生きる言い訳

「なぜ生きるのか?」「いかに生きるべきか?」という問いに正面から挑戦する、哲学・倫理・思想ブログ

なぜいまブログか

 Evernoteに延々、書き連ねることを続けてきた。

 それはそれで実りがあったように思う。しかし、そうした内的な精神活動は実際の社会に対して何の力も持たない。自身の中で異常に発達した思考回路は、箱の外では無力だった。私は、根腐れを起こしかけている私の考えをより風通しの良い場所へ移す必要がある。

 Twitterではダメだ。あそこではすべてがダメになる。長い文章を、落ち着いて、人が読める形で意識的に書き出せなければならない。それこそが私の考えに力を持たせるからだ。この事業が完成した暁には、もう私は現実世界で一切の言い訳をする必要がなくなるし、他人に対してあれこれ喋りかける必要もなくなろう。要するに、精神と時間の節約になる。

 現代社会は人々の行為に逐一言い訳を要請する。言い訳とはつまり手段の目的のことで、目的がなければ何もしてはいけない。目的もなく何かをする人間は狂人かそのたぐいだ。挙句の果てに「生きる意味」だ。この頭痛の種は間違いなく現代の技術社会に根差していて、それが我々に生きる言い訳の提出を要請する。この挑発に乗ってはいけない。これに乗ってしまうと途端にひとは、目的と手段の連関に吸い寄せられ、機械の部品のようであることが運命づけられ、そして自身の運命を愛しながら死んでいくことになる。憧れや欲望や執着はしょせん駆り立ての道具でしかない。しかし、このように「悟る」と、あいつらはこう囁く。

「じゃあ死ねば?」

 私は自身の存在を賭けてこれを論駁しなければならない。 本来、この論駁に言語や近代的思考は必要ないはずだ。存在の絶対的な肯定は言語活動以前の問題だからだ。しかし、非言語的表現を現代人は絶対に理解しえないし、神秘や宗教などでは真に受けてもらえないだろう。従って、あくまで明示的かつ論理的な手法に依ってこれを成し遂げる必要がある。もっとも、これは理論的な後ろ盾=言い訳にしかならないだろう。存在の神秘は体験によってしか理解できないし、そのような体験でしか人間を心変わりさせることなどできないからだ。だから、もっぱらこの文章は私自身の自衛のためで、役に立つとすれば同じ境遇の後ろ盾を持たない者へのささやかな援護にとどまるだろう。もし役に立たないとしても、私は私の道徳に従ってこれを贈ろう。

 

 このブログは、私自身の思考の整理のために綴る。そして、友人たち、これから出会うであろう人々、それから、世界のどこかにいるかもしれない別の私に向けて贈る。