生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

君はもうあの唄を聴いたかい?――白紙革命運動によせて

 2022年11月下旬に突如爆発したかに見えた中国広範囲における一連の騒乱は、ゼロコロナ政策の緩和によって一端の落としどころを見つけたように見える。中国国内の大学などで未だ散発的な抗議活動が起きていることはSNSを通じて垣間見えるが、いずれも体制を揺るがすようなものではない。

 グレート・ファイアウォールの外側にいる我々には馴染みがないが、そもそも中国人民には大衆運動の伝統が根付いている。群体性事件と呼ばれるそれらのデモ、ストライキ、集会等々は、百度百科の記載に拠れば、1993年から2003年の間に1万件から6万件に、参加人数が73万人から307万人へと増加しており、決して珍しいものとは言えない。近年でも、例えば恒大集団の債務不履行の際には債権者らが集団で抗議を行っていたのは記憶に新しい。中国の人々の間で社会運動・大衆運動そのものがタブーというわけでは決してなく、むしろ荒波を乗り切って生きていくためには、氏族や友達、仲間たちと結託し、理不尽には抗議し、自分たちの食い扶持を守っていかなければならないのである。

 従って、中国国外における「白紙革命」の扱いは、おおむね過大評価と言える。白紙革命は決して「中国共産党独裁の終わりのはじまり」でも「これまで沈黙していた人々が声をあげた」のでもない。そして彼らが勝ち取ろうとしている「ゼロコロナ政策からの自由」さえも、西側メディアが称揚するほど良いものではないのである。

 しかしそれでも、白紙革命は重要な契機になるであろう出来事である。そして、その影響の地平は、中国人だけにでなく我々にも開かれている。フランス革命に対してハイチ革命があったように、2019年香港デモの経験が2022年白紙革命へと受け継がれたように、白紙革命のエッセンスが未来の日本で芽を出せるように、〈呼びかけ〉として白紙革命を描いてみたい。とりわけ、白紙革命に対する評価を、日本国内の反中主義、日和見中立主義・客観主義・相対主義ブルジョワ自由主義といったどん詰まりの言説に委ねてしまわないことが主な狙いである。

 

Do You Hear the People Sing?

白紙革命の経過と到達

白紙革命前史

 白紙革命には、その前兆となる出来事(正確に言えば、事後的に、遡及的に前兆となった出来事)が存在した。多くの人びとは既に長期にわたるロックダウン生活に嫌気がさしていたし、突然の封鎖で食糧が枯渇したり、陰性証明がなく病院にかかれないなど、命に係わる不便にも直面していた。SNSでは不満と怒りが広がり、当局はその都度対応しなければならなかった。

 2022年11月13日、中国共産党の全国代表大会を三日後に控える中、何者かによって北京市内に習近平体制を痛烈に批判する横断幕が掲げられた。この話題は中国国内でも検閲をかいくぐりいくらか広がりを見せたが、横断幕が呼びかけていたストライキは行われず、直ちに反体制運動が爆発することはなかった*1。この時点では、この抗議は「どうせ何も変えられない」というシニカルな絶望によって、悲劇的な反逆として受け止められていたのだ。

 中国人民は抑圧を受けつつも、理不尽にたいしては怒りの声を上げ、当局や企業との綱引きのなかで生活を守り生きている。そこでは、怒りは日常的な経済の一部であり、秩序の裂け目をつくり出す解放的な革命の力としては発揮されていない。彼らは生活を守るために抗議するのであって、弾圧されて死んだり、社会体制を崩壊させるためではないのだ。

革命の次元を開いた悼念

 しかし、そのような抑圧と怒りのゲームを引き裂いて白紙革命は勃発する。

 白紙革命の直接の引き金を引いたのは、11月24日に発生した新疆ウイグル自治区ウルムチ市におけるマンション火災である。コロナ対策のためマンションが封鎖されており、避難と救助が遅れたこと、事故後の会見で当局がマンション住民に責任転嫁したこと、公では死者10名とされているが実際の死者数が隠蔽されているのではないかという噂。これらがSNS上で拡散され、人々の怒りを買った。この事件について、検閲による削除が行われ、これも人々の怒りを招いた。

