生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

マルクス主義よ、もういちど!

 我々は今まさに時代の転換点に、最後の転換点にいる。この国を取り巻く多くの問題(少子高齢化、経済の停滞と衰退、国際関係や外交問題地球温暖化など)は、この先5年のうちに解決の展望が見れなければ、日本の決定的かつ半永続的な衰退をもたらすだろう。当然、人々の暮らしは惨憺たるものとなり、人心は荒廃する。

 危機が叫ばれるのはいつの時代も変わらないが、今日では警鐘をオオカミ少年呼ばわりすること自体が、心理的な防衛のための否認と抑圧の戦略ではないだろうか。例えば、少子高齢化はもう50年来の問題だが、行政の楽観的予測と無能さによって、とうとう今日まで解決されることがなかった。地球温暖化は世界的に喫緊の課題として認知されている。問題があることは誰もが知っている。だが誰もそれを信じていないのだ。

 しかし、我々が現実から目を背けたとしても、現実のほうは構わずやってくるものだ。生活はじわじわと苦しくなっていく。データを客観的に見ても、実質賃金は緩やかな低下傾向にある。人々の心は着実に追い詰められている。

 このような状況では、否認・抑圧している苦しみの原因が他者に投影され、排外主義や差別主義となって現れる。1930年代のナチズムの台頭と反ユダヤ主義は典型的な例である。現在の日本においてこれは、排外主義、世代間対立、性差別として現れ、保守右翼反動勢力の台頭に結び付いている。

 

 我々――反動と対決し、真の問題解決と前進を望む者たち――の為すべきことは、この心理的な防衛を打ち砕き、人々を現実に直面させることである。つまり、真の問題は押し寄せる外国人や、世代間の対立や、過激なフェミニストたちの騒ぎにあるのではなく、社会の内在的な構成要素である対立と矛盾にあるということを、誰の目にも明らかにすることである。「民族対立」「世代間格差」「過激なフェミニズムと哀れな男たち」は真実の範疇ではなく、それら誤った観念すべてに対して「階級対立」が置かれるべきなのだ。

 ジジェクが説くマルクスによる「症候」の発見は、こんにちの日本でいよいよもって重要である。なぜなら、マルクス主義だけが、社会の諸問題をその存在の内在的な構成要素であることを暴き出したからである。「階級対立」という語は、この意味から今なお大きな意義を持つ。なぜならそれは、内在的対立、症候の名だからである。

 

 症候という観点から、先に上げた日本の抱える問題について考え直してみよう。まず少子高齢化は、社会の成熟や変化の結果ではなく、その原因に置き直すことができる。つまり、子どもを育てるリソースを削り経済的成長に注ぎ込んだことによってこそ、こんにちの日本経済が成り立っているのである。子どもを育てるためには労働時間は切り縮めなければならず、より少ない労働でより多い賃金を得なければならず、そうなれば生み出される余剰はより少なくなってしまう。子どもの不在は解決可能な問題ではなく、経済成長を支える重要な欠如なのである。であるならば、経済体制そのものの変革なしには、少子高齢化は解決できないということになる。

 この意見には、穏健な左派からの反論もあろう。「軍事費や大企業の優遇のための税金をほんのちょっと削れば、十分な子育て支援策を行うことができる」、「なにもすべてをひっくり返して経済を台無しにしようというのではない」などなど。

 しかし我々は、反動勢力の「そんなことをしたら経済が衰退する!」という戯言を真に受けるべきだと思われる。なぜなら現在の日本経済は実際に、国家政策的事業と長時間労働に支えられているからである。公共事業を減らすことによって長時間労働を減らせば、日本経済の推進力を二つ同時に失うこととなる。「経済より暮らし」の理念は決して穏健にとどまるものではなく、資本主義経済を支える矛盾を対消滅させようという試みなのだ。だからこそ我々は、「もはや革命しかないのだ!」という主張に拘り続けるべきであろう。それ以外には、実効的な政策を打ち出すことは不可能である。

 ほかの問題についても同様の線で考えるべきである。経済の停滞は、テクノクラート体制を維持するために直接的に必要な費用であり、努力如何で取り除くことができる属性ではない。外交問題は、その存在そのものが右派政権における日本のアイデンティティの核であり、解決の不可能な問題である。温暖化は言わずもがな、環境破壊なくして産業社会は成立しないのだ。

 

 保守右翼反動勢力の試みは、社会の内在的な矛盾と対決することなしに、類感呪術と生贄によって問題を糊塗しようとするものである。彼らの主張は、外国人を叩き出しさえすれば、老害から権利を奪いさえすれば、若者を軍隊で叩き直しさえすれば、女性を家庭に閉じ込めさえすれば、すべての問題は許容できるものになるということである。ナチスにおけるユダヤ人の位置づけ(「ユダヤ人さえいなければ!」)は挙げるまでもないだろう。しかし、問題の原因を抑圧否認している以上、彼らの試みは必ず失敗する。多大な犠牲を伴って。

 政治的言説において反動主義者の抑圧と否認の姿勢に対決できるのは、マルクス主義だけである。なぜならマルクス主義だけが、社会の内在的対立を明らかにするからである。マルクス主義だけが、社会の属性ではなく存在のレベルを問題にするからである。しかし我々は、往年のイデオロギー批判、「彼らはそれを知らないが、そうする」を繰り返すべきではない。なぜなら今日では、「彼らはそれを知っているが、そうする」からである。

 となれば我々は、ヒステリックな告発者ではなく、なんらか人々の抑圧と否認を崩壊させる振る舞いをしなければならないだろう。少なくともラカンにおける「分析家のディスクール」は、その一つである。分析家としてのマルクス主義者は、「知っていると想定された主体」として転移の対象となり最後には捨て去られる、「消えゆく媒介者」である。この役割を果たすには、今日では第一の死(肉体の死)は必要ないとしても、第二の死(象徴的な死、名誉の喪失)を受け入れなければならない。我々は、革命のために抹消された革命家たちの、自己犠牲そのものを犠牲にした精神を思い出し、反復しなければならないのだ。マルクス主義よ、もういちど!