生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

参政党現象に警戒せよ!――なぜ参政党は民主主義的解放をもたらし得ないか

 2022年7月10日、第26回参議院議員通常選挙の投開票が行われた。新興政党である参政党は、比例区で3.3%を得票し、1議席を得た。同党は、コミュニティ・オーガナイジングの手法やインターネットおよびSNSを駆使し、メディアや既存政党からはノーマークの状態から、突如として国政政党と相成った。

 参政党について、宗教団体との関係や陰謀論似非科学の浸透を問題視する声もあるが、ここではそれは取り上げない。参政党が単なるオカルト集団として勢力を拡大させるならば、まだ対抗のしようがある。私が参政党を警戒する理由は、それが民主的な保守共同体主義を志向し、「フランス革命抜きの民主主義」を体現することで、真の民主的解放の可能性を葬り去ってしまいうるからである。

参政党の活動とその特徴

 参政党の活動様態は、一言で表せばれいわ新選組の二匹目のドジョウを狙うものである。とはいえ、それは単なる愚かな追従者ではない。むしろ、参政党のスタイルは十分に洗練されている。山本太郎一人に支えられているれいわ新選組とは違い、「ボードメンバー」と呼ばれる5人の多頭政治となっており、地方組織においても、無手勝流ではなくて、実績のある組織化技術を取り入れている。

 参政党の政治的主張は平凡な保守右翼そのものであり、ここで特筆すべきものはない。確かにトンデモが含まれるが、日本の保守右翼にトンデモはつきものであるから、それはやはり平凡なのである。平凡な保守的な人々が集まって頭を凝らせば、たいがい似たような政策集ができるはずである。

 これまでの右翼政党と異なっているのは、その政策同意プロセスが民主主義の形式において演じられていることにある。つまり、リーダー格が決めたイデオロギーが先にあり、そのもとに結集あるいは動員するというよりも、アンチ既存政党からともかく結集し、理念を形成していく過程に参加してもらう、参加型の政党という見た目なのである。

 このような参加型政党の何が問題なのだろうか。日本に住む人々が、自分たちで組織し、自分たちで理念と政策をつくり、自分たちで行動して政治に関わることは、全く問題がないどころか理想的な政治形態に見える。もちろん、実際には裏で操っている人間がいるのかもしれないが、しかしそれを抜きにしても、ここでは一つのことが見落とされ、あるいは排除されている。

否定性の契機

 参政党に決定的に欠けているのは、民主主義のもつ否定性の契機、既存の特権を全て無に帰してしまう、革命の契機である。

 そもそもフランス革命は、「対話」や「合意」などという生易しいものではなかった。対話と合意から排除された人々が暴力的にそれを要求し、襲撃と戦闘があり、処刑があり、虐殺があり、最終的にはロベスピエールによる恐怖政治と、ロベスピエール自身の死が結末を与えた。しかし重要なのは、これらの契機を経なければこんにちの民主主義も、「自由・平等・友愛」のスローガンも存在しえなかったことである。

 革命下のフランスでは、誰もがある日突然死にえた。国王ですら例外ではなくなった。あらゆる特権が危険にさらされ、反革命の名の下で処刑と虐殺が行われ、特権無き人々もまた衝突と戦闘のなかで死んだ。処刑人すら自身の処刑を免れなかった。この無条件の暴力性こそが、アンシャンレジームを破壊し、人権と平等の空間を開いたのだ。こうした否定性の契機が不徹底な体制変動は、しょせん新たな特権をつくるだけである。そしてやはりフランス革命も、恐怖政治が終わり、ブルジョワや土地を得た農民が安定を求めた時、ナポレオン帝政に落ち込んでいった。

参政党とれいわ新選組

 参政党には、フランス革命のような歴史の切断点となる要素がない。むしろ、その活動は既存の社会でのそれぞれのアイデンティティを尊重し、それらの特権同士をすり合わせるというプロセスでしかない。それは必然的に、既存の社会の地位や立場を代弁するものとなり、保守共同体主義に帰結する。彼らは永久に様々な立場の間の意見調整のゲームに明け暮れることになろうが、そこには民主的解放はない。

 れいわ新選組と参政党の支持層が重複していると分析されることがあるが、両党を決定的に隔てる線があるとすれば、この否定性の契機の有無にあると思う。参政党は、名と財と善を持つ者たちの運動だが、れいわ新選組は名も財も持たず、社会善から排除された者たちの運動である。氷河期世代や、重度障害や性的マイノリティなどの人々は、長らく社会善から見放されてきたのであり、彼らの権利を認めさせる闘いは、必然的に既存の社会的価値観を無化する闘いである。

具体的普遍、抽象的普遍、もう一度具体的普遍

 さてここで、保守的な特権の主張と、マイノリティの権利(こちらも「特権」と侮蔑的に表現されることがある)の主張のあいだにある違いが重要になってくる。一見これは両方とも、ある特殊な人々の具体的な権利を主張している、同じレベルの存在に見える。そしてこれらの衝突は、対称的で相互に交換可能な闘いに見える。しかしそうではない。

 まず、保守的な特権はそれ自身を根拠として自己措定する。「私は偉い。なぜなら私は偉いからだ」。これは、革命の否定性によって根こそぎ否定される。革命が代わりに打ち立てるのは、「自由・平等・友愛」や人権などの抽象的な理念である。

 しかし理念は、そのままでは絵に描いた餅に過ぎない。理念に反する現実が存在するとき、理念が現実の具体的な属性に受肉する瞬間がある。例えば、Black Lives Matter運動がそうである。「黒人」という具体的な属性は、このとき平等と人権という抽象的普遍を受肉しているのであり、黒人のために闘うことこそが平等と人権のために闘うことになるような状況となっているのである。これが、All Lives MatterではなくBlack Lives Matterと言わなければならない理由である。All Lives Matterは単なる抽象的な理念に留まるものなのである。

 重度障がい者や性的マイノリティのための闘いも同様に、抽象的理念を受肉し闘いであるである。保守的な特権の要求と抽象的普遍に支えられた具体的権利の要求は、かくのごとくして異なるものなのである。

 

 選挙が終わると毎回、左派政党にたいして「右派へのウイングを広げたほうがいい」などという意見が飛び交う。れいわ新選組にたいしても、様々な提案や要望がされている。しかし、この否定性の次元を手放すべきではない。なぜならここが、保守政党との決定的な断絶の点だからである。この点からして、参政党はまごうことなき保守政党であり、民主的解放を実現しえない。どれだけ政策的親和性があろうとも、どれだけ民主的な意志決定が行われていようとも、れいわ新選組及び左派政党は参政党と一線を画すべきであり、積極的に対立していく必要がある。なぜなら、保守共同体主義の目的は、歴史の切断点を葬り去ってしまうことであり、それは革新勢力の存在の根拠を失わせてしまうものだからである。