 そして11月26日、南京電媒学院での白紙を用いた抗議を皮切りに、以降各地の大学や高校で連鎖的、同時多発的に抗議行動が起こる。並行して、新疆ウルムチ市内での追悼集会、上海市ウルムチ中路での追悼・抗議集会など、学外での運動が発生。上海の抗議活動では、「習近平退陣」「共産党退陣」といった、直接的な反体制のシュプレヒコールも起こった。次ぐ27日以降、ロックダウンが続く湖北省武漢市、広東省広州市などで人々が路上に繰り出し、バリケードを突破する。*2

 このような連鎖的・同時多発的な運動は、SNSによって高速化した情報流通によって可能になったと言えよう。しかし、それだけでは全国的な抗議運動、それも体制転換までを要求に含んだ蜂起は起こらない。そこには、何らかの普遍的で根底的な次元が介入している必要がある。

 その役割を果たしたのが、ウルムチでの火災事故である。ウルムチの火災事故は、人々を日常の経済から引き離し、消された死者への同一化を可能にしたのである。

 ウルムチの火災事故の犠牲者は、国の政策によって間接的に殺されただけでなく、正当に弔われもしなかった。ウルムチ市消防救援支隊長は事故後の記者会見で、犠牲の原因を犠牲者自身の能力不足に帰した*3。死者数隠蔽の噂もあった。死んだだけでなく死を隠蔽された人は、その存在を消されたことになる。

 これらの死者への共感、同一化は、利益ではなく名を賭けた、徹底的な闘争を可能にする。それはちょうど、クレオンに対するアンティゴネーと同じである。

 スラヴォイ・ジジェクの言葉を借りれば、彼らは二つの死――肉体的死と象徴的死の間、不死の次元に存在するのである。犠牲となった人々は正当に弔われなかったために、負債の返還を求めて復活する。そして、自由のない市民、象徴的生を持たない生もまた、二つの死の間の、ゾンビ的存在である。この境地に至って初めて、「自由を、さもなくば死を!」という全面的な革命が始まるのである。

大文字の他者習近平を信じなくなった人たち

 さてしかし、誰もがアンティゴネーというわけではない。各地の蜂起はもちろん、その場の勢いであったり、他の都市の運動の便乗だったりによっても起こっている。とくに、バリケードを破壊し治安部隊と衝突する労働者の集団は、日ごろの憂さ晴らしも兼ねているのだろう。

 しかしそこには、ある重要な不可逆的変化が含まれている。ゼロコロナ政策の撤回を求め、バリケードを破壊し、習近平退陣を叫ぶとき、もはや誰も〈大文字の他者〉=習近平を信じていないのである。

 中国におけるこれまでの民衆運動・抗議活動には、「現場の下っ端官僚は分かっていないが、抗議すれば共産党の偉い指導者がやってきて正してくれる」というコンテキストが含まれていた。それだからこそ、民衆は抗議活動にお目こぼしを貰ったうえ実利を得、共産党は人民の信頼を得ながら汚職官僚や政敵を追放し体制を固めることができた。民衆による抗議は、ある意味では共産党の指導体制強化に一役買っていたのである。

 しかし、人々が共産党退陣を要求するとき、もはやこのゲームは機能しない。

 そして、例え今後の処理を共産党が首尾よく行い、信頼を取り戻したとしても、もはやそれは「うまくやっているから支持する」という条件付きの信頼でしかない。暗黙に存在した「訴えればうまくやってくれるはずだ」という無条件の信頼は、永遠に失われたのである。

 この大他者を追放する経験は、民主化と議会制の導入のために欠かせない契機である。そしてこの契機こそ、今に至るまで日本に欠けているものであり、我々の民主主義が機能不全である所以なのだ。

中華主義の自覚的乗り越えの兆し・香港台湾との連帯

 白紙革命は、国外の中国人たちにも飛び火した。世界中各地の大学都市でウルムチ火災の犠牲者追悼と中国共産党の人権抑圧・独裁体制を非難する集会が開かれた。日本国内においても、東京や大阪で100人規模の集会が開かれるなど、一定の存在感を見せている。

 これらの中国国外における運動は、さまざまな条件から独自の困難を抱えている。そもそも中国人留学生の多くは社会運動が未経験であることに加え、中国公安への対策として香港デモから受け継いだ"Be Water"というリーダーなし組織なしの戦略で、十分な準備が難しい。運動慣れした反中主義者に集会をジャックされたり、乗り込んできた親中派といざこざが起きたり、社会運動としては決して洗練されているわけではない。

