生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

欲動の主体と論語:我仁を欲すれば、ここに仁至る

はじめに、これまでの結論から

 欲動の主体は、ある意味で常に満足している。

 しかし、これを現状追認の言い草として終わらせるのでは全く不十分だ。「夫に毎晩殴られる?しかしあなたはそれで享楽を得ています。あなたが逃げようとしないのは、無意識でそれを望んでいるからだ」などと言おうものなら事態はひどく悪化するだろう。

 我々は先へ進まねばならない。しかし、自身固有の特異的な欲動を探し回る「自分探し」は誤って立てられた問題である。なぜなら、欲動の主体は常に満足しているのだから。例えば、ある人が「私には生きる意味がない、ああ、何かに夢中になれたらいいのに!ヒマラヤに魅入られた登山家や、競技に人生を賭けるスポーツ選手、我が身を滅して人に尽くす宗教家のようになれたら!そこまで行かなくとも、夢中になれる女性やアイドルにでも出会えたら!」と嘆くとき、彼は夢中になれる対象を探すことに夢中になっているのである。

 自分の運命を探してさまようひとびとは、彼の運命が運命を探すという運命なのだと気づくべきなのである。これは現状追認とはどう異なっているのだろうか。ここでは、運命はそれを探すことによって遡及的に措定されるかたちで実現している。すなわち、彼が運命を探さなければ、運命を探すという運命はそもそも存在しなかったことになる。運命を探すことが運命を作り出し、同じように欲動の対象を欲することが欲動の対象となるのである。

 

 欲望の対象は容易には手に入らないが(それが容易に手に入るなら欲望の対象として機能しはしない)、欲動の対象はそれを欲することで常に既に我々のもとにある。この欲することの遡及的な効果をうまく使うことによって、我々は内なる〈他者〉の言いなりになり永遠の不満足に陥るでもなく、無為、放下といった能動性の放棄でもない、欲しいものを手に入れながら生きる道を見つけることができるのではないだろうか。それが現われているのが、論語述而第七-29「我欲仁,斯仁至矣。」であるということがこの記事の主な主張である。

 

欲することの遡及的効果と『ハリー・ポッターと賢者の石』から「みぞの鏡」

 欲することの遡及的効果を説明するために、J.K.ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』に登場する「みぞの鏡」を例えとして使いたいと思う。この有名作品についての紹介は不要だろう。

 「みぞの鏡」は、鏡を見た人の深いのぞみを映す。家族のいないハリーには家族とともに映る自分を、いつも兄たちの陰で霞んでいるロンには誰よりも素晴らしい自身の姿を見せる。この鏡は、主体に理想自我の視覚的なイメージを提供するのである。
 ところでこの「みぞの鏡」は「賢者の石」の最後の隠し場所として再登場する。「賢者の石」は黄金と不死を提供するため、悪者にたいして厳重に隠しておかなければならないのだ(「賢者の石」が物語中で対象aとして機能していることは言うまでもない。「鏡」は主体と対象aを隔てる幻想である)。
 老賢者ダンブルドアの説明では、「鏡」は「石」をただ見つけたい者にだけ「石」を与える。さもなければ、黄金を作ったり不死になった自分の幻想の鏡像を映すだけである。「鏡」は「石」それ自体を目的とする者にのみ「石」を渡し、パトローギッシュな欲望にはただの幻影を返すのである。これは主体の欲望の幻想との関係をかなり正確に表しているように思える。パトローギッシュな欲望の幻想に目をくらまされている間は、対象aに到達することはない。次に引用したのは、物語のクライマックスでハリーがこの「鏡」から「石」を手に入れたときの描写である。
 

青白く怯えた自分の姿が目に入った。次の瞬間、鏡の中のハリーが笑いかけた。鏡の中のハリーがポケットに手を突っ込み、血のように赤い石を取り出した。そしてウインクをするとまたその石をポケットに入れた。すると、そのとたん、ハリーは自分のポケットの中に何か重い物が落ちるのを感じた。なぜか――信じられないことに――ハリーは『石』を手に入れてしまった。

