生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

年末年始、暦、区切ること。儀礼的な所作の意義

 年末の大掃除だとか、新年の抱負だとか、そういった季節のイベントが好きではなかった。普段からやったほうがよいことは普段からやればよい。日々は続いていくのに、わざわざ特別な日をつくって区切りをつける意味が理解できなかった。

 

 しかし、平坦な日常を過ごして気づく。いつかやったほうがいいこと、いつかはやらねばならぬこと、でも今日やる必然性のないことは、永久に先延ばしにされる。「こういう機会でもないと」という言葉があるように、いつやっても良いものは逆説的に実現せず、偶然的に決められることで初めて可能な出来事があるのである。

 文化の役割とはこのような、必然に必要な偶然を提供することである。挨拶や儀礼もまた、国によって異なる偶然的な振る舞いである。しかし、何か特定の恣意的な振る舞いがなければ、友達を作ることすらままならないのである。

 思うに過去の私は、文化をリテラルに捉えすぎていたのである。文化の意味は、その言表や行為の内容ではなく、機能の方にあるのだ。だから、儀礼的な文句の中身が戯言だったとしても、依然として意味があるのである。

 

 連続的に変化する季節を儀式によって区切る文化は、年がら年中頑張らなければならないという超自我から人を解放する。それは精神分析における「去勢」の効果を持つのだ。

 去勢を否認したひきこもりは、この超自我に由来する焦燥感と罪責感に四六時中苛まれながら、実質的には何もしない状態のもとに置かれる。彼らがこの状況を脱するには、暴力的な(つまり外部からの、偶然の)きっかけが必要である。

 〈父の名〉(≒象徴的去勢)はそれを受け入れる限りで、それなしで済ませることができる。なぜなら、儀礼は実質的な意味内容を持たないからである。自己完結したひきこもりの生活を手放して、土着の文化社会に身をゆだねても、ひきこもりが恐れるような実質的な変化は何もない。なぜなら文化は、その内実は無だからである。

 

 上に書いたことは、事実だと思う。しかし、こうした機能主義的説明は、イデオロギー的幻想である。文化は実利的だが、実利主義は文化の猥褻な裏面を覆い隠している。

 我々が実利を取ることで実際に起きていることは、文化の再生産である。我々は文化の内容が無意味だと知っている。だがやっている。

 そして前言を翻すようだが、私はひそかに疑っている。儀式は単なる空虚な儀式ではなく、空虚な儀式のふりをした洗脳行為ではないか。形式的な偶像崇拝は、いつしか身体化され、思想に反映される。神仏でも天皇でも総書記でも構わないが、シニカルな偶像崇拝の実践がいつしか本物の信仰に転化するのは良く聞く話である。サラリーマンの形式的なビジネス仕草もまた、サラリーマンの精神を作っているのではなかろうか。もしそうだとしたら、バカげていて、恐ろしい話である。

 

 儀式を本気で行うのは、明らかに盲目な信仰心である。しかし儀式を実質的な意味のない儀式とするのもまた間違っている。儀式の無意味さには意味がある。そして、儀式の無意味さの意味は、ある種のイデオロギー的幻想を構成している。私たちはそれに意味を感じて儀式を行うのだから、盲目な信仰心と変わらない。神仏を信じる代わりに実利を信じているだけだ。

 正気と狂気は紙一重だ。しかしこのような安直な結論は相対主義の無力を表している。私たちが求めるべきは誤った二択の外にあるものである。つまり、内容的にも形式的にも正当化可能な儀礼である。