生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

1.創発(1) 必然と偶然

 この章では、複数の微視的な相互作用から新たな巨視的構造が発生する「創発」について、生命の誕生と絡めながら明らかにする。問題を腑分けして創発の最小単位を解明し、人間の存在には何の超常的力も必要ないことを明らかにする。

 

 「創発」はしばしばデカルトの機械論的世界観に対抗する生気論的な文脈から語られるが、私は創発について神秘的な力を認めることはしたくない。やはりそれは科学の原則から踏み外すことになるからだ。創発は、あくまでデカルト的世界観のなかから、自然法則の必然性から、自己運動する構造が生成されることとして理解するよう努めるべきである。我々の身体は何一つとして幾何学的な自然法則から免れることはないが、その上で、自発性と自律性をもって活動しているのだから。もとより、物理法則をひとつでも侵すことが可能ならば、宇宙は存在できなくなってしまうだろう。

 

 まずはじめに、基本となるいくつかの考え方を提示したい。これらのテーマは、今後複数の段階にわたって何度も登場する。というのもこれらは、創発の過程に深く関わるからである。

 

必然と偶然

 序論で書いたように、我々はまず因果的必然性のなかから偶然的で多様な現象が発現することを示さなければならない。さもなければ、我々の存在を説明するために必ずや神秘の力を借りる羽目になる。この節では、必然と偶然の関係を明らかにし、その両者が絶対的にこの世界に存在していることを主張する。

必然性:機械論的決定論の世界

 因果律は、世界のもっとも基本的な原理であり、人間の認知の基本的な枠組みでもある。あらゆる結果にはそれを必然とする原因があり、なにものも原因なく現われたりはしない。神秘主義者もまた、因果律の考え方に囚われている。彼らが主張するのは、ある結果の原因として不可知の神秘的な力が働いているということであって、「何の理由もなく」物事が生起するということではない。

 因果律の考え方を徹底することで、機械論的決定論の世界観が生まれる。機械論的世界観は近代科学の基礎であり、今日最も力を持った考え方である。

 

 さて、機械論的決定論の世界では、あらゆる物事が原因に厳密に従って起こるので、初期条件を完璧に知ることができれば、未来に起きるすべての出来事を予見することができる(ラプラスの悪魔)。つまり、何が起きるかはすべて一番初めの原因が決まった段階で決まる。これが決定論と言われるゆえんである。

 

 機械論的決定論に、科学的に反論するのは極めて難しい。なぜなら科学そのものが、機械論的な因果律の考え方に拠っているからである。したがって、機械論的決定論を覆す科学は、つねに科学の枠組みそのものに対して挑戦してきた。しかし、その多くが成功したとは言えず、科学は依然として機械論的な態度を保ち続けている。

 

偶然性:確率と統計の世界

 機械論的決定論の必然の世界に対して、確率と統計で表される世界がある。例えば、サイコロを振ってどの目が出るかは、厳密にはサイコロが手から離れた瞬間に物理法則の必然性によって決まるのだが、実際には「六分の一の確率」と表現するほうが適当である。

 

 科学は、機械論的決定論だけでなく、確率と統計の世界も扱うのだが、確率と統計を扱う理由は大きく二つに分かれる。まず第一は、原因や因果の流れを厳密に捉えるのが難しいことから、本当は機械論的必然に従うものを確率として扱う場合。このような考え方における偶然を、不可知論としての偶然と呼ぼう。第二は、現実が本当に確率的な存在のしかたをしている場合である。これは実体の性質としての、真の偶然である。

 

 不可知論としての偶然には、複雑系科学におけるカオス理論をはじめとした、十分に複雑な機械論的必然が連鎖した系の振る舞いが含まれる。天気予報における降水確率や、サイコロの目の出る確率もこの不可知論としての偶然である。天気は、複雑な物理現象の連鎖によって決まり、そこでは何一つ因果的必然性を破るものはないのだが、現象が複雑すぎるために予測することが難しい。そこで、偶然的なものの確率として、「降水確率10%」などと予測するのである。ここでの偶然性は、〈物自体〉としての決定論的世界に対する、不完全な人間の認識が見せる現象であるとも言える。