 しかしそれらを差し引いても、白紙革命には歴史的な進歩が見て取れる。ある者は自由のための周辺国民との連帯を訴え、またある者は父権打倒を訴えている。

 

安田峰俊氏は中国事情に詳しいルポライターで、社会運動についても香港デモのときから継続して取材を行っている。文春オンラインに掲載された白紙革命に関する最新記事「大学に申請しなくていいの?」大阪の“総領事館突撃”集会…気弱な中国人留学生に密着して見えた革命の正体 | 文春オンラインは必読である。

 

 もちろんこうしたラディカルな主張は、比較的豊かな階級のリベラルな若者に多く、中国本土の人々を代表したものではないと言うことはできる。しかし、進歩的な革命家でさえ民族主義を思想の基盤としていた20世紀に比べて、時代精神が明確に前進している証でもある。こうした進歩が、運動として表面化したことは特筆すべきである。

 とりわけ、台湾・香港・ウイグル人民との連帯を掲げることは、中国に根深く残る中華主義漢民族主義を克服する重要な契機であって、白紙革命に東アジアの未来における歴史的な位置づけをもたらしている。香港デモにおいて顕在化した香港人と中国人の確執もまた、この白紙革命によって乗り越えられうるものとなっている。

 我々は東アジアに住む者として、中国の若者たちの身を挺した〈呼びかけ〉に是非とも応えなければならない。それは、権威的体制を恐れて軍備を拡張するのではなく、人々と手をとりあい、自由・平和・平等を求めるものでなければならない。我々が自らの身の安全を顧みて彼らの〈呼びかけ〉を裏切れば、中国の精神は再びパラノイアに囚われ、東アジアの未来に暗雲をもたらすことになろう。

 

白紙革命の勝利では片付かないリアルな問題

 ここからは、現時点での白紙革命の要求が実現したとしても残るであろう、現実的な問題について考えていきたい。

 西側諸国からの白紙革命に対するまなざしは、実のところ西側自身の抱える問題を不可視化することで-不可視化するために存在している。旧西側に拠点を置くさまざまな勢力――反共右翼から新左翼までが、白紙に自分の色を付けようと試みているが、そのような姿勢は無責任であり、非礼である。そのような態度では、我々自身が犯している失敗を白紙革命にも負わせることになりかねない。

ゼロコロナ政策緩和は新たな地獄のはじまり

 白紙革命の主要な焦点の一つは、ゼロコロナ政策の扱いである。感染対策のための厳しい都市封鎖がもたらす影響は人々の忍耐の限界を超えつつある。それは大衆の蜂起という形で現れ、当局は政策の緩和を迫られている。しかし実際に感染対策が緩和されれば、我々は新たな問題の局面に突入する。ゼロコロナ政策の緩和の要求を当局が飲めば、白紙革命運動にとっても、また一般的な感染防護の意味でも中国人民に困難がもたらされうる。

最も有効な反対派潰しは、その要求を聞いてやること

 一般的に言って、社会運動に最も打撃を与える方法は、その目下の要求を聞き入れてやることである。

 ある種の挑発として掲げられた要求を速やかに飲んでやれば、運動は振り上げたこぶしの下ろしどころのない急進派と、目下の要求実現で留飲を下げる穏健派に分裂する。分断すれば、弾圧と投獄もたやすいものになる。

 白紙革命においても、ゼロコロナ政策緩和で満足する大衆と、習近平退陣をあくまで追求する過激派に分裂することが予想される。国外の運動支援者もまた、どのように闘い続けるか問われることになる。中国のゼロコロナ政策緩和は、運動の存続の面では到底手放しでは喜べないのである。

中国のゼロコロナ叩きをする西側メディアの欺瞞

 白紙革命を取り上げる西側メディアは、もっぱら中国のゼロコロナ政策を失敗扱いしている。しかし本当に中国の防疫政策は失敗だったのか?西側に中国の防疫政策を失敗と断ずる資格があるのだろうか?