 

 言わずもがな、はじめからハリーのポケットに「石」が入っていて、ただその瞬間まで気づかなかった、ということではない。つまり、立ち入り禁止の廊下に赴く前にハリーが自分のポケットを探りさえすればよかったんだ、青い鳥ははじめから自分の家にいたんだ、ということではない。ハリーが石を手に入れたのは、間違いなく「鏡」とハリーののぞみの効果である。しかしそれは、「つねにすでに」ポケットのなかにあったという形で手に入るのである。これが私の言おうとする、欲することの遡及的な効果の運動である。パトローギッシュな欲望の対象を削ぎ落した「それ」を欲したとき、それは常に既にポケットの中にあったものとして手に入るのである。

 

 余談になるが、ハリーの宿敵ヴォルデモートの手下のクィレルは、鏡に魅入られはしないがしかしまさにそのことによって、「鏡」の持つ機能を見落とす。「『石』が見える……ご主人様にそれを差し出しているのが見える……でもいったい石はどこだ?」「『石』は鏡の中に埋まっているのか?鏡を割ってみるか?」
 彼にとって、幻想を見せる鏡は「石」の単なる物理的な隠し場所なのである。彼は、幻想を注意深く取り除けばほしいものが手に入ると思い込んでおり、幻想そのものがそれを提供するということに思いいたらない。これはちょうど、欲望を排除すれば対象aが手に入ると思い込んでいる禁欲主義の修行者の世界観である。

 

 

子曰:「仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。」*1

いわく、じんとおからんや。われじんほっすれば、ここじんいたる。

論語:述而第七:29 子曰仁遠乎哉章 - Web漢文大系より

 

 ここからがようやく本題である。

 仁とは儒教の根本理念であり、そのなかでも最も重要な徳目である。人を思いやる心、愛、善良さ、寛容で徳のあることなどを表す。仁という字には感覚があること、感受的であることの意味も含まれる*2安冨歩孔子の仁はこの意味であると主張している*3

 ここでは仁について理解するために論語を詳しく読みとくことはしないから、通俗的な解釈を所与のものとして用いることにする。

 

 さて、この論語述而第七-29、「子曰:「仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。」」であるが、解釈を入れずに率直に現代語訳すれば次のようになる。

 

孔子は言った。「仁は遠いかな?(いいや、)私が仁を欲すれば、仁に至るよ。」

(私訳)

 

 短いので、あまり多様な解釈のしようはない。しかし素直に読むとしても、「欲すれば至る」という機序をどう説明するのかが難しいところだろう。よくある解釈は次のようなものである。

 

解釈①仁を欲し、仁を行えば、それが仁である。

 仁は遠くない。それは行動次第だ、というわけだ。四書章句集注には「為仁由己,欲之則至,何遠之有?」、論語注疏では「仁道不遠,行之即是。」という記述がある。いずれも為す、行うという動作が挟まって、仁は仁を為せば至ることができるとする。

 これは無理がなく、常識的な解釈だと言える。しかし、孔子が言ったのは「欲すれば斯に」であって、この解釈では間に行動という段階が入ってしまっている。これをもって既存の解釈を却下するわけではないが、まだ解釈の余地があるように思われるのだ。

 

解釈②仁たらんと決意し様々な努力をすることで次第に仁であるようになる。

 仁は自己陶冶の究極的な目標として語られることも多い。原典となっているテキストにそのようなニュアンスが含まれるかは甚だ疑問だが、論語通俗的な扱いはもっぱら自己鍛錬と結び付けられた儒教の文脈に依存している。これは日本だけでみられる現象ではなく、例えば百度百科には論語のこの部分にかんして「这种认识的基础,仍然是靠道德的自觉,要经过不懈的努力,就有可能达到仁。这里,孔子强调了人进行道德修养的主观能动性,有其重要意义。(DeepL訳:その基礎となるのは、やはり道徳的な自己意識であり、たゆまぬ努力によって「仁」を獲得することができるのです。 ここで孔子は、道徳的な修養を行う上で、人間の主体的な取り組みが重要であることを強調している。)*4」という記述がある。

