生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

なぜ自分を殺してはいけないのか?

※この記事では自殺に関するトピックを取り扱っています。もしこれを読んでいるあなたが悩みを抱え、あるいは「死にたい」と考えているのであれば、電話で相談できる窓口があります。あなたには、いかなる状況においても、相談し、援助を受け、生きていく権利があります。

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 信念や明示的論理は、多くの場合自殺の予防に寄与しません。あなた自身やあなたの周囲の人に自殺への傾向がある場合、この記事の内容は有効でないか有害である可能性があります。上記の窓口もしくは然るべき専門機関に相談することをおすすめします。

 

 

自分を殺してはいけない理由

 人を殺してはいけない理由と同様に、自殺してはいけない理由も階層的に考えることができます。こうした階層化による問題の切り分けは、自殺防止に関する世俗的な見解と専門知の剥離の原因を明らかにします。

自殺の純粋な禁止

 「自殺してはいけないのは自殺してはいけないから」というトートロジーに基づく規範は、それが何も言っていないに等しいとしても、実際にはある程度自殺のリスクを縮減しているのかもしれません。根拠の正当性がどうあれ、この規範が機能する限り、自殺は気軽な選択肢ではなくなります。一般の人々が自殺のことを考えさえせずに済むのは、こうした純粋な規範によるところが大きいはずです。

 このトートロジーに基づく禁止が自殺防止の最前線で役に立たないとされがちなのは、人が自殺に踏み出したときには既にトートロジカルな権威が機能不全になっているからではないでしょうか。規範を振り切って自殺しようとしている人を、まさにそれによって思いとどまらせることはできません。権威による規範は、それに縛られている者を縛るという空虚な効果しか持たないのです。

功利の最大化の一手段としての自殺

 自殺を無条件に否定する規範が失われると、感性的な動機から自殺を評価することが可能になります。ここでは自殺は、苦痛を最小化し幸福を最大化するための諸々の手段の一つでしかありません。命の価値は何の特権性も持たず、それによって得られる幸福と不幸の差し引きで測られるようになります。

 この場合、自殺以外の選択が優れるなら、自殺は禁じるまでもなく選択されえません。このような功利主義の考え方においては、功利を最大化しないような愚かな選択こそが悪い選択です。自殺よりも良い方法がある限り、自殺は愚かであり悪なのです。しかし逆に、自殺が唯一優れる選択肢である場合、自殺しないことこそ愚かであり悪だとも言えます。

 この階層における自殺の予防は、現実的に抱えている問題への支援が重要だと考えられます。また、事実に対する重みづけや認知バイアスに働きかけることも有効です。何にせよ自殺が功利を最大化するような状況と判断が生まれなければ、自殺は選択されえないからです。

社会や共同体における自殺

 個人的な幸福ではなく、社会全体あるいは所属する共同体の功利を勘案して自殺を検討する場合もあります。「社会に迷惑だから」という理由から自殺したり自殺しなかったり、なんらかの崇高な使命を死ぬ理由あるいは死ねない理由にしたりする人々がこれに含まれます。ここでも自殺は単なる手段の一つですが、価値の源泉としての人格は、身体としての個人ではなく社会や世界に同一化されています。

 自殺を防ぐためには社会的な生きがいが必要だという主張は、この階層についての考えです。それは実際この階層の理由による自殺を防ぐには効果があるでしょう。もっとも、貧困と格差の拡大する現代日本においては、そのような自殺が自殺全体に占める割合は限定的であり、自殺予防の政策においては疑似問題に近いと思われます。

 

生存者バイアスと「なぜほかの人たちは自殺しないのか?」

 少し寄り道をして、「自分を殺してはいけないと考える人間しか今生き残っていないから」という生存者バイアスによる説明について考えてみましょう。

 これは自殺を禁止する理由にはなりません。しかし、「なぜほかの人たちは自殺しないのか?」というヒステリックな問いに対する答えにはなります。つまり「そのような理由はない」という答えです。「なぜ自分を殺してはいけないのか?」という質問の意図は必ずしも希死念慮に基づくものではなく、こうした回答が正しい場合もあるでしょう。

