生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

君はもうあの唄を聴いたかい?――白紙革命運動によせて

 2022年11月下旬に突如爆発したかに見えた中国広範囲における一連の騒乱は、ゼロコロナ政策の緩和によって一端の落としどころを見つけたように見える。中国国内の大学などで未だ散発的な抗議活動が起きていることはSNSを通じて垣間見えるが、いずれも体制を揺るがすようなものではない。

 グレート・ファイアウォールの外側にいる我々には馴染みがないが、そもそも中国人民には大衆運動の伝統が根付いている。群体性事件と呼ばれるそれらのデモ、ストライキ、集会等々は、百度百科の記載に拠れば、1993年から2003年の間に1万件から6万件に、参加人数が73万人から307万人へと増加しており、決して珍しいものとは言えない。近年でも、例えば恒大集団の債務不履行の際には債権者らが集団で抗議を行っていたのは記憶に新しい。中国の人々の間で社会運動・大衆運動そのものがタブーというわけでは決してなく、むしろ荒波を乗り切って生きていくためには、氏族や友達、仲間たちと結託し、理不尽には抗議し、自分たちの食い扶持を守っていかなければならないのである。

 従って、中国国外における「白紙革命」の扱いは、おおむね過大評価と言える。白紙革命は決して「中国共産党独裁の終わりのはじまり」でも「これまで沈黙していた人々が声をあげた」のでもない。そして彼らが勝ち取ろうとしている「ゼロコロナ政策からの自由」さえも、西側メディアが称揚するほど良いものではないのである。

 しかしそれでも、白紙革命は重要な契機になるであろう出来事である。そして、その影響の地平は、中国人だけにでなく我々にも開かれている。フランス革命に対してハイチ革命があったように、2019年香港デモの経験が2022年白紙革命へと受け継がれたように、白紙革命のエッセンスが未来の日本で芽を出せるように、〈呼びかけ〉として白紙革命を描いてみたい。とりわけ、白紙革命に対する評価を、日本国内の反中主義、日和見中立主義・客観主義・相対主義ブルジョワ自由主義といったどん詰まりの言説に委ねてしまわないことが主な狙いである。

 

Do You Hear the People Sing?

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方法的懐疑から合理的な神秘主義へ――いかにして「信じる」ことは正当化されるか

 安冨歩はその著書『合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)』や『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)』のなかで、マイケル・ポラニーの思想などを背景に、懐疑主義に基づく近代思想を退け、「信じる」ことに依拠した道を進むことを訴えている。

 

 

 

 私はこれまで、方法的懐疑や分割・分析などのデカルト的伝統に基づく合理主義に問題があることは理解しつつも、「合理的な神秘主義」という結論には腑に落ちないものがあった。懐疑がダメな理由は理解できたが、「信じる」でなければならない必然性が分からなかったのだ。ともすれば神秘主義は、未知に蓋をするための欺瞞になってしまう。

 しかし今回、「誤配可能性」(東浩紀)といった概念に関する議論から、「信じる」ことの不可欠性を抽出できたと思うので以下を書く。

 結論から言えば、知や学問が前提としているシステムは、誤謬とその訂正を前提として作動しているにもかかわらず、「信じる」ことを不可欠な要素として要請しているのだ。

 

誤配可能性とコミュニケーションの前提

 「誤配」とは、東浩紀デリダを通して見出だした概念で、メッセージが「間違った相手に」「間違った意味で」伝わることを意味する。この誤配にこそ自由がある、というのが東の趣旨である。

 コミュニケーションは、必ずしも円滑に行われるのではない。メッセージは常に間違って受け取られる可能性(=誤配可能性)があり、間違いを都度訂正することでコミュニケーションは形成されているのである。

 つまり、コミュニケーション・システム自体がフィードバックを前提としていると言える。メッセージの意味は、それを含むコミュニケーション・ゲームによって決定されるのであり、メッセージに固定的な意味はなく、「大他者の大他者はない」「メタ言語はない」のである。

 だが他方、メッセージはその固定された意味を想定しなければ利用できない。言葉が言葉通りに伝わると信じなければ、話すことはできないだろう。

 従って、コミュニケーション・システムは、「言葉が意図された通りに伝わる(と発話者が信じる)こと」と「誤配=言葉が意図された通りに伝わらないこと(とそれを訂正するフィードバック)」の両方を前提としている。前者は話すうえでの主観的な前提であり、後者は言語形成上のシステム的な前提である。言語体系は、この二つの相反する働きによる、動的定常状態のもとにある。

 このように考えると、「言葉が意図された通りに伝わること」を強迫的に追い求めることも、「誤配」「散種」を無際限に称揚することもできない。前者はコミュニケーション・システムのフィードバックによる柔軟な調整を殺してしまうし、後者は言葉の意味を解体してしまい伝達可能性を失わせてしまう。*1

