生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

アイドルと戦争についての時代精神

 2022年8月11日に放送されたNHK特集ドラマ『アイドル』の終盤の一幕が、2022年夏クール放送のアニメ『プリマドール』第3話「星空の鎮魂歌」とシンクロニシティを起こしている。異なる作家が同時期に同じテーマ、同じシナリオを選択した以上、これは何らかの時代精神の影響だと考えざるを得ない。そこでこの二つの作品を掘り下げ、背後にある社会的な文脈、共通認識、そして社会共通の盲点を明らかにする。

NHK特集ドラマ『アイドル』と2022年夏クールアニメ『プリマドール』第三話「星空の鎮魂歌」

 2022年8月11日に放送されたNHK特集ドラマ『アイドル』の終盤の一幕が、2022年夏クール放送のアニメ『プリマドール』第3話「星空の鎮魂歌」とシンクロニシティを起こしている。

 『アイドル』では主人公のアイドル「明日待子」が戦時下に中国へ慰問に行き、兵士たちに笑顔と勇気を与える。しかしそれは、笑って生きるためのものではなく、笑って死ぬためのものであった。待子は、戦争に加担し死にに行く人の背中を押したことを後悔し、アイドルの存在価値を問うが、戦地からのファンレターに触れ、再び舞台に上がることを決意する。

 『プリマドール』「星空の鎮魂歌」では、自律人形(オートマタ)の「箒星」が死地に赴く部隊に歌を歌って送り出そうとするが、死ぬための勇気を送ることの矛盾に涙し、以後声が出せなくなる。主人公「灰桜」の働きかけと戦死した仲間からの手紙によって、箒星は声を取りもどす。

 

 このシンクロニシティは決して偶然や超自然的現象ではない。製作期間を考えれば直接的な影響はあり得ないが、『アイドル』の明日待子は実在の人物であり、2017年にBuzzFeed Newsが明日待子本人にインタビューを行い、記事にしている*1。『プリマドール』もこれを元ネタにしている可能性はある。さらに、2020年放送のNHK連続テレビ小説『エール』では音楽家の戦争への加担が描かれており、これに対する何らかのアンサーやアンチテーゼ、あるいは反復である可能性もある。

時代精神

 しかし、これだけではシンクロニシティの説明になっていない。なぜこのテーマ、この筋書きなのか。劇作家がほかでもないこれを選んだのはなぜか。「ありがち」であるならば、そもそもなぜそれが「ありがち」なのだろうか。

 異なる作家が同時期に同じテーマ、同じシナリオを選択した以上、これは何らかの時代精神の影響だと考えざるを得ない。『エール』、『アイドル』そして『プリマドール』を産んだ時代精神とはいかなるものか。少し考えてみたい。

 

戦争に否応なく巻き込まれていく待子の素朴な思い

 NHK特集ドラマ『アイドル』は、前日に放送された『歴史探偵』「戦争とアイドル」とセットで見るべきだろうが、後者は見れていないのでここで書いたことは片手落ちである可能性ははじめに断っておく。

 

 明日待子は十五年戦争*2の時代を生きたアイドルである。

 戦争が進行するにつれて表現活動が規制され舞台の上が不自由になっていく一方で、目の前の人を楽しませたい、励ましたいというまっすぐな気持ちが、無媒介に戦争協力に反転していく瞬間がある。待子の本拠地である「ムーランルージュ新宿座」には出征直前の青年たちが訪れる。待子は彼らを励まし、さらには「自分にできることを」と戦地へ慰問に向かう。

 戦地のファンの前でステージに立つ待子だが、そこで慰問が「兵士を笑って死なせるための仕事」であることを知る。戦地では、アイドルの存在は生きるためではなく死ぬための支えでしかない。死にに行く人々の背中を押してしまったことに、待子は傷つき後悔する。ファンを励ましたいという素朴な思いがゆえに、戦争に加担することになってしまったのだ。

 

「不要不急」のアイドル、必要とされるアイドル

 劇中に、「この非常時において芝居など不要不急」というセリフがある。これは明らかに感染症災害下でのエンターテインメント業界の経験を反映したものであろう。しかしこのセリフは、戦時下の社会の変化の一面を表したにすぎず、のちにアイドルが戦意高揚に必要な存在として描かれることで、反転する。

 

 戦時中、あるいは今般の感染症災害下において、エンタメの位置づけは許容・不要・必要の順番で変化している。

 まずはじめにエンタメは、あってもなくても構わないものとして、許容されている。規制もされなければ奨励されるわけでもなく、個々人の自由に委ねられている。もっとも、「許容」という物言いは禁圧の遡及的な効果によるものであって、このときエンタメは実際には判断そのものがされていない状態にある。

