革命によって新たな秩序を創り出すためには、要求だけでは足りないのである。

 革命が欲望として為される場合、欲望は常に象徴化不可能な残余を残す。つまりその欲望を新しい象徴的秩序(国家や党)に組み込むことができない。革命の情熱は象徴的秩序に裏切られて新たな抑圧を甘受するか、あるいは象徴的秩序を破滅させてしまう。

 

 では革命の運動そのものが欲動を目的として為される場合どうなるだろう?活動家にとって革命運動そのものが享楽の対象であり、実際の革命は実のところ重要ではないとするなら、ここでは革命は自慰的な手段に落ちぶれており、崇高な目的性を失っている。この場合、革命運動そのものを明示的なイデオロギーとして自己目的化することで整合性はとれる。つまり、革命下の人間をこそ人間の理想とするのである。そこでは、当初の革命の崇高な目的は完全に廃棄されてしまうが、欲動の過程そのものが新たな崇高な目的として据えられる。革命のための革命、反乱のための反乱、破壊のための破壊、団結のための団結!ここではファシズムに大きく近づくことになる。そこでは運動から剰余享楽を得ることによって、運動そのものが再生産される。

 

真理と知と謎

 真理と知と謎を追う主体を巡って、ラカンによる説明は3つあるように見える。

 第一は、謎が対象aとして、象徴界の裂け目として欲望の対象=原因を担う。主体は、到達不可能なものとしての真理に、象徴を通して迫ろうとする。

 第二は、恐ろしい現実界としての真理(去勢)と、その隠蔽のための知(去勢の否認)である。ハイデガー存在忘却に当たるもので、謎は知の裂け目として答えを要求するが、主体は回帰する真理にたいして、知識によって説明を図り、象徴によって現実界を飼いならそうとする。

 第三では、主体は真理と謎を巡る苦悩そのものから剰余享楽を得る。剰余享楽の維持のために真理への到達を先延ばしにする。

 

 第一の学者は、欲望の実現不可能性に気づいたときに欲望の支えを失ってしまう。欲望の支えは、幻想に基づく不可能性の隠蔽=可能性だからである。

 第二の学者もまた、知が完全であり得ないことに気づいたとき、あるいは能力の面で知の営みが不可能になった時、現実界からの回帰に耐えられなくなって発狂してしまう。彼にとって知は主体の支えとして主体と他者の欠如の場所aに置かれるものだからである。

 第三の学者は、欲望の実現不可能性を否認するが、無意識には嬉々として受け入れる。なぜなら、真理に到達できないなら永遠に謎と戯れることができるからである。ただし、その戯れは自己認識によって空虚化してしまう。彼は享楽を得るために自分に苦悩を課する。幸いなことに謎は尽きることがないため、彼は謎を解き続けることができ、そこで知が生産される。しかし、彼が価値とするのは生産物としての知ではなく、謎との苦闘である。

 

主体固有の欲動という対象a

 幻想が廃棄されるとき、その欲望を存続させうるのは欲動の承認であり、ある種の開き直りである。私が欲しいのはこれだ!と正しく言えるとき、人は己の固有の欲動に向かうことができる。ここでは幻想に基づいた欲望の目的であった生産物は、副産物の座に落ちる。生産物は、排泄物のような〈他者〉への贈り物である。

 

 私は本当は何を欲しているのか?という問題を単に欲望の対象として捉えてしまうと、「本当に欲しいもの」という対象aを追う、自分探しの旅に出る羽目になってしまう。

 我々はいかにして固有の欲動に近づくことができるのだろうか?〈一者〉の享楽を巡る言説は、それまでのラカンからは大きく転回して見える。まかり間違えば去勢の否認、「人間の生来の本質」なるものに繋がってしまう。固有の欲動を探し回ろうとすること自体が、存在欠如の否認ではないのか。ここでの問題は、前々回述べた失楽園神話を巡る二項対立である。この対立はデッドロックになっていた。

 しかしラカンの議論を通すことで、我々は新たな視座を得ている。ここで我々は、すでにこの探求によって欲動の満足を得ていることを認識すべきなのである。このとき我々は、それを欲することによって常に既にそれを得ていることに気づく。ここに、狂気的な欲動、人間に生まれ持って与えられる特異的な性向なるものへの同一化以前に、また同時に失楽園後の絶望的な生とも異なる、人間が根本的に満足しながら生きられるような、人間的な道があるように思われる。

 欲することによって、常に既にという形でそれを得る。いささか唐突であるが、この形式は論語述而第七-29「我欲仁,斯仁至矣。」に現れているように思われる。次回はこれについて論じ、欲望の不満足によって動力を得る構造からの脱出を試みる。これが成功すれば、空虚な消費主義への対抗の正当な位置が明らかになるであろう。

*1:記号とシニフィアンの違いは次のようなものである。記号は、特定の意味を内在する。シニフィアンは意味(シニフィエ)から独立して存在し、ほかのシニフィアンとの関係において意味が与えられる。ラカンによれば「記号はシニフィアンシニフィエが癒着したもの」である。