生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

言語による理念についてのコミュニケーション:言論

 言語は、さまざまな別のコミュニケーションを成立させる基盤となる。言語の基本的な記号操作を前提として、概念や理念を主題とした独自のコミュニケーションが機能する。哲学をはじめ、法律、倫理、文学、社会や政治などがこれに当たる。これらのコミュニケーションは独自の論理をもって半自律的な運動に移る。

言論という階層

 ここでは、言語の上に展開される理念や概念についてのコミュニケーションのことを言論と呼ぶ。言論は、言語をその媒体として独自の論理を形成する。言語は相互学習を前提とした言語ゲームによるものであるのに対し、言論は言語を前提としたより複雑な記号操作上に現れるコミュニケーションである。

 言語に言語ゲームが対応するように、言論を言論ゲームと呼ぶこともできるかもしれない。言語ゲームの進展は言葉の意味や使われ方をめぐって多くの人々の間で時間をかけて行われる一方、言論ゲームはある時点での言葉の使われ方をある程度所与のものとして、言語が定める論理的必然性に従って展開される。ある種の言論は単に論理記号の操作の問題であるので、時間的広がりなしに展開を考えられる。例えば、「人間には人権がある。」「黒人は人間である。」という二つの命題からは即座に「黒人には人権がある。」という帰結が得られるはずである。

 言論は、言語の機能には還元できない独自の論理を持つ、異なる階層の存在である。例えば、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。*1」という一文は、その字面の意味を理解しただけでは理解したことにならない。この一文を理解しようとするならば、世界人権宣言のおかれた文脈や人権という理念において理解する必要がある。

 一方、理念についてのコミュニケーションはまた言語の意味に影響を及ぼすから、言論ゲームは言語ゲームの一部でもある。

 

言論のはたらき

 言論ゲームは、価値基準そのものを変化させつつ価値を探索する、学習の運動である。言論はその過程で、明示的な命題を生産する。

 言論に関わる個々人だけでなく、言論ゲームそのものもまた学習し変化する。学問の進歩は必ずしも一人の人間の進歩ではないが、やはり学問は進歩している。一方、そうした進歩はやはり人間によってのみ行われるから、後から見れば自明であるような発見に至るまでにも言論ゲームは時間を要する。論理的に正しいことと、正しいことが正しいと認められることは異なる。

 言論においては、学習の過程は明示的である。それは言語というフレームワークの上で行われる記号操作の連環という形で我々の前に姿を現す。論文を読めば、何が行われ何が理解され何が謎として残っているのかをはっきりと読み取ることができる。しかしだからと言って、暗黙の学習が不要なわけではない。暗黙の学習なしには、ナマの現象を研究して言語化したり、既存の言葉や論理体系では表現不可能な新たな概念を発見したりはできない。正常な言論は、常に暗黙の学習を擁護し、暗黙の学習によって支えられなければならない。

 暗黙の学習が失われた言論は、論理記号の協同現象として暴走を引き起こす。先述した迷信や偏見の再生産もその一つであるし、神学論争や"科学的な"差別の理論もそうである。記憶に新しいところでは、原子力感染症分野の中核的な専門家が眼前の現実を無視して記号上の整合性のためだけに分析や提言をし続けた。

 とくに人間を主題とした分野では、暗黙の学習は失われてはならない。なぜなら、人間の人間性は常に未だ記号化されざる領域に留まるのであって、明示的な記号によってこれを明らかにすることは不可能だからである。

 

言論と現実社会の相互関係

 個々の言論は独自の論理を持つが、独立はしていない。例えば、生物学と哲学は全く異なる知識体系を形づくっているように見えるが、生物学の論文が哲学に大きな影響を与えたりする。それぞれの学問分野が完全に独立しているのならば、こうしたことは起こらない。個々の言論ゲームは他のゲームから影響を受けるし、また他のゲームに影響を与える。

 すべての言論ゲームは緩やかなつながりを持ち、そのようにして社会全体の風潮をつくりだす。こうした社会全体の空気感は、人々の行動をつうじて現実の社会や政治に影響を及ぼす。言論は社会に投影される。また逆に、社会が個別の言論に投影される場合もある。言論の機能が不完全であると、この相互作用は、社会が生産した迷信や偏見を言論が明示的に正当化して再生産するという負のループをつくり出してしまう。

 

言論の自己破壊

 言論もまた、その機能によってそれ自身を形骸化ないし破壊しうる。それには次のような種類での破壊が考えられる。

 言論の対象として直接的に言論の成立基盤を攻撃するもの。例えば、「学習を停止せよ」という命令を含むような思想や教義。

 言論によって間接的に言論の成立基盤を破壊するもの。例えば、詭弁や欺瞞を含む言論。詭弁や欺瞞は言語を破壊し、コミュニケーションを不可能にする。

 誤った言論が誤った行動を招き、言論ゲームを成り立たせる物理的前提を破壊するもの。例えば、政治が政策を誤ったために言論の基盤となるべき社会の崩壊が引き起こされる。例えば、社会変革のためにテロリズムが横行し、治安が悪化して社会そのものが崩壊する。

 言論の自殺。言論の行き詰まりあるいはその他の要因によって、分野そのものが放棄されてしまうもの。「総転向」によって言論の担い手がいなくなれば、その言論は断絶する。

 

 言論それ自体には、他のコミュニケーションと同様、物事の真偽、理論の正誤を先験的に判定する仕組みはない。誤りは言論の内部にて告発され批判される。言語の基本構造や記号的操作への言及や変更(すなわち言論ゲームの自己言及や自己変革)もまた、言論ゲームの内部の機序に従う。誤った言論が存在しても、正しい批判によって修正されれば、誤りは回避される。しかしそうでない場合、コミュニケーションの系は危険にさらされる。

 

 誤解しないでほしいのは、現時点ではコミュニケーションの持続と崩壊は価値中立的(あるいは価値以前)な現象であるということである。コミュニケーションの維持が自己目的化すると、支配という関係性から逃れることができなくなってしまう。現時点で問題となっているのはむしろ、コミュニケーションの自己破壊が常に可能性として付きまとうということであり、言えるのは「もしコミュニケーションの持続を望むならば、自己破壊を導くもろもろの行動を避けるべし」という仮言命法に限る。

*1:世界人権宣言第一条