生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

倫理への挑戦

 人間の死を要求する暴力に抗い、生きることを選ぶこと、そしてその根拠を個別的な事情に頼るのではなく人類普遍のかたちに求めることは、必然的に普遍的な倫理への挑戦となる。

 

 

 現代日本社会に倫理は存在しない。善悪の判断や道徳は単純な心理的利己主義に回収されて個別化され、社会的正義は集団幻想として処理される。一方で、ルールがルールであるというだけのことで杓子定規に君臨する。大岡裁きなど理想としてすら聞かれない。文学者や知識人は破壊的なコミュニケーションになすすべなく、「大きな物語の終焉」などと言ってむしろ加担する始末であり、その間にも国家システムが人々の命をすりつぶしていく。社会に共通理解としてのヒューマニズムがないために、リベラルは空振りし続けている。人々は己らのタコツボにひきこもり、ただ消費や享楽のために生きながらえている。欲望のために生きているのか生きるために欲望しているのか分からず、この循環が現状追認のために都合よく切り出される。差別はなぜ悪か理解されず、富の再分配は国家システムの維持存続の観点からのみ語られる。そこには倫理や道徳はなく、従って人間もなく、歴史もない。

 むろん、権威を背景とした倫理や道徳が批判され続け、ついに叩きのめされたことは理解している。しかし、外的な価値基準のすべてが普遍性を失ったとしても、内的な倫理は存在しうる。人間は皆、神によって生きていたのではない。人間はその日のパン、それをもたらす雨と大地と隣人によって生きているのである。しかし倫理の不在によって引き起こされる破壊的なコミュニケーションは、そういったものすら台無しにする。文化的文脈の破壊は、人生のすべてを砂漠にしてしまう。私は人間として生きるために倫理を取り戻さねばならぬ。

 

 して、いかにして倫理は普遍たりうるか。そして相互的でありうるか。以下の論考では、人間の個別性と普遍性を接続し、社会的に有効かつアプリオリに要請される倫理法則を求めて議論を展開する。既存の倫理学が抱える弱点や欠陥を一挙に解決し、虚無主義者や冷笑主義者共の屁理屈を許さない統一的な体系の形成を目論む。善という概念の絶対的な側面と経験的な側面、自由と道徳義務の矛盾、個人的倫理と社会的道徳の対立などを、「学習」という概念によって総合し、コミュニケーションの階層構造において言語としての倫理と行為としての倫理を位置づける。

 その際、存在論に深く立ち入ることはしない。これは私の能力に余るものでサルトル実存主義の到達以上の結論は出そうにもないし、学習は暗黙の次元で事実として行われていればよく、その実際の様態は問われないからである。我々とは全く異なる認知パターンをする知的生命であっても我々と同じ倫理を持ちうることが重要なのであり、それこそが真の普遍性を担保する。我々と世界とのかかわりだけが問題なのであって、我々の内的な情報処理は私の関心の対象ではない。