 統計を見て比較してみよう。COVID-19 Dashboardによれば、12月10日12:58 AM UTC+0時点で中国の累計感染者数は357,716人、累計死者は5,235人である。致死率は1.5%と高めに出ているが、これは初期武漢における高致死率が影響している。人口当たりの感染者数を表すIncidence(累計感染者数/人口×1,000,000)は、249と国家としては西サハラに次いで世界で二番目に低い値となっている。人口当たりの死者は約0.0003%と諸外国に比べて極端に低い。

 これに対し、例えばアメリカは累計感染者数が101,250,527人、累計死者が1,109,659人と、統計上把握されているだけでも人口の3割が感染、約0.33%がコロナによって死亡している。ヨーロッパの主要国に目を移せば、イギリスで累計感染者数24,024,746人、累計死者197,253人、フランスが感染者38,396,939人、死者159,611人、ドイツでは感染者36,726,061人、死者158,851人となっている。いずれも人口の3~5割が感染しているが、フランス・ドイツにおいては感染者当たり致死率が0.4%と低く、人口当たり死者は約0.24%となっている。ちなみに日本では、累計25,815,600人感染、51,303人が死亡しており、統計的に把握されているだけで人口の2割が感染、人口の0.04%がコロナで死亡している。

 このように、数字だけ見れば中国は圧倒的に優秀な成績である。途中から開き直った戦略に移行したとはいえ、結果として新興感染症が人口の10%のオーダーに感染させてしまったWHO以下世界のCOVID-19への対応は、優秀であったとは言い難い。

 世界は、ロックダウンによる初期封じ込めに失敗し、次いでワクチンによる殲滅にも失敗し、今や新型コロナウイルスとの共存が図られている。しかし、アメリカやイギリスにおいてはLong COVID、コロナ後遺症による労働力不足が社会問題化*4しており、ウィズコロナ政策によって今後もたらされる影響は未知数である。また、ウイルスが野放しである以上新たな変異株の脅威は常に存在する。

 Covid-19発生当初、ロックダウン下の市民は世界中どこでも励まし合った。今は皆疲れ、怒っている。しかし、人類はいまだ社会的な協力に基づく防疫政策を必要としている。10億の人口を抱える中国が防疫政策を放棄すれば、人類史的な悲劇の引き金を引きかねないのであって、不用意に彼らを開き直りに追いやってはならない。

 中国のゼロコロナ政策緩和を求める世論の背景に、カタールW杯におけるマスクなし・社会的距離政策なしのバカ騒ぎがあるとされている。しかしこればかりは、気が狂っているのは習近平ではなく国際社会のほうである。カタール当局は、国内におけるワクチン接種の進行と感染者数減少を理由に開催を問題視していないが、国際的な防疫政策に対する影響は明らかに考慮されていない。

 2021年に開催された東京オリンピックがデルタ株AY.29を複数の国に拡散させた可能性が高いことがのちの研究で明らかになっており*5、国際的イベントは地域的な変異株を交換・拡散し、ウイルスに対して変異と適応の機会を与えかねない。その開催に当たっては疫学的観点から十分な検討が必要なはずであるが、それがなされているようには到底見えない。

 西側のメディアは中国の過剰な政策を批判するよりも前に、自身の拠って立つ国の脆弱で不十分な政策を直視すべきである。大は小を兼ねるのであって、防疫政策においては、過剰であるよりも過少であるほうが罪深い。自由主義の原則を持ち出して云々する人々は、感染症災害が市民的な協力を要請するリアルな出来事であることを忘れているのである。

中国のゼロコロナ政策事情と白紙革命の要求

 とはいえ、人民の不満を招き、大衆の実力行使によって政策を解除されてしまった以上、中国のゼロコロナ政策は失敗だったと言わざるを得ない。彼らは感染の制御にはある程度成功したが、かえってそれ以上のものを、人心を失っていたのである。何がこの失敗を招いたのだろうか。

 ゼロコロナの大方針を退けるのは明らかに雑な分析である。封じ込めと殲滅は感染症対策の基本的な考え方であり、原則的に正当な方法である。社会的諸条件の緩い口蹄疫鳥インフルエンザなどの家畜伝染病対策では、発生区域内の媒介動物の殺処分・殲滅がその主要な手段である。感染可能性のある人間を殺処分しないのは、それが人権の重大な侵害に当たるからであって、感染対策上有効でないからではない。

 中国の新型コロナウイルス対策におけるロックダウン・封じ込め策は、初期~中期においては相応の効果を挙げたと言えよう。2020年初頭の武漢における危機的な感染拡大の後は感染の封じ込めに成功し、一時期は国内感染者なしの状態を維持した。ロックダウンに対しても当初は国民の理解と協力が得られ、食糧の配給なども行われた。鼻から新興感染症に勝つ気のなかった日本政府・厚生労働省の対応と比べれば、武漢における発生当初の事態隠蔽はあったにしろ彼らは十分に科学的な対策を行った。

