生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

Acting Out, Passage to the Act and...... : 真に政治的な行為の難しさ


www.youtube.com

 

 福島のぶゆき衆議院議員安冨歩東大教授の対談動画を視聴した。動画の内容のすべてをここで書くわけにはいかないので、気になった方は動画を見てほしい。

 私がこの記事を書くのは、数年来課題として考えてきた問題がこの動画にも表れており、明確にする必要があると考えるからである。福島のぶゆき氏も安冨歩氏も、身体化された素晴らしい知性とお持ちの方だと見えるが、それでもこの点を外してしまうと反動的で安易な共同体主義徳治主義、名望家政治へと堕してしまう危うさがある。そして彼ら自身が誤らずとも、彼らの言説が誤って受け取られる可能性は大いにある。

 その問題とは、行為における主体の地位の問題である。

 

無我のアポリア

 両者の対談のなかには、行為における主体の解任が一つの軸として浮かび上がっており、再三「自分を捨てる」というフレーズが登場した。修行のごとく戸別訪問をした福島氏の話、締め括りに清水氏が触れた、ノルマと監視に駆動される維新の会のフランチャイズ的ドブ板活動や、「机上の空論とか言う前に戸別訪問してこい!」というパワハラ調子のコメントには、滅私、無我、無私、無為、無心の活動に対する安冨・清水両氏の評価が見える。

 安冨氏は「福島のぶゆき」と「維新の会」の違いに言及しようとしているが、動画では明確にはなっていない。カルト的な駆動と信念に基づく駆動、信念をつくり出す駆動の違いは一見して見分けがつかない。安冨氏は千日回峰行を思想を形成する修行として評価しているようだが、見方を変えればこれも宗教的奇行でしかない。修行の評価は修行した当人にしか、それも遡及的にしか評価ができない。加えてそれは、思い込みである可能性に常に付きまとわれる。それでもやはり、この峻別は重要である。無我、無為の境地は決して一つのことを指しているのではない。

 そして、ここでの究極的なアポリアは、他者に対して信念に基づく駆動を直接促そうとすると、避けがたくカルト的な駆動を引き起こしてしまうということである。『一月万冊』での語り口から自分が受ける実感として、動画から直接影響を受けて決起しても、狂信的な活動にしかなりえないように思われる。これは、れいわ新選組の狂信的な支持者においても同じである。もう一人の山本太郎、もう一人の福島のぶゆき、もう一人の安冨歩、もう一人の清水有高は、現れえないのであり、それをつくり出そうとすれば信念は邪悪な試みに転落する。だからこそ、信念の人は本当に稀なのだ。しかし、以上の事態はどのような機序に基づくのだろうか。このアポリアは突破可能なのだろうか。いかにして政治の変革が可能だろうか。

 

 この問題は、ラカン精神分析の考え方によって適切に腑分けできるように思われる。主に用いるのは、まず基本的な主体の構造についての考え方と、Acting-outとPasssage to the act(Passage à l'acte)(と"真の行為")の対比である。

 

エス、理想自我(想像的同一化)・自我理想(象徴的同一化)・超自我

 ラカンにおける主体の構造を簡単に見ておこう。

 まず、エス(Es: 「それ」)、無意識のリビドーの主体がある。次に、想像的(鏡像的)同一化の対象・結果としての理想自我(Ideal-Ich)がある。これは自己イメージとして機能し、エスの無秩序なリビドーに対する防衛として機能する。

 道徳的検閲・審級などのフロイトにおける超自我の機能は、ラカンにおいては自我理想(Ich-Ideal)が担う。これは、主体が自分自身を評価するために参照する評価者の地位である。主体は、主体をまなざす(親の)まなざしに同一化して、自分自身をまなざす。つまりは、主体を苦しめる審級のまなざしは、自分自身のまなざしに他ならない。

 ラカンにおける超自我は、「楽しめ!」と無条件に命じる残酷で狂った法である。自我理想は、この超自我に対する防衛として機能する側面がある。

 

何のために政治家になるのか

 福島のぶゆきの答えは、「困っている人のため」ではない。実利的な結果のための政治は、人々の快感原則に奉仕するものであり、自我の領域に留まる。これに対し彼の政治活動は、むしろエスの欲動としての自己目的性のもとにあるように見える。彼に運命を与える「天」は彼の外密的なエスの名であろう。

