生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

緊急記事:「白紙革命」の革命史における歴史的意義と重要性

 新疆ウイグル自治区ウルムチにおけるコロナロックダウン中の住宅火災をきっかけに、上海をはじめとした中国の多くの地域で、また国外で、中国人による抗議運動が広がっている。この一連の抗議運動は、中国共産党習近平体制によるいわゆる「ゼロコロナ政策」による過酷な都市封鎖に対してだけでなく、その事実上の独裁体制にたいする反体制運動の文脈をも含んだ、マルチ・イシューな革命運動になりつつある。

 反体制的な言論に対する弾圧が恒常的に行われて来た中国において、何も書いていない真っ白な紙がこの一連の運動の象徴の一つとなっており、すでに「#白紙革命」「#A4Revolution」といったタグがこの運動を指し示すものとして使われている。

 言論弾圧に対する抗議にとして白紙が用いられるのは、すでにウクライナ侵略に対するロシア国内での抗議で散見された。「ただ立っているだけで」広場から連行されるロシア市民の姿は、プーチン体制下ロシアの抑圧を表す喜悲劇的な一場面として報道された。

 しかし、白紙、この「何もないこと」が革命運動のシニフィアンとして使われることは、今回の中国における運動の爆発が歴史上はじめてのことだと思われる。そこには、革命史的な意義と重要性がある。

 

 歴史上、あらゆる革命運動は、何かしらの宗教、思想、理念、目的によって結集軸を作ってきた。彼らは、体制に対して異なる体制を措定しようと試みるのである。そして、まさにそのことによって、その運動の中心点がアキレス腱となり、ある革命は新たな弾圧体制へと転化し、ある革命は敗北して消えていった。これは、大文字の理念の持つ必然的な宿命と言える。

 68年5月革命を最後に大文字の歴史とともに大文字の革命が解体されると、もはや理念が先行する革命運動は大国の間では見られなくなり、体制の抑圧や理不尽に対するリアクティブなカウンター運動が主流になっていく。その中で革命運動は、マジョリティのマジョリティ性を脱構築することのないマイノリティ運動へと後退し、そしてしまいには特定の集団の権益を巡る抗争に落ちぶれてしまう。一部の女性運動における異常なまでのトランス差別はこの一例である。他方、非列強国の各地での命がけの民主化運動は、今日に至るまで東西冷戦の構図のなかに位置づけられ、その革命的な文脈は希釈され、黙殺されている。そしてよしんば体制転換に成功したとしても、やはり新たな個人崇拝と腐敗が待っている。

 

 なにか形あるものを拠り所とする限り、まさにそれが運動の弱点となり、腐敗のはじまりとなる。従って、真に歴史の決着をする革命が起きるとすれば、それは「無」のために起きなければならない。存在の無、主体の持つ絶対的否定性、バラされた主体によって。

 マルクス=レーニンによるプロレタリア革命は、まさにその「何者でもない者」による歴史の終焉を展望した理論である。もっとも、マルクス=レーニン主義は、プロレタリアートを物象化してしまい、その何者でもなさを貫徹できなかったために、抑圧的なソビエトに帰着した。

 ファシズム運動もまた、ある種の虚無を抱えた運動である。彼らのシンボル、目的、標語には究極的な意味はなく、彼らの目的はたんに支配のための支配である。しかし彼らは、意味のないはずのシンボルの存在によって、崇拝を生み出し、文脈を生み出し、意味を生み出してしまった。そのために、虚無主義を貫徹できず右翼的な共同体主義と結びつき、ナチズムをはじめとした醜悪な帰結を得たのである。

 この意味で、「白紙革命」は、そこに何も書いていないまさにそのことによって、格別の意義を持つ。白紙は、歴史から消された人々、沈黙を強いられ亡き者にされる人々、いないことになっている人々すべての象徴であり、それ自身何者でもないもの=白紙が、「何者でもない者」を象徴しているという、シニフィアンにおいてもシニフィエにおいても無であるような、象徴である。

 また、この「白紙」は、考えられて作られ措定されたシンボルではない。むしろ、弾圧によって言葉を奪われ、何も主張できない無力な状況を、ヘーゲル的な逆説でもって絶対的な反撃の契機としたのである。これによって、白紙は本当に白紙にふさわしいシンボルとなったのだ。

 私は、この「白紙革命」が2020年代以降の革命運動全般を規定するべきだと確信している。これは、人類史の本当の終わりのはじまりになるかもしれない革命である。「白紙革命」を単なる中国人の騒乱に帰すのではなく、世界史的な意義として捉え、まさにそのことによって遂行的に世界史的な意義を与えることで、これは世界的な革命の第一歩になりうるのであり、それ以外の方法でこの革命を成功させることはできない。なぜなら、革命史に見え隠れする絶対的否定性の領域なしには、この運動もまた新たなナショナリズムや派閥政治を引き起こすのみに終わってしまうからである。

 

「      よ!団結せよ!」