生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

思想遍歴

 人の考えというものは、単純に捉えられるものではない。多くの場合、複数の相矛盾する考え方が複雑に絡み合っているし、それを自分でも正確に捉えられていないだろう。私の思想遍歴も、単線的に説明できるものではない。さまざまなエッセンスが時をまたいで私に影響を与えている。参考資料として、何が私に影響を与えたか、覚えている範囲でできるだけ時系列順に挙げてみることにする。

 

歴史上の人物 聖徳太子曹操徳川家康

 私は「まんが日本の歴史」などを読むような子どもで、幼いころから自分なりの信念を持っていた覚えがある。中でも好きだった人物が上の三人で、多くの人の話をよく聞き、冷徹で合理的に人を動かし、それでいて我慢強く穏やかな人間が最終的には破滅を免れ太平を手にするのだ、というふうに思っていた。もっとも、それらの人物のエピソードが歴史的に真実かどうかは疑いがあるし、自分の勝手な印象でもあるから、これは歴史から学んだというよりも歴史を基にしたフィクションや言い伝え、社会的な受容から受けた影響と言うほうが正しい。とはいえ、当時の私がそのような理解をし、今に至る考え方の土台として長く影響を受けていることは事実である。

アニメ『エレメントハンター

 2009年~2010年にNHK教育テレビで放送されたアニメ『エレメントハンター』は、私にとって初めて触れた長編テレビシリーズのSFアニメだった。科学キッズだった私にとって元素を題材としたアニメは魅力的だった。それだけならばただの面白いアニメの一つとして思い出に残るだけだったのだが、このアニメは私に後々にわたる二つの大きなテーマを提示した。

まっすぐに延びたこの白線を

踏み外さないように歩くのは

もう未来をひとつ捨てているのと

同じじゃないか・・と微笑う

 これは、同アニメのオープニング曲、石川智晶「First Pain」の歌詞の一部である。この曲はずっと記憶に残り続け、ことあるごとに思い出していて、未だに消化しきれていない。どのように生きるべきか(あるいは死んでもいいじゃないか)という大きな問題に対し、「痛みを噛み締め」、「答えは出さない」。それでも「生きて」と歌うこの曲は、態度としてとても正しく崇高なものだと思う。しかし、それがなぜ正しいのか、私はまだ明確に分かっていない。

 アニメ最終盤、第38話で主人公たちは「11次元」の世界に侵入する。そこはイメージが具現化する世界だった。主人公たちはイメージによって力を手にし戦い、それによって現実世界も影響を受ける。

 イメージが具現化するという発想は映画「マトリックス」に代表されるようにSFではベタなのかもしれないが、私にとってはこのアニメが原体験になっている。そして、本当にイメージが具現化するとしたらどういうことなのか、それはどのような世界になるのか。それは理想の世界足りえるのか。そういった空想が、自由な理想に向かって私を解き放っている。

陰謀論

 3.11東日本大震災のショックから、陰謀論やスピリチュアルに走る人は多かった。私もその口であった。災害は、私に「この世界はまやかしだ」という直感をもたらした。その直感に対するもっとも安直な結論が陰謀論なのだ。陰謀論は、既存の認識の手段そのものに疑義を唱える。科学的な事実認定の作法を知っているだけでなく、その作法の意味を知らなければ抵抗できない。とくに原発事故では、政治家や科学者たち自身がこの科学的作法を破壊してしまったので(「直ちに影響はない」、「爆破弁」、SPEEDI隠蔽など挙げればきりがない)、陰謀論はなおのこと浸透したのだろう。私が陰謀論から脱却できたのは、いよいよ宇宙人や異次元人が登場して、私の生活世界とは関係のない議論に行きついた、思想上の「底つき」とも言うべきところへ行きあたってからである。いてもいなくても私の判断を変えることがないような超越的な存在は問題ではないのだ、ということに気が付いたところから「今・ここ」論にハンドルを切った先に実存主義と出会うことになる。

自然派

 ここでは反近代文明、自然回帰を志向するものを自然派とくくって呼ぶ。自然派にはグラデーションがあり、有機農業や自然農法、里山資本主義など比較的穏健な活動から反近代医療、反ワクチン、反5G、陰謀論に接続する過激なものまである。本来は十把一絡げにするべきではないのかもしれないが、通底するのは近代技術とこの社会に対する異議申し立てと、自然を中心としたオルタナティブの模索の運動だということである。

 私の場合(もとから炭酸飲料など飲まないタイプの家庭に育ったのだが)、やはり3.11をきっかけに自然派により傾倒するようになった。それまでは近代文明に軸を置き自然的な生活を志向していたものが、反近代に軸を置いて近代的な生活をするようになったのが3.11をきっかけとした変化といえるだろう。

仏教

 私は特定の宗派の仏教徒ではない。しかし、仏教的な考え方のエッセンスは間違いなく入っている。父の影響で幼少期から触れる機会が多かったし、一時期はかなり仏教に接近して高橋信次の『人間釈迦〈1〉偉大なる悟り』を読んだりもした。身を修めることの重要性はよく分かる。自身の行いを省み、それの原因を突き止めることは、非常に重要だ。しかし、教えとしての仏教は生きる意味・目的という難題を"(この世ではない)あの世"に委ねることによって検証不可能な形で解決してしまっている。あるいは、生きる意味などないのだと説くのだが、「意味などないのだ」という境地から「それでも生きる」に至る部分はどうにも明確ではない。なにより、世界からの解離は自己否定の一種でしかないのではないか。私は霊魂である以前に人間である。私の仏教理解は誤読に満ちているのかもしれないが、しかし誤読を許すような曖昧さが仏教にはあるように見える。これが私が仏教に救いを求められなかった理由である。