 

実存的選択の次元

 運命を偶然性に委ねて何の価値判断もしなければ、自殺の是非について論じる理由はありません。自殺を防ぐために死なない理由を作り上げたり探したりするのは、明らかに論点先取に見えます。実際、そこには先行する何らかの判断があるはずです。

 生きる理由を探したり理屈をこねたりすることは、そうした判断に客観的で明示的な根拠を賦与しようという試みなのではないでしょうか。この判断に先行する判断こそ、「なぜ自分を殺してはいけないのか?」にたいする究極的な答えになっているはずです。つまり我々ははじめからすでに結論を持っていたのです。

 さてこの結論は、全ての判断に先行する判断として要請されるのであって、その実在が確信できるものではありません。カントにおける神あるいは自由の存在や、フロイトにおける原父殺しと同じ領域の存在です。我々が生きているという事実が、我々が過去に生きることを選択したであろうことを指し示し、我々を困惑させているのです。

 我々にできることといえば、神話的な領域において一番はじめに選んだこのものを、再び選ぶことだけです。つまり、全く無根拠に、あるいはむしろすべての根拠に反して、生きることを選ぶ、実存的な選択です。

 この実存的な選択だけが、実際に行為者がその選択の責任を負っているという点で、唯一誠実な態度だと言えます。自殺するにしろ自殺を否定するにしろ、この実存的な引き受けなしには、蒙昧な思い込みの結果でしかありません。少なくとも、自らの判断には客観的で確固たる理由があるという考えは誤った独断を含んでいます。厳密な基礎付けは不可能であって、行為のためには決断という切断面を避けることができません。

 この裏面として、決断主義は自殺の実行に直結する場合もあります。生きる理由の基礎付けが究極的には不可能であるのと同様、死ぬ理由の基礎付けも不可能であって、考慮すること自体に疲れ、それを乗り越えるための決断が供給されたとき、自殺が可能になってしまいます。悩んでいる限り死なずに済むという側面は、実際の自殺防止においては確実に存在するでしょう。

 

自由主義的態度に対する反論:問いが向けられているのは誰か

 個人の選択の自由を根拠として自殺を容認する意見がありますが、それは実存的選択のレベルにおいてのみ正当性を持つものであって、感性的な動機による自殺を支持しうるものではありません。なぜなら、実存的選択においては自殺そのものが選択されているのに対し、感性的な動機における自殺は単なる手段だからです。自殺以外の方法で目的を達成することができ、そのほうが自殺した場合よりもより多くの功利を得られるのであれば、自殺の意志は撤回されるでしょう。

 このとき、選択の自由は、死ぬか死なないかという自殺者当人ではなく、目の前の人間が自殺するに任せるのか、現実的な障害を取り除いてやるのかという、傍観者のほうにあるのです。そして、我々生きている人間は基本的に死ぬよりも生きるほうが良いと判断しているので、多くの場合で目の前の人間を助ける選択がなされるはずです。この点で、支援があれば生きていける人間の自殺を自由の名によって看過することは、決定的に問題を取り違えています。彼らは世界の無機質な摂理を語っているつもりでいますが、実際には彼ら自身の実存における無機質な冷酷さを雄弁に語っているというわけです。

 

 「なぜ自分を殺してはいけないのか?」という問いは自殺者の意志決定の問題ではなく、「お前は実存的な確信をもって生きているのか?」という死者からの挑戦状なのです。実際には偶然と成り行きによって生かされているだけであるとしても、我々は「そうだ」と答えなければなりません。それがあらゆる行為の条件だからです。

 誰が何と言おうと私は、私の望みにおいて自殺を否定する。これが自殺を否定するために不可欠な決意ですが、しかし実際の自殺防止に持って入ることができません。そうした情熱は、自殺を試みる当人を尊重することにはつながらないために、実際の問題を解決するのには役に立たないどころか得てして障害となってしまうのです。こうして、自殺防止の原理と手段の間には不可避の剥離がもたらされるのです。