生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

商品の非コミュニケーション化とコミュニケーションの商品化

 名の知れた哲学作家がTwitterで炎上した。どうも、ファミリーレストランでの新しい注文方式を嘆いたところ、人々の癪に障ったらしい。

 たしかに、今さら疎外論で社会を嘆いてみせるというのもいささかナイーブに見えるし、マルクス以下近現代思想のすべてに非科学の烙印を押して葬り去ってしまいたい連中の気持ちも分からないでもない。

 第一の悲劇的な逆説は、メニューが番号管理されるよりもずっと前から、客のほうが卓番号で管理されているという事実だろう。例えばこんな小噺が思いつく。

「なんてこった!食事のメニューが番号で管理されるなんて!」

「何を言ってるんだ、N0013番。俺たちのほうはとっくの昔に番号で管理されてるじゃないか」

 我々は愉快なディストピア住人というわけだ。

 もっとも、これだけのことではここに書くに値しない。書くに値する話は、次の逆説にある。このコミュニケーションの砂漠は、コミュニケーションそのものを温存しようとするために起きている。

 

 飲食店のアルバイト従業員として客と関わるのは、言ってみれば面倒でごめん被りたいものだ(そうでない人もいるのかもしれないが)。仲の良い友人に挨拶をしたり気を利かせたりするのは良いが、仕事のために訳の分からない客を相手に愛想良くするというのはある種人間に対する冒とくがないではない。少なくとも、労働者はその間疎外された状態にあると言える。

 このような視点からは、接客を高度にシステム化するのは好都合である。従業員は記号が命じる通りに料理を運べばよく、「本当の自分」を抑圧して店員を演じる時間は減る。彼らはそのぶん神経を温存して、もっと重要な私的なコミュニケーションに精を出すのである。

 こうした、商品の非コミュニケーション化――ファミレスで提供する商品はもはや幾分かの肉塊に過ぎず、店員のコミュニケーション労働は削減される――はしかし、逆説的に、コミュニケーションそのものの商品化をもたらした。人間的な扱いを受けたければ、追加の料金を払う必要がある。かくして、貧富の格差がコミュニケーションをダイレクトに規定するようになる。

 このような転換は、私的なコミュニケーションに反作用する。いまや、墓掘り人が墓に入る番である。私的なコミュニケーションのために市場から温存されたコミュニケーションだったが、今度は市場のために私的なコミュニケーションが温存されなければならない。友人のくだらない愚痴を聞いてあげたり、付き合っている男の世話をしたりするのは、金を払ってもらうべきサービスに成り代わる。ろくでなしの男に尽くすのは好意の搾取とでも言うべきものとなって、十分な対価がなければやってられぬ(逆に、十分な対価さえあればやってしまう)わけである。

 

 こうして我々は、「あれもこれも」ではなく、「あれもなしこれもなし」の結末にたどり着く。公共でのコミュニケーションは私的理由のために極限まで節約され、次いで私的なコミュニケーションもその交換価値のために節約される。この禁欲によって、コミュニケーションは商品として資本主義社会をまわり始める。

 

 さて、こうした状況に対して、我々はどのように反応するべきだろうか。第一はくだんの人のように、古き良き牧歌的な時代を何としても守り再興を目指すことである。しかしこれは根本的に保守的反動的である。彼らの間違いは二つある。第一は時代は巻き戻らないということであり、第二ははじめから戻るべき場所などないということである。古き時代のコミュニケーションの価値は、それが失われた我々の時代からの憧憬のまなざしによって彩られているのであって、実際のところそれが素晴らしいものだったかどうかは甚だ疑問である。

 思うに、我々はこれを通り抜けなければならない。共産主義を実現するためにはまず資本主義を通り抜けなければならないし、近代社会を実現するためにはまずフランス革命と恐怖政治を通り抜けなければならなかった。これらの事実に怯んで引き返したところで、ただの保守的な共同体主義に帰結する以外にはないのである。従って我々は、このコミュニケーションの砂漠、意味のゼロレベルを通過することで新たに得られるものを明らかにすべきである。そして、その開示の行為が、遂行的に遡及的に、我々が得るであろう当のものをつくりだすはずである。