 次に、「非常時」が訪れ、社会的リソースを徴発・管理・動員する必要が出てくると、非常時に役に立たない部門(=エンタメ)はリソースの無駄として積極的な解体の対象となる。不要不急なものはもはや許容されず、禁止される。エンタメは、禁止されるべき不要のものとされる。

 非常時に禁圧されたエンタメは、自身の有用さを主張することで生き残りを図る。つまり、「エンタメは必要」という言説である。しかしこれによって、エンタメは動員体制に組み込まれていくことになる。戦時下には慰問というかたちで戦争遂行に加担し、感染症災害下では人々の行動を制御する言説の媒体となる。

 この過程の最後においてエンタメは生き残ったが、何もかもが元通りなのではない。「エンタメは必要」の言説は、単にエンタメへの欲求の表出ではなく、それが不可欠であることを宣言する点で、許容された状態よりも踏み込んでいる。「エンタメがあれば楽しく生きていける」というポジティヴな言辞から、「エンタメがなければ生きていけない」という切迫した精神状態の表出へと移行している。そして、「非常時」も解消されてはいない。

 

 そもそも、アイドルや「推し」といったものは、そのファンにとって生活の余剰と生活の目的が一致する両義的な存在である。「その人がいれば楽しく生きていける」と「その人がいなければ生きていけない」という両義性によって特別な存在としての地位を持つのである。

 ここで、「その人がいなければ生きていけない」という空間は、ほかならぬ「その人」自身の効果である。恋に落ちるとその人抜きの人生は考えられなくなるが、そもそもその人がいなければ恋に落ちることはなく、「その人抜きの人生は考えられない」ということが考えられえない。

 現実があまりにも厳しいのでエンタメがなければ生きていけないという場合には、このような自己原因的な必要性とは全く異なっている。従軍中の兵士のために娯楽が必要なのは、娯楽自身が自己原因的に創出する需要のせいではなく、全く別の迫りくる危機から気を紛らわせるためである。

 もしも我々がこの意味で「エンタメは必要」と言っているならば、それは我々がいかに死に近いかを暗に指し示してやいないか。アイドルの輝きは、依然として「死ぬための支え」「死んでいるための支え」ではないか。戦時中も現代もアイドルが同じように人々に勇気と希望を与えるならば、現代もまた一種の戦時下ではないのか。

 

 考えるに、「非常時にエンタメは不要不急」という圧力に対しては、「エンタメは必要」「文化は不要不急ではない」という小前提の否定ではなく、不要不急を排除するような非常態勢そのものを否定・批判しなければならなかったのではないか。

 戦争に反対せず加担してしまったことに対するエンタメ業界の悔悟は、『エール』や『アイドル』を通じて作品にも反映されている。しかし、背景や前提を批判するということにおいて、現代に生かされているようには思えない。戦争も感染症も人間の振る舞いに左右されるものであるにもかかわらず、まるで天災かのように扱ってやり過ごそうとしていることは今も昔も変わりない。

 アイドルという純真無垢さの表象は、苦しい時にすがりたくなる。しかしその白さは、その背後を見ないための白さではないのだろうか。

 

箒星のトラウマ

 自律人形である箒星は、戦闘用機械人形の指揮機として製造された。戦争中には実際に支援砲撃機の指揮を行っており、敵兵を殺している(はずだ)が、それについて特段葛藤は描かれていない。彼女はもとより戦争のために造られたのだから、疑問を抱く余地もなかったのだろう。箒星の戦争のトラウマ化は、彼女が戦争における与えられた役割以上のものを背負うようになってはじめて、その可能性が開かれている。

 

 箒星は、従軍中の口慰みに歌を歌っていた。いつしかその歌は部隊で有名になり、「その歌を聞けば、万死恐れることなし」とさえ語られるようになった。箒星は「単なる迷信です。」と言いながらも、厳しい生活のなかですがるものが必要であることには理解を示す。

 箒星の所属する第525歩兵連隊は、激戦で物資も少なくなる中、最後の景気づけとばかりに夏祭りを開催する。その舞台で箒星は、親交のあった尉官から兵士たちへの激励の歌を求められる。次の戦いは厳しく生きて帰る望みがないことを連帯の誰もが理解しており、箒星もまたそのことを悟っていた。

 箒星はリクエストに答えようとするが、勝って生きるためではなく、死ぬための勇気を与えることの矛盾から涙し、歌えなくなってしまう。果たして第525歩兵連隊は全滅、多くの戦友は生死不明となり、箒星はショックから声が出せなくなる。劇中には箒星以外の生存者は登場せず、箒星に歌をリクエストした尉官も戦死していたことがのちに明らかになる。

