生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

なぜ人はひきこもりとなると冷静ではいられなくなるのか?

 私はひきこもりである。ひきこもりとして人と接するとまず言われるのは、「どうして働かないの?」「親が死んだらどうするの?生きていけないよ?」「いつまでもそうしているわけにはいかないよね?」の三点セットである。

 しかし残念ながら、この三点セットはひきこもりに対しては禁句である。そんなことは百も承知でどうにもならなくなっているのだから。こういうことを言う人は、現実を突きつけてやった気になるのかもしれないが、ひきこもりの心を完全に閉ざす以外の帰結はあり得ない

 だから、誠意と知識と経験のあるひきこもり支援者は間違ってもこのようなことを言わない正しいことを言っても何の解決にもならないと理解しているからである。

 

 ところで不思議でならないのは、ひきこもりに対する専門的な知識がない人は、どんなに立派で自身の職務上の心得があったとしても、ひきこもりに対してはほとんど必ず間違った対応をするという経験的な事実である。これには、学校の教師、公党の幹部や専従職員、精神分析医までもが含まれる。普段から人を励まして不安を取り除くような人までもが、ひきこもりに対しては不安に陥れる役を買って出る。普段は人の事情なんか知ったことではない人までもが、ひきこもりにはお節介をする。いったい何が彼らを誤らせるのだろうか。

 

ひきこもりには独特の魅力がある

 ひきこもりには独特の魅力がある。ひきこもりは、朝に寝て夜に起き、働きもせず日がな家にいて、何をしているのか分からない、普通とは違う得体の知れない人間である。したがって、一般の人からは嫌悪とともに好奇のまなざしが向けられる。ひきこもりに関するドキュメンタリー番組は、大衆の好奇心と自尊心と「社会問題について考えたい気持ち」を都合よく同時に満たす。少なくともひきこもりは個人的な問題が原因であって、格差貧困や環境破壊のように、視聴者が加害者として告発される恐れがない。要するに、お節介しても殴り返されず、殴り返されても被害者ヅラできる格好の相手というわけだ。

 

人助けは気持ちがいい

 人助けは気持ちがいい。これは社会的生物としての人類の本能に刻まれた傾向だろう。そしてこれは、多くの場合で役に立っている。

 ひきこもりの支援は、どうやら多くの人に専門的な知識の必要ないケア労働だと思われているようだ。とくに、私のように病的な現象を伴わないひきこもりは、専門的な知識に頼るまでもなし、意志と気持ちの問題だと受け取られやすい。もちろん私が病的でないのは、病気になるまで追い詰められていないというだけのことである。

 そういうわけで、その本業では専門家としての倫理を貫いているような人でも、ひきこもりには常識的理解の範疇から口を出してしまうのではないだろうか。彼らはこう思うのだ。「こいつは単に甘えてるだけだ、俺の分厚い専門書をめくってみるまでもない。どれ、いっちょ説教してやるか」、と。

 

ひきこもりは不安をもたらす

 ひきこもりには、社会的な役職や立場がない。演劇の舞台に素人がふらりと上がってしまって、何も演じていないようなものである。役職や立場に生きている人たちにとってひきこもりは、立場システムに従属しない得体の知れない存在である。

 同時に、何者にもならないひきこもりは疑問を投げかける。「なぜあなたは○○になったのか?」。立場に安住している人にとっては、この問いは実存的選択の領域を開く、恐ろしいものである。また実存的決断によって飛躍した人にとっても、その決断の根拠のなさに再度相まみえる体験である。

 だから多くの人々は、ひきこもりをとっとと就職させて立場を与えるか、さもなくば「ひきこもり」という立場を与えようと躍起になるのだ。ひきこもりと対等に接することができるのは、ひきこもりと同じようにノーテンキかつ真剣に、裸一貫で日々を生きている連中だけである。

 

ひきこもりを如何せん

 では、ひきこもり相手にどのようにすればよいのだろうか?当事者として述べさせてもらいたい。

 まず、目の前にいる人間のひきこもりをどうにかしたいと思った場合、自身の問題を疑ったほうが良い。その人がひきこもっていても迷惑でないならば、そのことは放っておいて普通に付き合ってほしい。なぜなら、ひきこもりにとってはあなたが数少ない社会との接点だからである。無理を言ってその関係を壊せば、社会に対する不信もより増すことになる。

 ひきこもりは自力での脱出は難しい。社会復帰や職業訓練は、ひきこもりについてのノウハウのある専門的な支援者団体を頼ったほうが良いだろう。ひきこもりにとって、職業や経験に関する一般的なコミュニケーションが脅威と感じられる場合があり、その場合は素人では手に負えない。ただし、支援者も良く吟味して選ばないと、中にはとんでもない者も存在する。

 友人や仲間としては、気軽に遊びに誘い続けてほしい。気が乗らず断るときも多いだろうが、好意的に接してくれさえすれば、外に出るきっかけになる。しかし逆に、遊びに誘って騙し討ち的に説教をかましたり笑いものにしたりすると致命傷になる。人生相談やエグい笑いは基本的な信頼関係の上に成り立つもので、社会に対する信頼を失っているひきこもりにとっては直球の加害行為になってしまう。

 ひきこもりは、親が死んだり支援を打ち切れば働き出すものではない。そのときにはきっと、孤独死するだろう。ひきこもりの絶望は、そんなことは織り込み済みなのだ。飴と鞭というばかげた世界観から脱却し、人間としての信頼関係を取りもどさなければ、未来永劫ひきこもり問題は解決しないと断言できる。例え8050問題が大量死で決着したとしても、その傷口はぱっくりと開いたまま社会に残り、若者たちを吞み込んでいくだろう。