生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

ロシアによるウクライナ侵略戦争に反対する

 世界に壁はなく、人に差別はない。したがって、私がいかなる国のいかなる人間だとしても、書かねばならないことがある。

 

ロシアによるウクライナ全土への侵略行為は違法・非道である

 現在ロシアが行っているウクライナ全土への軍事攻撃は、国際連合憲章とその理念に明確に反する侵略行為であって、ロシア軍は攻撃をただちに停止し撤退するべきである。

 プーチン大統領が演説で述べた軍事攻撃の大義名分は、いずれも戦争以外の手段あるいは国連安保理を通じて解決せらるべきものであって、軍事攻撃を正当化しうるものではない。

 ゆえに、プーチン大統領は正常な判断ができず狂気に陥っているか、確信犯の戦争犯罪人であるかのどちらかである。いずれにしても、彼の行動を黙認し看過することは、さらなる狂気あるいは悪意を呼ぶことになり、今後の国際秩序や国際連合憲章に定める価値に対する重大な脅威である。

 

私は戦争に反対する

 私はあらゆる戦争に反対する。

 

 戦争反対は、自己成就する言及である。それはその言葉以前には何の根拠も持たず、その声によって未来に自らの根拠をつくり出すのである。

 人類の長い歴史において、多くの人間が平和を願いながらも、沈黙による孤立と妥協のために戦争を引き起こし、また加担してきた。この臆病な善人たちによる悲喜劇は終わりにしなければならない。

 沈黙を破ることは協働と連帯の第一歩であり、戦争反対の唱和は国際的な協調の下での戦争の根絶に向けた欠かすことのできない契機である。

 国際連合憲章等に記される理念は、人類共通の願いであり、人間の集列と受動性からの解放の証である。これらの理念を守る方法は、それについて繰り返し語るほかにはない。

 このような観点から、「戦争反対だけ言っていても意味がない」という言説の誤りが明らかである。こうした言説は孤独と沈黙と無力を再生産し、人間を社会集団の盲目的な自動運動に従属させるものである。彼らは、言葉を生み出す根拠を求めるばかりに、言葉が生み出す力については盲目になっている。

 

軍事による防衛と抑止の論について

 すべての国が自国を十分に防衛するために周辺国を上回る軍事力を持つことは、論理的に不可能である。自国の安全保障をすべて軍事に求めるならば、必然的に世界でただ一つの帝国を目指さざるをえない。ゆえに、複数の国家間の安全保障戦略として個々の軍事力に頼ることはナンセンスである。

 したがって国々は、同盟によって軍事力を担保しようとするが、これも複数の同盟間の同様の不可能性によって世界の平和と安定を体現しない。国際秩序は終わりなき軍拡競争と軍事紛争のもとに置かれることになる。もちろん弱小国家の暴発は防げるかもしれないが、強大な同盟が平和の執行者とは限らない。こうした状況を積極的に目指す理由は何もない。

 ゆえに、軍事力は国際的な安全保障の第一の選択肢とはなりえないことは明らかである。軍事力は常に国家の外交の理念と方針に服するべきである。外交理念を欠いた軍拡の議論は論外である。

 

 誰もが世界で最も強力な軍事力を保有することが論理的に不可能である以上、国際連合憲章51条に定める範囲内の自衛権が実際に行使される場合、少なからず自国領土が戦場になることを引き受けたものであらざるを得ない。そうした自衛戦争は、中国が大日本帝国を相手に戦った自衛戦争であるところの十五年戦争や今回のウクライナのように、多くの国民を巻き込んだ過酷で血みどろの戦いにならざるを得ない。侵略者は戦力の優位を理解して侵攻してくるのであって、これを迎え撃って戦争をするということは、そうしたことを引き受けるということである。もちろん、降伏したからと言って身の安全が保障されるわけではない。侵略はそもそも理不尽な受難である。

 

 明らかに、そうした事態は未然に防がれるべきである。このことから、軍事力には実際上の防衛ではなく侵略の抑止という意義が置かれる。しかし、軍事力による抑止には合理的な程度の効果が見込めるのだろうか?

 悪意の者に対しては、軍事以外の手段で攻撃を思いとどまらせることが可能である。悪意の者は、平和よりも戦争のほうが得られるものが大きいと判断したときのみ、戦争を行うからである。軍事力に対する投資の費用対効果が、その他の経済的文化的な戦争抑止の働きかけのそれと同等以上に見込めるかどうかは甚だ疑問である。

 狂気の者に対しては、軍事力による抑止は端的に意味がない。

 軍事力による抑止論はイデオロギー的側面が強く、十分に実証されているとは思えない。やはり軍事力は戦争に勝つためにあるのであって、そしてどれだけ備えたとしても、すべての戦争に勝つことは不可能である。

 

 軍事力に頼らない平和を目指す以外に、我々にとることが許される積極的な手立ては存在しない。

 

世界平和のために

 戦争を引き起こす悪意と狂気とある種の臆病は、人間の解放と尊重を基盤とした民主的紐帯を通じてなくすことができると私は確信する。

 これは、自由民主主義という単一のイデオロギーによる世界統一ではなく、すべての人間が尊厳のある暮らしを獲得することで達成されるものである。

 

 人間を駆り立てるために欠乏を創出する社会システムは終わりにしなければならない。未来の大人に対して恥辱と屈従を与え、憎悪と復讐心を動力として調達する教育や経済のシステムは破滅的である。

 地球上に70億の人間と1万3000の核弾頭が存在する以上、悪意と狂気を新たに生み出す社会システムはそれ自体が狂気の沙汰である。核弾頭の数をあといくらか増やしてみたところで、事態は変わるはずがない。

 今すぐにすべての狂気と悪意を除くことは難しい。あわれなヴォヴァ・プーチンは元スパイである独裁者として強固な自己規制を持っているであろうし、彼自身として尊重される機会はほとんどないだろう。また彼は民主的紐帯も持たないであろう。彼の運命はひとえに暴力と戦争の結末にかかってしまっている。

 しかし、未来の大人が彼の後を追うのを防ぐことはできる。そのためこそ、絶望や冷笑と戦わなければならない。そのためにこそ、新たな軍国主義の台頭を防がなければならない。暴力と戦争の伝統を蘇らせてはならない。暴力と戦争を追認する言説こそが、暴力と戦争を再生産するのだから。

 

 平和への願いは常に裏切られうる。しかし、裏切られうるからといって裏切るならば、平和は決して訪れない。総すくみ状態を解消するためには、信念を抱いた飛翔が絶対に必要なのである。

 その意味で、日本国憲法の前文と9条の精神は今もなお正当であり、先鋭的な意義を持つ。それは、世界平和のためにわが身を委ねる呼びかけであり、東アジア一帯で戦争を行い甚大な惨禍をもたらした日本にできた唯一の、しかし最も崇高な賭けなのである。この賭けは我々にたいしても為されていることを、忘れてはならない。