生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

「なぜ?」が問うているのはなにか

 「なぜ?」"Why?"と訊かれたとき、どのような答えが期待されているのでしょうか。あるいは、どのような答えが可能なのでしょうか。

 

 "why"という単語には、"cause"原因、"reason"理由、"purpose"目的という、少しずつ異なる意味があります。causeはより基礎的な因果関係に、purposeはより高次の(階層の高い)動機に関係します。つまり、"why"「なぜ?」の求める答えには幅があります。

 分かりやすいように例を追って見ていきましょう。

 

「なぜリンゴは木から落ちるの?」

 

 なぜリンゴは木から落ちるのかを説明するもっとも一般的なものは、ニュートンの発見した万有引力による説明でしょう。

 

「リンゴが木から落ちるのは、万有引力が働いているからだ。」

 

 このような「現象Aは法則Bだからだ」という説明は、法則Bが真であることではじめて有効です。さもなければこの説明は蒙昧な独断論になってしまいます。万有引力にかんする科学的な検証や理論的な裏打ちがなければ上の説明は、「リンゴが木から落ちるのは、ホゲホゲの法則のおかげだ」や「リンゴが木から落ちるのは万物が大地に還りたがるからだ」と等価です。これらの説明は同じ階層に存在します。つまり、物事の根本的な法則として提示される説明です。

 

 さてしかし、万有引力による説明は万能ではありません。次のような問いを考えましょう。

 

「なぜNくんは二階から落ちたの?」

「Nくんが二階から落ちたのは万有引力が働いているからだ。」

 

 この説明は明らかに失当です。「物体Aが場所Bから落下した」という同じ現象でも、ここには異なるコンテキストがあります。ここで問われているのは自由落下現象の説明ではなく、落下に至った理由です。

 したがってこの場合期待される答えは、それが事故だったのか、誰かが突き落としたのか、自分で身を投げたのか、という説明です。ここでは、具体的な出来事の因果関係が問われています。因果が機能するためには物理法則が完全に機能していなければなりませんが、物理法則が原因を決定するわけではありません。万有引力は常に働いていますが、床に足をつけて立っているうちは二階から落ちることはありません。

 

 さて、Nくんが自分で飛び降りたとしましょう。

 

「Nくんが二階から落ちたのは、自分で飛び降りたからだ。」

 

 しかし、これではまた説明は十分でありません。この場合は、なぜ彼が飛び降りたのかが問題です。無鉄砲な遊びの一貫だったのか、仲間内での度胸試しだったのか、いじめで強要されたのか、苦しい日常から逃れるためだったのか。ここでは行為の意志や目的が問われています。つまり、期待される答えは例えばこうです。

 

「Nくんが二階から落ちたのは、『同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることは出来まい。弱虫やーい。と囃した*1ので、親譲りの無鉄砲さから特に深い理由もなしに飛び降りたからだ。」

 

 この件の場合、上の答えが当を得ています。ここからさらに次の階層の説明を試みるとすれば、「Nくんはなぜ無鉄砲なのか」「同級生はなぜ囃したのか」といった背景の説明となるでしょう。しかし、「Nくんが二階から落ちたのは、Nの祖父がNの父親を無鉄砲に育てたからだ。」という答えはこの事件を説明するのに適切だとは言えません。このように、異なる階層で答えると滑稽な効果が生まれます。NHKの悪名高い番組「チコちゃんに叱られる」は引きをつくるために意図的にこのトリックを使いますし、政治家や専門家が嘘をつく際にも使われます。例えば、「原発事故の原因は想定外の高さの津波だ」と言うとき、技術的には重要な直接的な因果関係を述べることで、政治的により重要である背景状況(例えば、津波は予測されていたにもかかわらず隠蔽し対策しなかった、危険性の指摘を受けていたにもかかわらず調査をしなかった、といった政治と知識集団の責任)を隠しているのです。

 

 以上のように、「なぜ?」には複数の階層から答えることができます。重要なのは、これらの階層を混同せず、それぞれについて答えを用意し、どの階層における答えが期待されているのかを把握することです。また、階層のすり替えに騙されないことです。

 

 さて、しかし以上で説明したことがすべてではありません。「なぜ?」に対するこれまで紹介した答え方は、命題と現象を結び付ける方法でしたが、最後に命題を命題自身の前提と結びつけるいくらか脱法的だと思われるような説明の仕方を紹介します。

 

 宇宙論において使われる、「人間原理」という説明方法があります。

 自然法則にはいくつかの物理定数が含まれるのですが、この定数がある特定の値でなければこの宇宙は物理的に存在できず、また人間が存在することもできません。問いとなっているのは、「なぜ我々の宇宙の物理定数はこの特定の値になっているのか?(ファインチューニングされているのか?)」です。物理定数を決める何らかのファクターが存在するのかどうか、ということが日夜研究されています。

 そんな問題に対する一つの答えに、「人間(あるいは知的生命体)が存在しなければ、宇宙を観測し物理定数を導き出すことはできない。我々が宇宙に住んで物理法則を導き出す限り、物理定数は特定の値でなければならない。(ファインチューニングされていない物理定数を人間が発見する場合は存在しない)」というものがあります。これが人間原理です。

 この説明は「特定のこの宇宙がファインチューニングされている理由」を説明してはいませんから、科学的な因果関係の解明とは言えませんが、依然として説明の一つです。マルチバース宇宙論などを背景に確率的な世界観のもとでならば正しい説明になります。つまり、我々の宇宙の物理定数は確率的に決まったもののうちの一つであり、偶然なので「因果的な理由は存在しない」です。

 

 似たような論法は、言葉を巡っても成り立ちます。例えば、「どうしてゴリラのことをゴリラと呼ぶの?」という質問には、ゴリラの発見や命名の歴史を説明することが正当な答え方ですが、「ゴリラのことをゴリラと呼んでいなければ、「どうしてゴリラのことをゴリラと呼ぶの?」という質問は存在しえないから、「どうしてゴリラのことをゴリラと呼ぶの?」という質問がある限り、ゴリラのことはゴリラと呼ぶのだ」と答えることもできます。実際、ゴリラのことをゴリラと呼ぶのは、あの毛むくじゃらの霊長類をゴリラと名付けたからでしかありません。

 このような答え方が正しい場合も存在します。例えば、「どうしてアカベラはいつもメスなの?」という問いには、「キュウセンという魚のメスをアカベラ、オスをアオベラと呼んでいるのだ」という答えが正しいでしょう。「アカベラ」が「メス」である科学的な因果関係や相関関係は存在せず、ただそれは命名の問題でしかない、というのが答えなのです。

 

まとめ

 今回は、「なぜ?」にたいしていかに答え得るかを考えていきました。ここに書いたものがすべてではありませんが、階層性の観点と言葉の定義に関わる問題はことさら重要だと思われます。事実と規範は異なるとはいえ、このような考え方を基にすれば、「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いに十分に応答できるでしょう。次回はこれについて取り組んでいきます。