 

死者からの手紙

 両作品において、手紙がトラウマの克服の鍵となっている。

 『アイドル』においては戦地から届いたファンレター。書き手のほとんどがのちに戦死したであろうことは確実である。『プリマドール』では、箒星に歌を求めた尉官が戦闘前にしたためた手紙。いずれも、待子/箒星の自責の念を解消する、赦しの意味を負っている。

 手紙が示すのは、死んでいった兵士たちは誰も、歌で送りだした待子/箒星を責めてなどおらず、感謝しているという事実である。兵士たちにとっては、厳しい戦況の下で自分たちの死は避けがたく、悲劇に寄り添おうとしてくれた気持ちだけでも十分にうれしいのだ。待子/箒星はこの手紙を受け取ることによって、自分を許し、喪失を悲しめるようになり、再び前を向けるようになる。

 

 しかし、ちょっと待ってほしい。この死者からの感謝の手紙は、イデオロギー的幻想を完成させる偽りの和解ではないだろうか。つまり、戦争のイデオロギーによって組み立てられている待子/箒星と兵士たちの関係は、待子/箒星が兵士を死地に送り出すことに何の負の感情ももたないようになっているのではなく、兵士を送り出した待子/箒星の罪悪感とそれを許す兵士という構図までをも計算に入れているのではなかろうか。

 我々は、待子/箒星が兵士の死に同意しないことで、明示的に死を正当化するイデオロギーに毒されていないことを理解する。しかしまさにそのことによって、イデオロギーが暗黙に隠しているもの、すなわち戦争指導者の責任を見落とす。

 

欠けているものは何か

 「ワルシャワレーニン」という小噺がある。

モスクワのある絵画展に一枚の絵が出品されている。その絵に描かれているのは、レーニンの妻のナジェージタ・クルプスカヤがコムソモール〔全連邦レーニン共産主義青年同盟〕の若い男と寝ているところだ。絵のタイトルは「ワルシャワレーニン」。困惑した観客がガイドに尋ねる。「でも、レーニンはどこに?」。ガイドは落ち着き払って答える。「レーニンワルシャワにいます」。

 

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)』より

 ある表象の排除は、描かれているものの出現のポジティヴな条件として機能する。もしレーニンが絵の外であるワルシャワにいなかったら、ナジェージタ・クルプスカヤはコムソモールの男と寝ることはできなかった。

 

 「ワルシャワレーニン」におけるレーニンと同じように、『アイドル』と『プリマドール』には描かれていないものがある。それは、戦争の加害の面、そして戦争指導者の存在である。これは、既に多くの指摘がある、日本における第二次大戦の扱いが民衆の被害と受難に偏重していること、すなわち往々にして戦争加害と指導者を免責してしまうことに符合している。

 しかし、戦時下に生きた当事者を描いたこの二つの作品について、この点から非難することはフェアではない。戦時下に生きた人々が戦争加害と戦争指導者を認識しないことこそが、戦争遂行の積極的な条件だからである。つまり、明日待子や箒星が戦争加害を直視し、戦況について戦争指導者の責任を自覚的に認識するようであれば、戦争はもはや不可能なのである。

 従って問題があるとすれば、「登場人物たちにはそれが理解できなかった」という演出が、認識の欠如の演出が、欠如していることである。両作品では、「現代の我々から見れば別の選択肢はあるが登場人物はその時代的な制約から悲劇へと進まざるを得なかった」、という筋書きではなく、逃れ得ない苦悩と受難としての、ただのっぺりとした戦争と葛藤が描かれている。欠如の欠如によって、物語は出来事で充満している。

 もしも「ワルシャワレーニン」の題が「ナジェージタとコムソモールの男」だったらどうか。我々は二重の困惑に襲われる。まず、「レーニンはどこだ?」という従来の困惑、そして、欠如の表象(「ワルシャワレーニン」)が欠如していることで「レーニンはどこだ?」という困惑自体が起こらないことに対する困惑。従って、レーニンとナジェージタの事情を知らない人がこの絵を見たなら、何も起こらない。欠如はなく、そこには女と男が寝ているだけである。『アイドル』と『プリマドール』の抱える「欠如の欠如」は、このような事態である。

 であるならば、『アイドル』および『プリマドール』は、うっかり空白を書き込み損ねているのだろうか。

 作劇上の都合としてこの欠如を書き込むのは難しい。というのも、欠如の欠如、現実界の充満こそがトラウマ的なものなのだから、劇中で欠如が表現されるようであれば、戦争の理不尽さの印象が薄くなってしまう。もちろん、戦争をトラウマ的なものの舞台装置として捉えること自体にある種の偏向がある。これは個別の作品の問題というよりも、日本における戦争の捉え方に規定された偏向である。