 だから我々は、言葉を疑うのではなく、また厳密に定義するのでもなく、またいたずらに混乱させるのでもなく、ただそれを信じて使うのでなければならない。メッセージは届くかもしれないし届かないかもしれないのだが、神秘的な力によってそれが届くと信じなければ、メッセージは成り立たないのである。

「信じる」重要性のフィードバックシステムへの一般化

 以上の議論は、フィードバックによる修正を前提とした他の社会的システムに一般化できる。その橋頭保として、中国医学を例に挙げよう。

 病因論に基づいて直接的な因果的原因に直接アプローチする西洋医学に対し、中国医学は実践的な経験から検証されるとともに積み上げられてきた独自の知識体系である。これは宇宙技芸*2の一種であり、直接的な因果関係の解明では対処できない複雑系に対処するための智慧である。

 中国医学を運用するためには、その知識体系を信じなければならない。厳密な因果的機序は明らかでないから、懐疑の態度からは使うことはできないのだ。

 他方で、中国医学はその営みの中で常に検証され磨き続けられる必要がある。このような実践知は、経験を知識に反映させなければ蒙昧な呪術に堕してしまう。

 つまりここでは、既存の中国医学の体系を信じつつ実践の中で絶えずそれを改善し練り上げるという、一見相反する二つの信念を働かさなければならない。これは、中国医学の体系を「知を想定された主体」とする「転移」(つまり、ある種の誤認)によってはじめて可能な実践である。

 

 同種のことは国政政治の場面でも言える。目下、国家はあらゆる社会問題を抱えており、今にも爆発して崩壊してしまいそうに見える。そして実際、救いがたい状況にある。しかし、それでも社会を信じて、個別の問題に取り組み、漸進的な修正を続けなければならない。そしてその漸進的な修正によって社会は生き永らえるのだ。これに対し急進的な社会進歩のために社会不信を爆発させる方法をとれば、社会はその前提から破壊されてしまう。

 従って社会制度の維持は、文字通り幻想のもとではじめて可能なのである。これは、国民をひとつの思想に染め上げる保守共同体主義的統治の話ではない。社会の作動そのものが、合理的な神秘主義としての「社会への信頼」に基づいているという意味である。

 つまり、これらのシステムの作動の前提には、そのシステムの正常な作動への主観的な信頼と、システムの改善・訂正が決して終わらないこと、システムがどこかでは失敗し続けることが同時に含まれている。

生きる上での「信じる」

 我々の人生においても同じである。

 我々は世界について厳密に正確な理解をすることはできない。判断の際に懐疑主義を持ち出せば一切が不可能となるから、実践的には自分の信じている信念を信じるほかない。しかしそのうえで、適宜フィードバックに従って信念を訂正していくことではじめて、現実に対応しながら生きていけるのである。

 こうした漸進的なアプローチの問題点として、局所最適解に陥るリスクが挙げられる。人生は最適解を求めるゲームではないが、より良い解を求めた訂正が起こらなければシステムの健全な作動は担保されない。システムの正常な作動のためには、システムが正常であると信じつつ、システムが破断する点を探してまわる必要があるのだ。

 

 自らの知性を信じつつ、未知のものを求め、世界に驚き続ける、十全たる自愛と好奇心を合わせ持った精神。これが、「合理的な神秘主義」に基づいた「信じる」という生き方であると言えよう。

*1:東浩紀は誤配にイノベーションのきっかけを期待し、能動的に誤配を生み出そうと試みている。このことについて、彼は『哲学の誤配 (ゲンロン叢書)』のなかで、誤配は「バランスが重要」と語っているが、これはバランスの問題ではない。能動的に誤配を生み出そうとする意図は、それ自体がメッセージに対する信頼を失わせてしまう。意味深長な言い回しは人の知的発想を触発するが、持って回った言い回しが知的触発のために他ならないと暴露されるとその効果は失われ、深遠な言い回しは単なる戯言になってしまう。

 従って、誤配はコミュニケーション・システムの維持存続に必要不可欠だが、狙って生み出すことはできず、常に活動の副産物として存在しなければならないのだ。

*2:宇宙技芸/Cosmotechnics:香港の哲学者ユク・ホイが提唱する言葉で、宇宙論と密接に結びついた技術のこと。ハイデガー『技術への問い』に描かれるような、破局へと暴走するサイバネティック・テクノロジーに対するオルタナティブとして、文化的多様性に開かれた技術を可能とするための概念である。

