生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

欲望の説明を巡る二項対立

 欲望は大別して二つの説明の仕方がある。それ自体的な説明と、失楽園神話的な説明である。

それ自体的な説明と失楽園神話的な説明

 それ自体的な説明は、欲望を人間の自然の性質のようなものに帰属させる。「Q.なぜ人間は欲望するのか?」「A.人間はそういうものだからだ」というわけだ。こうした説明は、自然主義的な哲学や、自然科学を目指す心理学に多い。

 こうした説明は事実の説明としては良いが、主体の行為の判断に寄与するものではない。これによる行為の判断はすべてヒュームの法則*1に違反することになる。

 

 失楽園神話的な説明は、欲望を何らかの欠如によって定義する。つまり、満たされた理想状態(楽園)が過去に想定され、そこから主体が引き裂かれることによって(楽園追放)主体の欲望が発生するというのである。欠如は人間形成の本質的な部分であり、際限のない欲望の不毛な前進を生み出す。なぜなら、この欠如は普通の方法では完全に満たされることがないからである。

 この欠如に何を置くかが、分野によって異なっている。精神分析学においては原初の満足体験と(エディプスコンプレックスに代表されるような)その喪失、アリス・ミラーにおいては原初の暴力としての虐待、マルクス主義においては本源的蓄積、サルトルにおいては存在の裂け目としての無。これらは細かな差異はあるが、大枠の構図としてどれも失楽園神話的である。

 

楽園追放は事実か神話か

 失楽園神話的な説明はさらに、欠如の出来事とそれ以前の完全な状態の実在性の扱いで分類できる。欲望以前の人間は存在したのか。楽園は本当にあったのか、それとも遡及的に措定されるに過ぎないのか。楽園追放は事実か神話か。

 この二項対立の代表例として、フロイトの誘惑理論における、外傷体験の実在性を巡る転回と論争を挙げる。

フロイトの誘惑理論とその転回/被害の記憶は事実か幻想か

 話のあらましはこうである。精神分析の祖ジークムント・フロイトは、精神分析をする中で、神経症の原因は幼少期に大人から性的誘惑を受けたことではないかと考えるようになる。フロイトはこれを1896年『ヒステリーの病因について』などで発表した。これを誘惑理論と呼ぶ。しかしフロイトはわずか一年以内にその説を翻し、誘惑の記憶は幼児性欲による幻想であると修正した。これが現代の精神分析の土台に繋がっている。*2

 しかし1980年代に入ると、フロイト性的虐待の事実を受け入れない社会の圧力に屈して自説を曲げたのではないかと、ジュディス・ハーマン、ジェフリー・マッソンらにより告発される*3フロイトの研究していた当時ヒステリーはありふれた病気だったので、もし誘惑理論が正しければ「幼小児に対する倒錯行為」が蔓延っていることになる。このような現実は容易には受け入れがたいだろう*4。この告発の主張(心的外傷によって神経症が発症する)はPTSDの導入や*5子どもの虐待防止運動として定着する一方、主流の精神分析において誘惑理論が復権してはいない。

 近年のカトリック教会等々での数々の性的虐待の暴露を見れば、広範な性的虐待の事実が存在しないと断言することはできない。そして、そういった事実を隠蔽しようとする力が長い歴史のなかで存在し続けたことも明らかである。やはりフロイトもまた、沈黙を強いられた人の一人なのだろうか?

 この問題は、「私は虐待を受けたのだろうか?」という問いとなって一人一人に襲い掛かってくる。幼少期の記憶を思い出すのは容易ではない。また、心的外傷に対する防衛としての健忘や否認は知られた症状である。しかし症状は*6その存在を仄めかす。思い出せないのはそれが存在しないからか、隠されているからか。

マルクス主義における本源的蓄積は事実か神話か

 ほかの例も挙げよう。マルクス主義における本源的蓄積の議論は、資本主義を可能にした"原罪"を暴く、マルクス主義の正当性を支える重要な部分の一つである。本源的蓄積の過程での暴力的収奪が実在の出来事なのか神話なのかでは大きな違いがある。ブルジョワジーによればそれはルサンチマンが作り上げた幻想の記憶で実在しない出来事であり、マルクス主義によればそれはブルジョワ社会のために不可視化されている実在の出来事である。それが発見できないのは、存在しないからか、隠されているからか。

 

 失楽園神話的な説明によれば、欠如は通常の意識によっては認識されない。これが検証の困難な自己正当化となって、二項対立の解決を難しくする。欠如そのものが不可視なのは、それが存在しないからか、隠されているからか。ともかく我々は、この解決を先の議論に委ね、対立を維持したまま先へと進む必要がある。

 

失われた記憶という欲望の対象

 欲望する人は欲望の原因を知らない。自らについての無知は、欲望の条件なのである。

 だからこそ、欲望に突き動かされるがまま生きることが不都合ならば(あるいは不可能ならば)、欲望の原因を直視しようとせずにはいられない。これが楽園追放の物語を追う動機となっている。しかしこれも「"欠如"した真実」へと向かう欲望の形式となっている。白兎は追うべきか否か。これを問うこと自体が、欲望の形式に巻き込まれている。かくして欲望を逃れようとして欲望することになる。つまりはこの方法では欲望から逃れることはできないのである。

*1:「~である」から「~であるべし」を導くことはできない、という原理

*2:抑圧された記憶 - Wikipedia,心的外傷と回復 〈増補版〉P14,下司 晶(2003)『〈現実〉から〈幻想〉へ/精神分析からPTSDへ――S・フロイト〈誘惑理論の放棄〉読解史の批判的検討――』,精神分析とユング心理学 (放送大学教材)

*3:下司 晶(2003)

*4:心的外傷と回復

*5:下司 晶(2003)

*6:ミラー『魂の殺人―親は子どもに何をしたか』などによれば、幼少期の虐待の影響は神経症にとどまらないとされる。同著では、麻薬中毒者、独裁者、大量殺人者の背景に虐待の影響を見出している。