 彼の政治活動の充実に対して、その半ば陳腐なまでに平凡な保守的思想は、構成された補填物でしかないように思われる。思想が活動のなかで形成されていることや、政治的な功績が有権者からは評価の基準たりえていないことからも、ここでは政治的な言説は副産物でしかない。政治的な結実ではなく、反復的な政治運動のほうが本質なのである。これはちょうど欲望と欲動の目的の違いに対応する。欲望の目的は対象を手に入れることだが、欲動の目的は欲動そのものの再生産である。

 

 ほかに政治活動の動因には例えば、ナルシシズムによるものがある。単に政治家になりたいのではなく、政治家である自分になりたい場合はこれである。ところで、理想自我は自我理想に向けられている。「欲望は他者の欲望である」というラカンの格言があるように、子どもがいちごのショートケーキが好きなのは、それが単に甘いからではなく、ケーキを嬉しそうに食べると親が嬉しそうにするからである。政治家である自分になりたいのは、それによって〈他者〉が喜ぶからである。

 カルトや全体主義体制における自己破壊的な奉仕は、それが教祖や総統や党に向けられたアピールである限りにおいて、ひそかに自我を隠し持っている。そして、服従から剰余享楽を得るのである。

 専制的体制が抑圧によって剰余享楽を提供するのにたいして、現代はむしろ直接的に享楽を強要する超自我的な体制である。人々は仕事を楽しみ、消費を楽しみ、生活を楽しまなければならない。これは政治活動も例外ではない。仕方なしにやるのでなく、楽しんで活動しなければならない。握手やあいさつ回り、あるいはビラまきや戸別訪問を厭々ながらするようならば、大衆蔑視の烙印を押されてしまうのだ。

 

Acting-outとPasssage to the act(Passage à l'acte)

 Acting outとPasssage to the act(Passage à l'acte)は、もともとフロイトにおいては同じAgrierenという用語の英訳と仏訳であったが、ラカンは1962-3年のセミネールで両者を区別して使った。両方とも不安に対する最終手段だが、ラカンにおいて、Acting outは(大文字の)他者に対するヒステリックな暴発であり象徴的な意味合いを含む一方、Passsage to the actは象徴的秩序そのものからの撤退である。*1

 Acting outは、主体の言語化が失敗しているとき、あるいは言語化=意識化を回避しようとするとき、言語の代わりに行動で表現されるメッセージである。安易な例だが、子どもが癇癪を起して暴れたり、青年が関心を引くために犯罪に走るなどがこれである。急進派の政治組織が理論的な行き詰まりからテロリズムに走ったり、超大国がテロの根本的原因に向き合わないためにテロ支援国家を爆撃する場合もこれに当たる。要するにActing outは、理論的(象徴界的)無能さの現われなのである。

 他方、Passage to the actは、象徴界そのものを機能停止させる。これによって主体は解消され客体化する。行為の主体は〈自我-私〉ではなく、〈エスEs-それ・・〉になる。むしろ、〈エスEs-それ・・〉に自我を同一化する、「エスのあったところに自我をあらしめよ」である。

 Passage to the actは、象徴的な調停が不可能である点で純粋に暴力的で、外傷的である。やや強引なあてはめだが、神憑きがこれに含まれると思う。機能停止した象徴的なもの=神が、現実に想像的な同一化の形で回帰するのである。

 主体の解消は、大他者の抑圧的な審級を無化するが同時に、行為にたいする主体的な責任の引き受けを不可能にする。主語のない中動態の境地にいれば、戦争に加担した鈴木大拙の言説のように、あらゆる残虐行為が「それ」の命ずるものとして免責されてしまう。

 

政治活動における行為の位置

 ここまでの話を政治活動における行為主体に当てはめてみよう。

 リベラルな知識人が自身の理論的行き詰まりから目をそらすために政治活動にのめり込むなら、それはActing outの一種である。これはまた、「私は実践しているんだ!」という、大他者に向けたアピールでもある。ところが実際、大他者は自我理想であり自分自身のまなざしに他ならない。彼は、自らの理論的無力の後ろめたさを穴埋めするためだけに政治活動をする。

 維新の会の場合、大他者は本部からの監視役として実体化している。候補者は、この大他者に向けて政治活動をするのである。フランチャイザーによる監視は、単なる定量的な把握と管理ではなく、まなざしに対する行為を引き出す機能があるのである。

 