 白紙革命に直結する失敗は、2022年以降の感染対策の手落ちにある。例えば、上海における感染拡大と都市封鎖がある。上海では突然ロックダウンが始まり長期化したことで食料品が不足するなど住民が困難に見舞われた。ロックダウンは、扉を施錠したり溶接したりといった過剰な物理的封鎖にまで及んだ。これが上海での白紙革命運動に至る人々の怒りを生み出した。

 武漢では合理的に行われていた対策も、上海では非合理的なものになっていた。武漢におけるロックダウンは代表者による買い出しが許可され、周辺地域から届いた支援物資の配給も行われたが、上海ではそれも禁止された*6

 この究極的な原因は、硬直化した共産党・官僚組織体制である。武漢においては突然の事態に流動化した組織によって臨機応変に合理的な対応が組まれたが、2022年の感染拡大においては、習近平の強硬な姿勢がメッセージとなって、官僚や党役員は人民の声よりも懲罰人事を恐れるようになり、硬直的な対策システムをより頑ななものにしてしまった。国民とのコミュニケーションも、武漢の時は国難を乗り越える仲間として呼びかけられていた声が、上海では抑圧と怒りの声に変わっていた。

 白紙革命は、こうした背景の下で行われている。次のTweetに見られるように、新型コロナウイルス対策の文脈における彼らの要求は西側メディアが報じるようなウィズコロナ化ではなく、過剰な対策をやめ、合理的な感染対策に切り替えることである。

 こうした要求に対し、中国当局が良好なコミュニケーションを回復しないまま対策を緩和すれば、市中感染を制御する術はなくなり、大規模な感染の拡大が予想される。感染を野放しにして大量の死者が発生すれば、それはそれで暴動沙汰になるであろうことは想像に難くない。国家は国民に対して責任を負っているのであって、国民にはそれを要求する権利がある。白紙革命は、公衆衛生におけるアナキズム運動ではなく、民主的なコミュニケーションに基づいた感染対策を求めているのである。

自由の担い手は誰か

 白紙革命は、西側の左右両翼の様々な勢力から歓迎されている。自由を求めて暴政に抗う人民の意志を誰もが称賛するが、その意図は必ずしも同じではない。

 反共主義者は、中国共産党への反発に共鳴しているにすぎず、

 反中主義者は、中国の自己破壊としての革命を歓んでいるにすぎず、

 ウィズコロナ論者は、ゼロコロナの牙城の崩壊を歓迎しているにすぎず、

 リベラルは、自由民主のお題目によって称賛し、

 新左翼は、人民の蜂起というだけで無条件にはしゃぎ、

といった具合である。

 彼らは自由の意味と担い手を巡って互いに争っており(反共主義者にとって「自由」とは共産主義ではないことであり、リベラルにとって「自由」とは社会のなかで自由権が守られていることであり、新左翼にとって「自由」とは社会の軛から内的にも外的にも逃れていることである等々)、白紙革命をもヘゲモニー闘争の戦場にしかねない。この争いに巻き込まれないために、そしてまた西側におけるこの争いを正しく調停するために、いったい何が争われているのかを明らかにしておく必要があろう。

西側反動右翼・リベラル左派の自由を巡る奇妙なねじれ

 近代史は、共同体主義自由主義の間の対立をひとつの軸として見ることができる。共同体主義は、その信念に従って当然の主張として個人の自由を否定し、自由主義者は近代的な個人の自由のために命を懸けて闘った。

 しかし今日では、共同体主義者もまた、自由の名のもとに闘う。通常の右派-温情主義的共同体/左派-自由主義市民社会の図式では割り切れなくなっているのだ。

 例えば、人工中絶やLGBTQの議論では、依然として右派は社会的規制を求め、左派は個人の自由に訴えている。しかし他方、銃規制や人種差別のトピックにおいては右派が自由を主張し、左派が規制の強化を訴えている。人工中絶においては「右派:自由より胎児の命/左派:胎児の命より女性の自由」だが、銃規制では「右派:人命より自由/左派:自由より人命」という構図となっている。これらの現象は、温情主義-自由主義パースペクティブを通して見ると、互いが自己矛盾しつつねじれた形で対立しているように見える。