 

 実体の性質としての真の偶然とは、ハイゼンベルクのものとして知られる不確定性原理が示す事実である。現実の実体の最小単位である素粒子は、不可知論的偶然のように測定や予測によってその振る舞いを確定できないというのではなく、実際に確率的な振る舞いをする存在なのである

 この確率的な実体という性質によって、「トンネル効果」やミクロレベルでの力の伝達("仮想粒子"による)が可能になっている。粒子の持つ確率的性質が、必然性を隠し持っている不可知論的な偶然ならば、そこにある壁をすり抜けたりすることはできない。

 このような不確定な存在が我々の現実の根幹を成しているということには、いささか不安を覚えることだろう。しかし、量子的な不確定性があるからといって、人間が壁をすり抜けたり、巨象が突然部屋に現れたり、生きていてかつ死んでいるリビングデッドの猫が作り出せたりするわけではない。それはのちに述べるように、偶然性が必然性を構成するからである。

 

必然から偶然へ・機械論的必然から確率の世界へ

 必然と偶然は、適切な処理によって相互に変換して扱うことが、科学的に正当化できる。まずは、必然から偶然への変換を考えてみよう。

 

 機械論的決定論に従う系を確率の系として扱うものとして、既にふれたサイコロが挙げられる。サイコロは厳密に物理法則に従うから、理論的には、サイコロが手から離れた瞬間に出る目を予測することができるし、サイコロの振り方で出る目を操作することもできる。しかし、サイコロを投げた時の運動量から出る目を導き出す計算は非常に難しく、現実的ではない。また、近似的な計算も役に立たない。場合によっては少しの誤差がサイコロに全く異なる挙動をさせるからである。

 このサイコロの物理的挙動のような、必然性に厳密に従うが近似的な予測すら不可能なものに対する考え方は、決定論的カオスとして理論化されている。代表的な例には、「三重振り子」がある。場合によってはかなりの程度単純な方程式からでも、カオスを導き出すことができる。

 決定論的カオスとして振る舞う系のある時点における状態を初期条件から予測するには、無限の精度が必要になる。我々は無限の精度を扱う技術を持たないから、現象自体は機械論的必然であっても、結果は神のみぞ知るところとなる。決定論的カオスは、前節で挙げた不可知論としての偶然を説明する理論である。

 決定論的カオスの意義の一つは、ほぼ同一の対象・状況から多様さが発現することを説明できる点にある。初期条件としての現実におけるわずかな揺らぎによって、その揺らぎの程度をはるかに上回る多様な結果が現われるのである。

 さらに、偶然は伝播する。ある要素Aが偶然に委ねられている場合、因果的にAによって導かれるBもまた偶然に委ねられることになる。これらのことから、機械論的な因果的必然性を追うことで現実を予測しようとする試みは、非常に心もとないものに見えてくる。世界は因果的必然によって構成されているが、そこには偶然が溢れているのである。

 

偶然から必然へ・確率の世界から機械的因果の世界へ

 では、世界のすべては確率的であり、必然的な未来を知ることはできないのだろうか?もしそうであれば、あらゆる技術は成り立たないことになる。

 不可知を知り、偶然を予測することは、可能である。例えば、サイコロの出る目は偶然に委ねられており、一回一回の出目を予測することはできないが、「サイコロのそれぞれの目の出る確率は、六分の一である」と言うことはできる。そしてそれは、科学として語るに十分な確実性・必然性を持つ。