 しかしむしろ、次のように言うべきなのではないだろうか。つまり、これらの作品における欠如の表象は、それを鑑賞する我々自身なのではないか。我々はドラマに対して客観的な視点にいるわけではなく、ドラマと同じ地平線上に巻き込まれていて、我々自身が欠如の表象、つまり戦争加害と戦争責任の表象であり、我々が鑑賞することではじめてこの二つの作品は完結するのではなかろうか。この二つの作品が、表象やその空白の描写抜きに戦争の悲劇を理解できる我々に宛てられた作品だからこそ、あえて描写されていないのではないだろうか。待子や箒星の視点からでは認識しえなかった現実を、我々自身に見出すべきなのではなかろうか。

 

「よく知っている。だがそれでもやっている」

 現代の我々は、戦争の時代を生きた彼女らとは違い、戦争の根本的な原因と責任の所在を知っている。つまり、昭和天皇ヒロヒトの意思、陸軍の暴走、海軍のメンツ、大政翼賛会、国民の積極的な戦争支持と加担などの事情を知っている。にもかかわらず、そこへの言及を意図的に避け、戦争を背景化する創作は少なくない。『アイドル』も『プリマドール』もその一つと言えるだろう。

 もちろん、そうした作品が全否定されるべきだとは主張しない。しかし、「戦争が、気の狂った軍部と根性なしの天皇が進め、国民が支えたものであることは良く分かっていますよ。でも、そうしたことではなく戦時下の人々の暮らしや気持ちに焦点を当てたいんです」というような動機があるなら、まさにそれこそが、多くの人々を戦争協力へと駆り立てたイデオロギーの機能にほかならない。

 明日待子を見れば分かるように、戦時下の人々でさえ公式のイデオロギーに強く同一化していたわけではない。むしろ公式のイデオロギーからの内心の距離こそがイデオロギーに完全に服従することを可能にするのである。明日待子を慰問に向かわせた動因は、帝国イデオロギーではなく(もちろん、それによって操作されてはいたが)もっと素朴な、人々を思う気持ちである。

 モーリス・ジャノヴィッツエドワード・シルズによる研究*3によれば、第二次世界大戦中のドイツ国防軍の戦意を支えたのは、公式のイデオロギーに基づく洗脳などではなく、軍隊の第一次集団としての効果、要するに戦友同士の絆だったのである。兵士たちは公式のイデオロギーを意に介さなかったが、まさにそのことによってナチスイデオロギーのために最期まで闘うことができたのである。もしもイデオロギーが問題ならば、戦況が悪化しその間違いが明らかになった時点で、戦闘の継続は不可能だっただろうから。

 全体主義は個々人の素朴な内心に手を入れたりはしない。そうではなく、個々人の感情を包摂する文脈を戦争に向けて読み替え、戦争に向けて編成していくのだ。生きたい、友達や恋人を大事にしたい、人のために働きたい、そうした気持ちを否応なく戦争の文脈に回収していくのだ。

 

 こうした、直接的に嘘をつくことのない詐術に抵抗する方法は、その欠如という形ですら作中には見えてこない。これは、現代の我々もまた戦争に抵抗する術を知らないことの反映ではなかろうか。だからこそ、物語のなかでは個人的な葛藤の乗り越えとして糊塗するしかない。これが欠如を我々自身に見出すべきだということの意味である。作品における認識の欠如の欠如は、我々自身の認識の欠如である。

 戦時下での行動を、選択の余地がなかったこととして許されようとしてしまうのが今の時代の限界であり、時代精神である。根本的には、戦争の桎梏から許されたいという願望があるのではないだろうか。

 

 自分がステージに立つことで死ぬ人間がいるかもしれないという意味では、感染症災害下の現在に通じる面がある。こちらでも、単なる個人的な葛藤と逡巡の乗り越えではなく、科学的な感染症対策という、戦争を止めるに当たる仕事をしなければ問題は解決しない。

 ライブイベントにしろ学校行事にしろ、誰もが納得づくであったとしても、依然としてそこには欺瞞が存在する。現代の我々には、偽りの和解を退ける勇気が必要である。

*1:戦時中、兵士たちに夢をみせた元アイドル。97歳「まっちゃん」に話を聞いた

*2:満州事変~太平洋戦争を一連の戦争として位置づけこう呼ぶことがある。

*3:Cohesion and Disintegration in the Wehrmacht in World War II: https://www.jstor.org/stable/2745268