 しかし、このような解釈は、仁を永久の自己鍛錬を要する特質として、不可能な欲望の対象としてしまう。そこでは多くの人が志半ばで死んでいくことになろう。これでは孔子の思想は、「お前が仁でないのは根性が足らんからだ」というような通俗道徳的な抑圧の言説に容易に堕してしまう。

 ここでは、「仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。」の実質的な意味は、「千里の道も一歩から」に回収されてしまう。それでは、この仁遠乎哉?の反語の意味が失われてしまうので、解釈として好ましくないと思われる。

 

解釈③すでに仁である人が仁であろうとすることができる。仁を欲するのは仁である証である。

 このようにして前後関係を逆転させて説明を試みる解釈が示すのは、決定論的世界観である。そこでは、そもそも仁でない人はどうしようもない。

 もちろん、人は生まれながらにして仁であるのだ、その素養があるのだ、と主張することは可能だ。しかし仁をその素養と発揮に分割して考えたところで、結局仁の発揮の機序としては解釈①,②に回収される以外にはないだろう。

 

ここでの私の解釈:仁たらんと欲することこそが仁である。すなわち、仁を欲すれば、ほかならぬ欲することによってすでに仁となる。

 この解釈は、仁を欲するというまさにそのことによって仁が実現するというものだ。例えば、「人にやさしくしたい」と思ったのならその人はすでにやさしいと言えるだろう。

 解釈③との違いは、因果関係の順序にある。③では、仁であるがゆえにそれを欲する(やさしいからやさしくなりたいと思う)のだが、ここではそれを欲するがゆえに仁なのである(やさしくなりたいと思うからやさしい)。仁たらんと欲することで遡及的に仁であることを発見するが、仁たらんと欲すること抜きには彼は仁ではないのだ(やさしくなりたいと思わなければ、やさしくない)。

 同種の遡及的効果は、マルクス主義の歴史の叙述において多く見られる。例えば、革命の正当性は革命によってはじめて明らかになる。革命なしにはその革命の正当性は存在しない。スターリンの冷酷さは大粛清等々によって元からそうであったかのように明らかになるが、大粛清抜きのスターリンはそもそも冷酷でない、等々。これらは単に視点の誤りによるものというよりも、決定論や運命論に対して主体的に歴史を遂行することの優位を強調するものである。

 同じように、仁たらんと欲することは彼がもともと仁であったかのような現実を作り出すが、彼が仁であるのはほかならぬその仁たらんと欲することによってであるというようなことが言えるのだ。

 

 この欲することの遡及的な効果が仁に限定される理由はないだろう。愛したいと思うことはすでに愛なのだ、人間になりたいと思うこと自体が人間以上に人間的である、などの言い古された文句に見出すべきは、妖怪人間の悲劇性だけでなく、欲することの持つ主体の能動性の次元なのである。人間になりたいと思う妖怪は人間以上に人間的だが、人間になりたいと思うこと抜きには、その妖怪はただの妖怪である。人間になりたいと思うかどうかという意欲の問題は、100%その者の内的な自由に委ねられている。

 ここに私は自由の光を見る。この次元でこそ、決定論による受動的な生でも、永続的な不満足と闘争の生でもない、自律と自己決定のもとでの十全なる生が可能ではないだろうか。我々がそれを望む限り、まさにそのことによってそれは我々の手のなかにあるのだ。そしてそれは、まさに望むことによって支えられるのであるから、欲求のように満たされて終わることはなく、満たされたまま永続的な欲動として機能するのである。