 水分子の熱運動について考えてみよう。個々の分子のもつ熱エネルギーに比例するランダムな(偶然的な)熱運動を捉えて予測することは難しく、また無益でもある。ところで、これらのランダムな熱運動は、水の温度として示すことができる。水の温度は、沸点や水溶液の飽和量などの必然を説明する。標準気圧下で水の沸点は必ず100℃である。一つの分子に着目したときはその保有エネルギーを示す以外に意味のないランダムな運動は、水という液体のさまざまな必然としての性質をつくりだしている。そして私たちは、水分子のランダムな熱運動を相手にすることなく、物質の性質としての必然性によって様々な便益を得ることができる。

 

 上の二つの例、サイコロと水は、不可知論としての偶然を必然性として扱うことのできる例である。これ自体は、さして特別なことでも、興味を引くことでもない当たり前なことだろう。より興味深いのは、素粒子の世界における実在としての偶然性・不確実性が、エネルギー保存則という必然のために果たす役割である。素粒子の世界では、力の伝達はゲージ粒子という素粒子によって行われている。その際、不確定性原理が関わってくるのだ。

 例として、電磁気力の働きを見てみよう。電磁気力は、「仮想光子」の交換によって起こる。この仮想光子は、不確定性原理によるもので、短時間であればあるほど大きな運動量を媒介できる。光子の速度は光速度で有限なので、伝達する距離が短いほど強い力がはたらく。

 電荷をもった粒子は、仮想光子を生成することができる。しかし仮想光子によって運動量を伝達するには、それを受け取る相手がいなければならない。相手がいない場合、仮想光子を再び自分で受け取ることになり、収支はゼロとなる。このときこの粒子は、「仮想光子をお手玉」していると言ったりする。この「お手玉」によって、荷電粒子は空間をまたいで常に運動量の伝達先を探しつつ、伝達先があればエネルギー保存則に従って運動量を伝達し、伝達先がない時も粒子の運動量を保存することができる。*1

 もしも仮想光子のふるまいの不確定性が、不確定性原理ではなく我々の認識の限界による見かけのものであったとすると、距離や障害物を隔てた電磁気力の作用の説明がつかなくなるはずである。不確定性原理による素粒子の不確定性が、エネルギー保存則という因果的必然の基盤を支えているのである。

 量子力学を引き合いに出した自己啓発やスピリチュアルの与太話がよくあるが、現実はそのように量子レベルでの不確定性が我々の現実に影響を及ぼしたり、機械論的因果を破ったりすることはない。それはスケールの問題として数学的に解くことができるし*2統計力学エントロピーと同様に、それぞれの素粒子の不確定性を相殺し、「場合の数」によって全体の状態を安定させることも考えられる。前者は物体そのものを粒子/波として捉えるやり方で、後者は物体を構成するそれぞれの素粒子の不確定性を考えるやり方である。このようにして、根源的な偶然性は必然性に丸め込むことができるのだ。

 

 

 以上のような必然と偶然の関係――宇宙を支配しているのは必然性か偶然性か――からは、偶然性の程度問題という短絡的な結論を導いてはならない。必然性と偶然性は、ともに絶対的なものである。いかなる偶然性も適切な視座からなら必然性に丸め込むことができるが、と同時に、いかなる必然性も偶然性を孕む。なぜなら、究極的には、不確定性原理によって確率的に発生するごくごくわずかなズレでさえ、決定論的カオスが機能するのに十分だからである。

 そういうわけで我々の世界は、その還元論的な根源は原理的に不確定性をもち、にもかかわらず因果的必然に厳密に従い……そして、明日の天気すら分からない、そういう世界なのだ。

*1:量子論素粒子物理学の専門的教育をうけたわけではないから、ここの記述は正確でないかもしれない。

*2:【理工学部 場の量子論・素粒子論研究室 / 三角樹弘 准教授】物理学で見るミクロとマクロ 〜量子論と相対論の世界〜 - YouTube

 36:50~41:00のあたりで、不確定性原理とスケールの関係を数学的に示している。原子レベルでは不確定性関係は無視できないが、質量の大きい日常生活レベルのスケールでは、不確定性関係は限りなく小さい速度(あるいは位置、エネルギー)の違いとしてしか現れない。