緊急記事:「白紙革命」の革命史における歴史的意義と重要性

 新疆ウイグル自治区ウルムチにおけるコロナロックダウン中の住宅火災をきっかけに、上海をはじめとした中国の多くの地域で、また国外で、中国人による抗議運動が広がっている。この一連の抗議運動は、中国共産党習近平体制によるいわゆる「ゼロコロナ政策」による過酷な都市封鎖に対してだけでなく、その事実上の独裁体制にたいする反体制運動の文脈をも含んだ、マルチ・イシューな革命運動になりつつある。

 反体制的な言論に対する弾圧が恒常的に行われて来た中国において、何も書いていない真っ白な紙がこの一連の運動の象徴の一つとなっており、すでに「#白紙革命」「#A4Revolution」といったタグがこの運動を指し示すものとして使われている。

 言論弾圧に対する抗議にとして白紙が用いられるのは、すでにウクライナ侵略に対するロシア国内での抗議で散見された。「ただ立っているだけで」広場から連行されるロシア市民の姿は、プーチン体制下ロシアの抑圧を表す喜悲劇的な一場面として報道された。

 しかし、白紙、この「何もないこと」が革命運動のシニフィアンとして使われることは、今回の中国における運動の爆発が歴史上はじめてのことだと思われる。そこには、革命史的な意義と重要性がある。

 

 歴史上、あらゆる革命運動は、何かしらの宗教、思想、理念、目的によって結集軸を作ってきた。彼らは、体制に対して異なる体制を措定しようと試みるのである。そして、まさにそのことによって、その運動の中心点がアキレス腱となり、ある革命は新たな弾圧体制へと転化し、ある革命は敗北して消えていった。これは、大文字の理念の持つ必然的な宿命と言える。

 68年5月革命を最後に大文字の歴史とともに大文字の革命が解体されると、もはや理念が先行する革命運動は大国の間では見られなくなり、体制の抑圧や理不尽に対するリアクティブなカウンター運動が主流になっていく。その中で革命運動は、マジョリティのマジョリティ性を脱構築することのないマイノリティ運動へと後退し、そしてしまいには特定の集団の権益を巡る抗争に落ちぶれてしまう。一部の女性運動における異常なまでのトランス差別はこの一例である。他方、非列強国の各地での命がけの民主化運動は、今日に至るまで東西冷戦の構図のなかに位置づけられ、その革命的な文脈は希釈され、黙殺されている。そしてよしんば体制転換に成功したとしても、やはり新たな個人崇拝と腐敗が待っている。

 

 なにか形あるものを拠り所とする限り、まさにそれが運動の弱点となり、腐敗のはじまりとなる。従って、真に歴史の決着をする革命が起きるとすれば、それは「無」のために起きなければならない。存在の無、主体の持つ絶対的否定性、バラされた主体によって。

 マルクス=レーニンによるプロレタリア革命は、まさにその「何者でもない者」による歴史の終焉を展望した理論である。もっとも、マルクス=レーニン主義は、プロレタリアートを物象化してしまい、その何者でもなさを貫徹できなかったために、抑圧的なソビエトに帰着した。

 ファシズム運動もまた、ある種の虚無を抱えた運動である。彼らのシンボル、目的、標語には究極的な意味はなく、彼らの目的はたんに支配のための支配である。しかし彼らは、意味のないはずのシンボルの存在によって、崇拝を生み出し、文脈を生み出し、意味を生み出してしまった。そのために、虚無主義を貫徹できず右翼的な共同体主義と結びつき、ナチズムをはじめとした醜悪な帰結を得たのである。

 この意味で、「白紙革命」は、そこに何も書いていないまさにそのことによって、格別の意義を持つ。白紙は、歴史から消された人々、沈黙を強いられ亡き者にされる人々、いないことになっている人々すべての象徴であり、それ自身何者でもないもの=白紙が、「何者でもない者」を象徴しているという、シニフィアンにおいてもシニフィエにおいても無であるような、象徴である。

 また、この「白紙」は、考えられて作られ措定されたシンボルではない。むしろ、弾圧によって言葉を奪われ、何も主張できない無力な状況を、ヘーゲル的な逆説でもって絶対的な反撃の契機としたのである。これによって、白紙は本当に白紙にふさわしいシンボルとなったのだ。

 私は、この「白紙革命」が2020年代以降の革命運動全般を規定するべきだと確信している。これは、人類史の本当の終わりのはじまりになるかもしれない革命である。「白紙革命」を単なる中国人の騒乱に帰すのではなく、世界史的な意義として捉え、まさにそのことによって遂行的に世界史的な意義を与えることで、これは世界的な革命の第一歩になりうるのであり、それ以外の方法でこの革命を成功させることはできない。なぜなら、革命史に見え隠れする絶対的否定性の領域なしには、この運動もまた新たなナショナリズムや派閥政治を引き起こすのみに終わってしまうからである。

 

「      よ!団結せよ!」