生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

生きるとはどういうことか/生きるとはどういうことか、とはどういうことか

 さて、生きる言い訳をするというのだから、まず生きるとはどういうことかを明らかにするのが当然の仕事に見える。

 

生命とはなにか

 「生きる」という動詞から生命、生物という名詞に無批判に飛躍するのは避けたいところだ。しかし、運動よりも性質のほうが記述しやすいから、とっかかりとしてまず先に生物とは何かを考えてみるほうがよいだろう。

 残念ながら生命には確定し統一された定義は存在しないとはいえ、多くの学者が同意するところの生命を特徴づける性質は主に次の三つである。

  1. 細胞構造
  2. エネルギー代謝
  3. (細胞レベルでの)自己複製

 より多くの要素を生命の定義として要請する意見に対応するためにこの三要件をより抽象化すれば以下のようになる。

  1. 外界との境界を持つ
  2. 外界とかかわる
  3. (個体および種の)存続のための再生産の仕組みを持つ

 

外界との境界を持つ

 生物はすべて、細胞においては細胞膜に囲まれ、個体においては外皮に囲まれている。生物は外界から隔たっていなければならず、隔たっていなければそれはもはや世界の従属的な一部分でしかなく生命たり得ない。

 これは、物理的な隔たりだけを意味するのではない。後述の「世界と関わる」という意味で、情報やエントロピーの次元でも外界と隔たっていることが条件となる。隔たりがなく、外界と生物の秩序の差異がなければ生命現象自体が生じ得ない。外界との境界は、生命という存在の前提として要請される。「外界との隔たりを持たない生命」は形容矛盾である。

 外界との境界は、生物の独自のシステムの存在を示唆する。生物は化学反応や熱力学法則の因果性に厳密に従うが、化学反応や熱力学法則だけで生物を説明するのは不可能である。循環器系や消化器官などの組織を説明するためには、基礎的な物理化学の法則を前提としたより高度な秩序を把握しなければならない。生命は、無生命の世界を前提としたより高度なシステムであり、無生命とは秩序の階層を異にしている。このようなより高度な階層の秩序の出現を「創発」と言う。

 

外界とかかわる

 生命の定義として、少ない要件を要請する場合は「エネルギー代謝」だけが、発展的な生物を考えるときはさまざまな機能が要請されている。ここでは、「ものを食べる」「環境に適応する」なども含めて「外界とかかわる」と一括して説明を試みる。

 外界とかかわるということは、外界と生物自身の論理がふれあい、外界からもたらされる刺激を情報―違いを生む違い―あるいは意味として処理することである。

 外界の力に完全に左右される物体は、生物ではない。これは例えば石ころなんかがそうであり、石ころは厳密に物理的因果律に従う。また、外界から全く影響を受けない物体ももはや生物ではない。そんなものが存在するならばそれは現実を超越している。

 では生物は外界の力に対してどのような挙動を示すのか。例えば、石ころに向かって光を照らしても何も起こらないか石ころの表面が受けたエネルギーによってごくわずかに変質するだけだが、植物に向かって光を照らすと植物は光のほうへ向かって成長する。このさい、光が植物を自分のほうへ引っ張ったわけではない。むしろ植物が、光を好い刺激と解釈し(なぜなら植物は光合成によって栄養を得るため、光を好むものとして生まれるから)、より光を得られるほうへと成長したのである。ここで働いているのは植物の論理であって物理的因果法則ではない。

 また、植物にとって光は光合成のための意味を帯びて現れるが、植物以外ではそうではない。例えば、犬を光で照らした場合、それが心地よければ犬は日向ぼっこをするかもしれないし光が強すぎるなら日陰を探すかもしれない。それは光合成のためではなくて、例えば体温を一定に保つのに役立つためである。植物にとって光はエネルギー源として現れるが、犬にとって光は例えば熱源として現れる。物理的な意味ではどちらも同じだが、植物は光によってエネルギーを生産し、犬は光によってエネルギーを節約したりより多く消費したりする。同じ現象でも異なる生物によって異なる意味を帯びる。

 このように、生物は独自に世界を解釈する。むしろ、生物の感覚器官はその生物が必要とする意味を認識するようにできている。より単純な生物はより少ない「意味」で事足りるのでより単純な世界に、より複雑な生物はより多くの「意味」の現れる複雑な世界に住んでいる。意味のない情報は認識されない。例えば、ダニにとってはネズミも猫もライオンも同じ「毛が生えていて血が流れている、二酸化炭素を吐き出す暖かい物体」である。彼らに対して現れるのは物理的因果律ではなく、それらの現象の「意味のトーン*1」である。その世界において生物は世界とかかわるのである。そこでは世界は生物の機能環にしたがって環世界として現われるため、生物の性質の実在が要請される。人間の感性もまた人間の身体の実在に基づくものであって、観念論はこれを説明しえない。

 