実存主義

 実存主義という分野とは、NHK高校講座の倫理の授業で出会った。そのときの題材はキルケゴールニーチェだった。結局この二人については深く学んでいないのだが、言葉と出会うのは大事である。関係する資料を調べられるようになるし、人と話せるようになる。独自の「今・ここ」論は歴史的文脈に位置づけられ、より明確かつ洗練された過去の議論によって大いに前進した。今思えば、実存主義との出会いが、空想・超現実的な世界観に向かっていた私を現実のほうへ向き直させるターニングポイントだった。実存主義という分野から行きついたのはハイデガーだった。

ハイデガー技術論

 ハイデガーの著書そのものは難解で、理解したと言うことは到底できない。しかし、ハイデガーとの出会いは誰にとっても強烈なものだろうと思う。数ある関連書籍のなかの一つでハイデガーの「総駆り立て体制」という一語を知った時、私は初めて自分の抱える違和感を説明する言葉に出会った。浅はかな理解でハイデガー用語を振り回し、自分の中のモヤモヤをバッタバッタと切り倒す気分は爽快だった。同時に青年にとって言葉や概念との出会いは、自分が歴史のなかで孤独ではないのだと実感する出来事でもある。金鉱脈の端緒を見つけた気分になった私はこれ以降、より確実な概念と言葉を求めて、哲学や社会科学の大著に挑むようになる。

マルクス主義

 現実に不満を持ち、その原因を社会に求める青年ならば誰しも、マルクス主義を一度は経由するだろう。やはり私も、『共産党宣言』と『資本論』、それからレーニンの『国家と革命』を読んで「革命しかない!」という気分になる。しかし、当時と現在では情勢が違うし、自分は搾取に苦しむプロレタリアではなくモラトリアムを享受しているブルジョワの子だから、現実的なとっかかりを持たなかった。さらに言えばマルクス主義は、近代文明上における資本主義のオルタナティブであって近代文明に対するオルタナティブではない。自然派に傾倒していた当時の私にとってマルクス主義は、そこまで魅力的なものではなかったのだ。

サルトルマルクス

 とはいえ、マルクスの論はおおむね正しく思えるし(とくに人間の疎外の問題においては共鳴できた)、おそらくこの周辺に正解があるのだろうとマルクス関連の著作を読み漁っていた。そんなときに出会ったのが北見秀司『サルトルとマルクス〈1〉見えない『他者』の支配の陰で』である。この書は、サルトルの詳細な解読によって近現代の様々な思想への(おもにサルトル批判に対する)返答あるいは和解を試み、政治的展望の形成を試みるものである。最終的にはこの書が私に言葉を与えてくれたといっても過言ではない。私の独自のジャーゴンまみれの内的言語は、少なくともその筋の人には通る外的言語に翻訳され、インターネットでの検索が可能になり、現代諸哲学への展望が開けた。サルトルの「実践的惰性態」という概念は、望んでいたはずの活動がいつの間にか自分の自由を奪っているという現象、そのようなつかみどころのない実感について統一的な説明を与えた。人間の自由を基礎とした社会を目指すべきだという確信を与えてくれた。これらのことは私の中で大きな意味があり、以降、私はこの本をベースに周辺の近代思想を理解していくことになる。

サルトル実存主義の視座

 サルトル実存主義の視座の何が私にとって魅力的で、取り入れるに値すると思われたのか。私にとってサルトル実存主義は、徹頭徹尾「私の」ものに感じられた。むしろ、精神分析マルクス主義にある説明されない胡散臭さ、全体性のなさ、人間を対象客体にしてしまいかねない危うさが、実存主義には感じられなかった。必要なのは、科学的な言葉でもなく言葉の分析でもなく、私の言葉なのだ。私はイデオロギーや科学の番人になるのではなく、私自身を生きたいのであり、本質的にそれ以外にあり得ないのだ。ともすれば窓から身を投げてしまいかねない法外な自由を前にして力のある言葉はそう多くはない。そして人間を社会的あるいは生理的システムの奴隷としてではなく自由な人間として理解するためにもまた、サルトル実存主義だけが有効に思われた。多くの哲学者が人間を様々に分析したが、問題は私が人間として生きているという重大事なのである。

安冨歩

 女性装の東大教授として知られる経済学者・安冨歩は、幅広いテーマで縦横無尽の議論を展開し、八面六臂の活躍をしている。そのどれもが現代社会の重要な課題に答えんとするものである。

 私は、サルトルから抽象的・普遍的な人間観を得たとすれば、氏からは具体的・特殊的な視点を得たと言える。氏は『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)』の中で「選択の自由」という概念の不条理さを明らかにしこれを否定している。一方、サルトルこそ自由の不条理さを説いた人だと言えるだろう。同書の中に提示されているフィンガレットの「自己欺瞞」はサルトルから影響を受けている。また、幼年時代が人格に及ぼす影響についても両者は言及している。サルトルの文章は文学的な表現によって伝えようとしており言葉の感触は分かるが読み解こうとすると難しい一方、氏の文章はさまざまな研究に言及し内容が高度なわりに易しい。サルトルの感触をもって氏の文章を読むと、私にはしっくりくるのである。

 「ハラスメント」や「立場主義」の論の中で語られる近代社会の歴史は私に、私自身についての弁証法的視点を与えた。これがなければ、私は依然として陰謀論的な歴史観に閉じ込められていただろう。あるいは未だに上空飛翔的に、ヨーロッパの視点で日本を眺めていただろう。私が社会的な存在であるためには、私は私の歴史の中で語られなければならない。私の歴史は20世紀のフランスではなく21世紀の日本にあるのだ。