 実際のところ、彼らは温情主義/自由主義の原則を巡って争っているのではなく、現実的な問題における正義を巡って争っているのである。むしろ正義のためであれば多少の強権と抑圧は必要であるという暗黙の了解が、自由を称揚して闘う左右両翼の一致する点なのである。

 このような背景のため、西側のあらゆる勢力が温情主義/自由主義の対立軸によって白紙革命を評価しようとすると、「自由主義者たる我こそは白紙革命の味方であり、抑圧的な敵対勢力が白紙革命に不要なイシューを持ち込もうとしている」という錯覚を得ることになる。これは、父権主義(権能としての自由-秩序のための支配)/フェミニズム(女性の自由-女性を守るための規制)、民族主義民族自決-民族への画一化)/世界市民主義(普遍的自由-民族アイデンティティの無効化)、宗教的反動右翼(信仰の自由-宗教的抑圧)/急進的社会主義(経済システムからの自由-誤った信念の廃棄)、ウィズコロナ(行動規制からの自由-経済への強制)/ゼロコロナ(感染リスクからの自由-社会的制限)などあらゆる対立軸上で言える。彼らは皆白紙革命に共鳴しつつ、その中で互いに相争うことになる。

 しかし先に述べたように、現代において温情主義/自由主義の対立軸そのものが誤った二分法なのであって、本質は現実的な問題における正義を巡る争いである。それは、現実的な問題の定義を巡る争いである。

現実的な問題とはなにか

 社会運動はいずれも、現実に存在する諸問題に対応するための運動である。しかしそれだけでなく、現実そのものを定義するための運動である。現実的な問題は、そのために闘う人々がいない世界では存在しない。問題を我々が認識できるのは、そのために闘う人々がいるからにほかならない。

 ところが、消された声を代弁することが可能であるならば同時に、存在しない声を代弁することもまた可能である。社会運動と同じ手段で、陰謀論をはじめとした実体のない脅威と被害も措定できてしまうのだ。西側諸国の民主主義の限界は、この民主的手段の簒奪によって引き起こされている。

 これに対し、「白紙」は消された声を消された声として表現する。それは、新たな実体的脅威を措定することなしに、沈黙を強いられている人々の存在を明らかにする。それは、名を奪われたままになっているすべての人々の味方なのである。

 我々はこの空白を安易に埋めるべきではない。白紙革命を西側の社会運動の座標軸に据えるのではなく、白紙革命がそれ自体、西側の社会運動の基底を提供していると考えるべきである。

Be Water:無形の思想の潜在的な射程

 "Be Water(水になれ)"は、2019年香港の一連のデモにおける標語の一つとなり、白紙革命へと受け継がれた、リーダーなし組織なし、敵の出方に合わせて柔軟に形を変え、時には濁流となって突進する、新しい市民運動の精神と理念を表現した言葉である。この運動形態の直接的な意味としては、リーダーや中核的組織の存在は中国公安の格好の懐柔・攻撃対象であることから、運動を守るとともに人を守るためにも導入された。

 この標語のもとであるブルース・リーの「水になれ」という名言の背景には、中国哲学の中でも重要な古典である『孫子』の中核の思想である「無形」がある。この思想は、中国三千年の歴史のなかで幾度となく参照され、注釈が施されてきている。いわば、中国においては"試され済みの"思想である。

 西洋において『孫子』は、軍事思想においてイギリスのリデル・ハートが受容し「間接アプローチ」として形にしているが、それ以外にはまとまって参照された形跡はない。とくに、西洋政治哲学は「無形」とは無縁である。したがって、この思想の射程を西側の政治メディアは把握できていないものだと思われる。

 直接的な政治目標の実現を考えれば、白紙革命は無謀な運動である。西洋政治哲学の地平から見れば、海外でのデモが習近平政権を脅かすことはないし、国内での騒乱が中国人に幸福をもたらすわけがない。しかし、白紙革命を担う中国の人々が無形の思想を忘れなければ、彼らの運動はきっと、中国と東アジアの歴史の延長として、平和と共存をもたらすものになってくれるだろう。なぜなら、『孫子』の思想の究極は、「水になる」とは、敵とぶつかって倒すのではなく、状況を柔軟に受け流し、戦わずして勝つことにあるのだから。