 ラカンは1968年パリ五月革命の急進的な学生革命家たちに、新たな主人を求めるヒステリー者を見出している。政治的な行動主義は過激な反逆に見えるが、依然として大他者に対する要求なのである。革命は、弱体化した既存の権威に代わる、強く新しい権威を求める運動でありうる。

 精神分析の基本的な方針からすればこのようなヒステリー者にたいしては、行動=Acting outを促すよりもむしろ、主体の無意識のなかでまだ読まれていないものを読み取り、解釈を与える必要があるだろう。

 Passage to the actにおいては、不安を生み出すまなざしから逃れるため、大他者はその場所ごと排除される。主体は、象徴界から暴力的に撤退してひきこもり、自閉的な行為に走る。

 Passage to the actは、政治的な影響を及ぼしうる。しかし、その行為が象徴界を棚上げにする以上、根本的には政治的行為ではありえないはずだ。自閉のもとで政治的行為はあり得るか。そのためには少なくとも、政治の定義を変える必要があるように思われる*2

 

真の行為

 ジジェクは著書『Less Than Nothing: Hegel And The Shadow Of Dialectical Materialism』のなかで、Acting out, Passage to the act(Passage à l'acte)に、フィヒテのTat-handlungという語を並べている。ここには、Acting outが依然大他者の下に留まり、Passage to the actは大他者を破壊的に停止させるのに対し、Tat-handlungは行為の前提となる大他者をその行為によって遡及的につくりかえる、という対比がある。

 ジジェクは、真の行為とは何らかの前提に従うものではなく、その行為を可能とする前提そのものをつくり出すものだと言う。この意味で、Tat-handlungが真の行為の位置を占める。

 真の行為においては、行為が自身の前提を遡及的な効果によって措定する。つまり、この行為の以前に、この行為は不可能である。大他者による保証はない。主体は自分自身の責任において新たな規範を措定するのである。

 

 福島のぶゆきの戸別訪問はこの意味でまさに真の行為である。その行為以前には、それが可能な条件は存在しない。東大・官僚上がりの若造と田舎の保守的なコミュニティがあるだけである。才気ある政治家とそれに感化されるだけの感受性のある人々、というものは、福島のぶゆき氏自身の行為によって遡及的にもとからそうであったように創り出されたのである。

 

 ところが福島のぶゆきの活動を踏襲して同じことをしようとすると、現れるのは異なる事態である。そこにあるのは不可能を可能にする真の行為ではなく、「できるのだから、やらねばならない」という強迫的な駆り立てである。カントの「やらねばならないのだから、できるDu kannst, denn du sollest!」を「できるのだから、やらねばならないDu sollst, denn du kannst!」に転倒させるのは、超自我である。*3

 うしろめたさから超自我に従えば従うほど、うしろめたさは強くなる。人々をこの悪循環に嵌め込んでエネルギーを調達することはできるが、それこそがまさに現代社会の動力なのであって、同じ方法に根本的な変革を見出すことはできない。政治的言説のカルト的な反復的自己増殖を引き起こさないためには、反復を一番はじめから、不可能から始める必要がある。

 超自我の声を代弁するのは独特のサディスティックな享楽を伴うが、真に建設的な効果はない。言ってやらせてもそれは真の行為にはならないからである。

 真の行為に進むには、そもそも大他者がもとから不完全であることを知る、〈他者〉からの分離、転移の解消、精神分析の終わりの瞬間が不可欠だろう。真の政治的行為は定義から言って、導き得ないのである。

 

 従って、リベラルな知識人はどうしようもなく愚かで怠慢だと嘆くのは、たとえそれが事実だとしても、大衆はどうしようもなく愚かで怠慢だと嘆くのと同じくらいばかげているのである。

 知識人が責められるべきなのは、大衆の嘆かわしい愚かさが知識人自身の理論の欠陥の投影に過ぎないことを知らないという点だけであって、彼が本分を投げ捨てて盲目的な政治運動に身を投じないことではない。同時に、知識人の不能政治活動家の無力の投影ではないか?少なくとも、真の行為に進む人物を積極的に育成することはできないという点で。

 我々はこの行き詰まりにたいしてActing outで答える前に、もう一度よく考えてみるべきである。なぜならこれは、主体の政治的解放のビジョンとそこに至る手段が直接一致するであろう重要な点なのだから。つまり、真の行為によってしか政治的解放ができないというだけでなく、真の行為こそが政治的解放そのものなのである。