存続のための再生産の仕組みを持つ

 細胞を再生産しない生物は短期間で死んでしまうし、何らかの方法で新しい個体をつくらない生物は種として保存されないから、私たちの知る生物はすべて細胞を再生産するし生殖によって親個体から生まれる。だからといって、すべての生物が細胞分裂し生殖するというわけではない。何らかの障害によって細胞分裂を行わない生物があったとしてそれがいくら短命でも生物であるし、生涯生殖をおこなわなかったりあるいはラバやレオポンのような生殖能力の低い一代雑種も生物である。

 したがってこの条件は、生命の定義というよりは生命の存在の実際的な条件である。より一般化すれば次のようにできる。

 独自の高度な構造を持つシステムには期待値としての寿命が存在する。老化は真核細胞生物だけの現象だとしても、生物は活動のなかで捕食されたり傷ついたりする。それによって独自の構造が失われないでいるためには、自己再生産システムが必要なのである。現実的に、生きるためには再生産しなければならない。

 

 

 これまでに見たことから、生命の三条件は、単に並列な定義要件ではなく、質的に異なるレベルの条件だと考えることができる。第一の定義である境界はその形式的な前提として、第二の定義である世界とのかかわりはその活動として、第三の定義である自己再生産は現実的な存在の条件として。このようにしてみると、生命の定義の中でも中核となるのは第二の定義である「世界とのかかわり」であるように思える。

 

 このようにして生命の定義を抽象的に解釈することで何を得たのか?生命を物質的な様態ではなく活動として、その形式においてとらえたことで、未知の機構を持つ地球外生命体や、物質的な肉体の要請から自由な理性的存在者についても、同様に捉えることが可能である。例えば、人間の自我もまたこれと同じ構造を、分子化学とエントロピー代謝ではなく、情報と記号において持つのではあるまいか。自我はそれが実際にどのようなものであるとしても、外界とそれ自身のあいだに境界を持つ。それがなければ、彼は世界と一体になって世界に溶けてしまう。自我は世界と関わる。暗闇の中にいるだけでは自我は働かない。自我は世界に応じて自分を作り変える。自我は私が何者であるか確認するたびに自己再生産をしている。

 

生きるとはどういうことか、とはどういうことか。

 さて以上のことが明らかになっても依然として、私がなぜ生きるのかということは一つも明らかになっていない。ヒュームの法則の教える通り、事実から意志や規範を導くことは不可能である。もう一つ段階を進める必要がある。

 すべての生物は生きるということを理解せずに生きている。彼らは自身について理解もしていなければ、言い訳もしない。生きるためには、生きることを理解する必要もなければ、生きることについて言い訳する必要もないのである。であるならば、生きるために生きることについて考える、という時点ですでに何らかの特別な状況にあることが明らかだ。私は、単に生きていて生きることについて考えているのではない。私は生きるために考えなければならなかったのだ。その状況にこそ問題が存在する。

 なぜ生きることを問うのだろうか?それは私が生きているからである。そして、死にたくないからである。殺されたくないからである。生きるか死ぬかの選択は、巨大な暴力を前にしてしか現れない。純粋に形而上学的な理由によるものを除いては、あらゆる自死は直接的あるいは構造的暴力による殺人である。「私が」生きるというこの個別的な問題においては、生きるとは死なないという意味である。そして、殺されないという意味である。この問いの存在の明らかにするところは、死を選択するよう迫る暴力が存在するということである。

 荒唐無稽だろうか?社会にはそのような暴力など存在せず、私は神経症患者なのだろうか?それならば、特攻隊はどうなる。靖国の精神はどう説明をつけるのか。「働かざるもの食うべからず」という言葉が暗に含んでいるものは何か。学校でのいじめは単に「子どもの残酷さ」故なのだろうか?であるならばなぜ大人の行うコミュニケーションはほとんど媚び諂いかパワハラの調子を帯びているのだろうか?なぜ正気に見える人間も時として常識という名の抑圧に加担するのだろうか?なぜ名指しされた差別(人種差別、性差別、障がい者差別など)が未だ存在し、名指しされもしない差別(学歴差別、非正規差別、ひきこもり差別(蔑まれるのは当たり前だろうと思うのなら、お前こそが差別者なのだ))が存在するのだろうか?なぜ、人は人をそのまま生かしておくことができないのだろうか?なぜ、排斥の末とうとう放火殺人に及ぶ人がいなければならないのか……。

 ところでしかし、暴力があろうが選択はすでになされている。私は今生きている。何を言おうとも何を考えようとも、すでに私は生きるという選択をして今ここにいる。ここにおいて、なぜ生きるのかという問いの答えは事後的な言いつくろい、まさに言い訳でしかない。しかしそれは同時に、生を讃える詩であり祝福であり、死を迫る暴力に抗した証でもある。

 

参考文献

Wikipedia該当項目(日/英)

大島泰郎『生命の定義と生物物理学』(2010年生物物理50巻3号)https://www.jstage.jst.go.jp/article/biophys/50/3/50_3_112/_pdf